小栗上野介の業績(東善寺)  遣米使節団の業績

遣米使節の業績


2002(平成14)年11月20日、NHK「その時歴史が動いた」で「改革に散った最後の幕臣 小栗上野介」が放送されると、「一本のねじから日本の近代は始まった」というサブタイトルがきいたのか、おまいりにおいでの方が口々に「感動した」「ねじを見せてください」「「ねじはどこ…」と言われる。
 
 小栗上野介が欧米の近代文化のシンボルとして持ち帰ったねじ釘は、たしかに寺に保管されているが、ねじくぎ1本持ち帰ったらすぐに近代化が始まった、というほどことは簡単にゆかない。「このようなねじ釘を、どんどん作れる国にしたい」という小栗上野介の思いを実現できる施設が必要となる。

 国際レースにたとえればこれは「近代化」という長距離種目。このレースの特徴は一斉スタートではなく支度の出来た者は先に走り出していい種目。欧米諸国がとっくにスタートを切っていて、背中も見えないくらい遠くへ走っているのに日本はまだスタートラインにもついていないことを痛感したのが遣米使節の旅だった。スタートラインにつこうにも、参加する支度が出来ていないのだから、いったいどこから手をつけたら支度ができるのか、と考えるのがまともな政治家。
それが小栗上野介だった。


「小栗豊後守はアメリカの進んだ文明の利器を日本に導入することに大賛成である、と言われている」ニューヨーク・タイムズ(1860年6月22日付)

…と、ただ一人こう紹介されている。


ウィラードホテル(ワシントン)  使節一行が泊まったホテルは、水洗トイレつきで、地下室では蒸気エンジンによる洗濯機が動き、部屋ごとの電信機など当時最新の設備を備えていた。このホテルの経験が株式会社組織による「築地ホテル」建設の構想につながる。


使節が泊まったときのメニュー表紙より
建物はその後改築されて上の写真のようになった。

そのヒントとなったのが、ワシントンの海軍造船所見学。ここはたんなる「船を造るところ」ではない。製鉄された銑鉄を運び込んで溶かすと、蒸気機関・パイプ・シャフト・歯車・ネジ・ボルトから大鉋・ライフルなどあらゆる鉄製品・部品・工具を作るたくさんの工場が並び、その向うで「船も」造られ、修理される総合的な工場だった。
 「日本もこういう施設を作れば、スタートラインにつける」と小栗上野介は確信したに違いない。横須賀造船所建設のヒントはここにあった。
 下の写真がその見学が終わって出て来たときのもの。前列右から二人目の小栗上野介は「どうしたらこういう施設を日本に導入できるだろうか」と考え始めた顔である。



ネジ釘
小栗忠順がアメリカ土産としたネジ

たぶんワシントン海軍造船所でもらってきた一箱であろう

               ワシントン海軍造船所見学 1860・萬延元年4月5日
 この見学がヒントとなって横須賀造船所が生まれ、「横須賀は日本近代工学のいっさいの源泉」(司馬遼太郎『三浦半島記』)=日本の産業革命の地となってゆく。日本に近代工学をもたらす契機となった記念すべき写真といえよう。
(参考:横須賀一覧図を読む


           遣米使節一行の熱意

 この見学の後遣米使節一行は、ニューヨークへ行ってからも造船所見学をしたい、とアメリカ側に積極的な申し入れをしている。勘定組頭森田清行の記録によると、

帰国の船ナイアガラ号に乗るためにニューヨークへ回るなら、我々はニューヨークのサンデフック造船所に滞留したい」、

とアメリカ側に申し入れている。

わが国の第一の急務は海軍を開くことだから、海軍の創設に役立つよう、造船所の施設や工場機械の機構、操作をゆっくり見学したい。そして長いこと船旅をしてきて身体がなまっているから、雑踏の街中でなく清閑の地をゆっくり歩いたりして身体をならしたい(「遣米使節史料集成第一巻」付録「亜行船中并彼地一件」)

と説明し、さらに、造船所に大勢を受け入れる宿泊施設がなければ、ナイアガラ号でも河船でもいいから滞留して毎日造船所を見学したい、とその熱意を伝えている。



■ 
勝海舟をここに登場させたNHK大河ドラマ『いだてん』
2019平成31年2月10日第6回放映の場面、嘉納治五郎が金栗四三に語りかけるシーンで上記の画像を流し、画像にかぶせて

 『かの勝海舟先生が、日米修好通商条約を結ぶに際しアメリカに渡ったとき、日本人の使者はちょん髷に羽織袴、腰には刀を差していた。そりゃあ山猿と笑われただろう。たかだか50年前の話だよ……』

と笑いものの例にしている。

 問題点
1,いまだに「勝海舟が遣米使節、という錯覚」の勝海舟神話に惑わされ、そのまま堂々と放映しているNHK。これで「勝海舟がワシントンに行った」と錯覚する日本人が増えたことだろう。
2,この見学を契機として小栗上野介が帰国後に提議し、建設された横須賀造船所が日本産業革命の地となったことを知らないまま、この記念写真を「山猿の日本人」の例として貶おとしめている。

 司馬遼太郎はこの記念写真で堂々とした気品をあらわしている武士たちの姿をたたえ、ついでに明治5年の岩倉米欧使節団の写真を「品下がる」と切り捨てている。「成り上がり者、品がない」ということであろう。
 

遣米使節団の業績を矮小(わいしょう)する学者

◇ 明治以後の歴史書・教科書はこの大事な写真を無視するかせいぜい「ワシントン上陸後の記念写真」ていどの扱いですませてきた。それは明治以来150年間の学校教育において、幕府政治は遅れた封建政治―日本を近代化したのは明治政府、とする幕府政治否定教育を基本としててきたからであろう。その風潮は今も続いていて、たとえば次のように「ただの観光旅行」と評する歴史家がいたりする。

ただの観光旅行」
「川路(聖謨)、岩瀬(忠震))、永井(玄蕃)が行っていれば、、もう少し新しい何かを収穫して帰ったであろうのに、新見(正興)、村垣(範正)、小栗では、ただの観光旅行になってしまった」(勝部真長著『勝海舟』PHP出版・平成4年) *勝部氏はお茶の水女子大学教授 

◇ このような矮小評価の始まり徳富蘇峰の次の文章と見られる。
 アメリカ側は使節一行に、ほかの都市でも来訪を期待しているから訪問し、さらにはロンドンやパリまでも送るから訪ねることをしきりに勧めた。

「華盛頓ワシントン市中は勿論、合衆国の諸部落はいづれ成共なりとも、御覧ごらん御座候ござそうろう事差支さしつかえこれ無く候間そうろうあいだ、御都合次第御案内申上候。御見物行はせらるべく候。
 
 と彼方
かなたから申し入れている。さればこれは全く彼方の好意といわねばならぬ。もちろん各地においては、ただ珍客として、その好奇心に駆られたるの歓迎であったとはいえ、さればかれらはすべからくこの見学を十二分になし遂ぐべきであった。しかるに彼らがせっかくの好意を、かく面倒そうに断ったのは何故であろう。もし新見・村垣の代わりに、岩瀬などが来たらば、恐らくは此方こなたよりどしどし押し出して見学の利をあくまで取得したであろう。」(徳富蘇峰『遣米使節と露英対決篇』

◇ 帰国を急ぐ心情 遣米使節に代って弁護すれば、この時の使節一行の心情としては、徳川幕府始まって以来はじめての正式な遣外使節の派遣であるから、
「素もとより使節の任はてければ、とく帰りて復命をいそぎ、鎖国を開きて初はじめての航海なれば、我わが大君をはじめ、国人心安からねば、帰程を急げるとてさまざまに断りけるが…」(村垣範正『遣米使日記』)
…とあるように、
1,批准書交換の任務が済んだ以上、一日も早く帰国して報告するのが武士の心がけの基本。
2,初めての遣外使節で、無事帰国を心配しているであろう幕府や留守家族を安心させたい。
3,攘夷の風潮が激しい日本に帰るのであるから、任務が終わったあとあちこちを物見遊山して来たと取られることは以後の対外国交渉においてどんな妨げになるかもしれない。

  …といったところが当時の武士の心情であろう。実際に帰国した使節に対して、ボルチモアやフィラデルフィア、ニューヨークを経由してきたことすらも物見遊山してきた、と非難する声があったと言う。
 

◇ 徳富は上記の前段で小栗上野介に対しては

「この一行にもし岩瀬があったならば、いかに多大の獲物を携たずさえて帰朝したであろうかと思わるるが、新見・村垣の両副使は、別段それほどの獲物も齎もたらし来たったとは思われなかった。ただその目付として同行したる小栗忠順に到りては、じつにその人を得たるものにして、彼はこの十ケ月間の旅行中、その見聞より得たるところ、すこぶる多大であったであろう。」(徳富蘇峰『遣米使節と露英対決篇』

 …と岩瀬忠震ただなりを評価し、小栗上野介に一目置いた記述をしている。

◇ここで徳富の文を下敷きにしたと思われる冒頭の勝部真長の文章を対比すると

新見(正興)、村垣(範正)、小栗では、ただの観光旅行になってしまった(勝部真長著『勝海舟』PHP出版・平成4年)

…と、小栗上野介も加えて矮小評価していることがわかる。

 孤軍奮闘の小栗上野介

 「一行が帰国した当時は、桜田門の事変のあとで鎖国攘夷を叫ぶ声がさかんとなり、ほとんどのものが口を閉ざ して米国の進んだ文明を語ろうとしなかった。小栗ひとりはばかることなく米国の進んだ文明の見聞を説き、政治・軍備・商業・産業については外国を模範とすべきだ、と遠慮なく論じて、幕府のものたちを震え上がらせた
(福地源一郎「幕末政治家」)

 小栗上野介が主張し続けて、元治元年に造船所建設が認められ、慶応元年(1865)に横須賀造船所の建設に着工した。



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遣米使節 世界一周の旅
本:遣米使節 「小栗忠順従者の記録」
ファスニングジャーナル誌(リンク)
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