咸臨丸神話       咸臨丸神話は教科書から・・・戦前の国定教科書で教えた勝海舟・咸臨丸




〈修身〉の教科書が作りだした
「咸臨丸神話」


 一般に日本人の間では、咸臨丸についての二つの虚構が喧伝され、それがそのまま史実と錯覚されている。その錯覚の根源をたどると、大正期から昭和20年までの国定教科書、それも歴史ではなくて修身の教科書に行きつく。

 日本人は「遣米使節」を知らなくても「勝海舟」「咸臨丸」の名は知っている。なぜそうなったのか…、調べると意外な事実が判明した。
結論から言うと、
・戦前の日本人は国定の歴史教科書で「遣米使節」「勝海舟」「咸臨丸」をいっさい教えられていない。
・戦前の日本人は国定の修身教科書で「勝海舟」「咸臨丸」の話(だけ)を教えられていた。

まず結論をいえば、
日本人は大正7年以来、小学校の国定修身教科書で、勝海舟と咸臨丸の誇張脚色された「お話」だけを教えられて、戦後も「それが歴史だ」と錯覚していたことになる。
日本人が遣米使節小栗上野介の業績を理解するには、今の歴史教科書及び副読本の「遣米使節」の説明に使われている(遣米使節が乗らなかった)咸臨丸の絵をはずす必要がある。

国民的誤解の例

おかしな記念切手

▲「日米修好通商百年記念」(1960・昭和35年)
に郵政省から発行された切手が、
遣米使節が乗っていない「咸臨丸」の絵だった。

「遣米使節が咸臨丸で渡米した」と誤解する日本人を
また増やしたことだろう。


左:ホワイトハウスで批准書を渡す遣米使節
右:遣米使節が乗らなかった咸臨丸     


 戦前の国定教科書における記述を見ると下記の表のように歴史教科書ではほとんど遣米使節・勝海舟・咸臨丸に触れていないのに、修身教科書で大正7年から昭和20年まで勝海舟・咸臨丸が教えられていた。

・大正7年~昭和20年の修身教科書に勝安芳と咸臨丸の話がセットで登場する。
・基本的にいえば、遣米使節の事績は小学校の歴史教育で扱うほどの重要度があるとは思えないから、歴史の教科書に登場しないのはやむを得ない。
・しかし、下記の表で見るように修身の教科書で、遣米使節の乗ったポウハタン号にサンフランシスコまで随行しただけの咸臨丸を誇張と虚構を交えて取り上げ、その前課の勝海舟の勉学ぶりとセットで喧伝したから、国民は「咸臨丸神話」を歴史と信じ、「遣米使節勝海舟が咸臨丸で日本人初の太平洋横断を成し遂げた快挙(    は誤り)」と誤解したことがわかる。

・そしてこの誤解が結果的に「日本人初の世界一周をした遣米使節」や、日本の産業革命の地・横須賀製鉄所は「遣米使節のワシントン海軍造船所の見学から」発想されている史実を、覆い隠している。

国定教科書
第1期・明治36年~第5期・昭和20年まで(27年間)
期(改定)
 歴史教科書  修身教科書
遣米使節 勝安芳 咸臨丸  遣米使節 勝安芳 咸臨丸
第1期
明36年~)
記述ナシ ナシ ナシ 記述ナシ ナシ
「勉学」
リンコルン
ナシ
「勇気」
高田屋嘉兵衛
第2期
(明43年~)
ナシ ナシ ナシ ナシ ナシ
「勉学」
新井白石
ナシ
第3期
(大正7年~)
ナシ ナシ ナシ 少々
「勉学」
勝安芳の話
A型
「勇気」
咸臨丸の話
C型
第4期
(昭和9年~)
ナシ ナシ ナシ ナシ 「勉学」
勝安芳の話
A型
「勇気」
咸臨丸の話
C型
第5期
(昭16年~昭和20年敗戦まで)
ナシ ナシ ナシ ナシ 「勉学」
勝安芳の話
B型
「勇気」
咸臨丸の話
D型
・「修身」の第1期では…「勇気」で高田屋嘉兵衛、「勉学」でリンコルン(リンカーン)の話を記述している。
・第2期では…「勉学」で新井白石の話を記述。

・第3期以降の修身教科書では・・・「勉学」の勝安芳の話のあとに「勇気」で咸臨丸の話を掲載し、両者がセットとして読める構成となっているので、ここでは咸臨丸だけでなく「勝安芳の話」も検討する。
・「勉学」の勝安芳の話は 第3期 と 第5期 では基本的内容に違いが見られるので A型ーB型 と分けた。
・「勇気」の咸臨丸の話も 第3期 と 第5期 では内容に違いがあるので C型ーD型 と分けた。



修身教科書における 「勉学」勝安芳  の話の疑問

   第3期A型 と 第5期B型 の話を読み比べるとその違いが顕著すぎて、
どちらが本当の話か、
何を根拠として出来た話か、という疑問がわく。


             ○第十四課 勉学    (『尋常小学修身書』巻五・第3期国定教科書より
                    
       *太字は…第5期教科書B型の話と違いがある個所

 
勝安芳(やすよし)は若い時、西洋の、良い兵書を読みたいと思って、しきりにさがしてゐましたが、其の頃、舶来の書物は少くて、なかなか手に入りませんでした。或日、本屋でふとオランダから新着の兵書を見つけました。見ればなかなか良い本で、ほしくてたまりません。価をたづねると五十両とのことです。安芳は其の頃大そう貧乏で、とてもそんな大金は払へません。家に帰っていろいろ考へた末、あちこちと親類などに相談して、十日あまりもかかって、やつと其の金をこしらへました。すぐにさきの本屋にかけつけますと、本はもう売れてしまってゐたので、がっかりしました。

 しかし、どうしてもそのまゝ思い切ることができません。そこで買った人の名を聞いて、やっと其の家をたづね出し、わけをくはしく話して「ぜひあの本をおゆづり下さい。」と頼んだが、持主はなかなか聞入れません。「それでは、しばらくお貸し下さい。」と言ふと、「それも出来ません。」とことわられました。

 安芳はしばらく考へて、「あなたが夜おやすみになってから後でなりと、どうかお貸し下さいませんか。」と折入って頼むと、「それ程に御熱心ならば、見せて上げませう。しかし、外へ持ち出されては困ります。」と言ふので、安芳は次の夜から持主の宅で写させてもらふこと                 
にしました。               

 それから毎夜1里半もあるところを通って、雨が降っても風が吹いても、約束の時刻におくれたことがなく、半年もかゝって、とうとう八冊の本を写し終わりました。

 其の時、意味の分からないところを持主に問ひますと、持主は、「お恥づかしいことには、私はまだ読終らないので、お答へが出来ません。それにあなたはこれを写して、其の上そんなにくはしくおしらべになつたのは感心です。私のやうな者が此の本を持ってゐても、益のないことですから、あなたに差上げます。」と言ひました。

 安芳は、「私は写させてもらったのでたくさんです。二通りはいりません。」とことわったが、無理にすゝすめられるので、とうとうもらひました

 安芳はかやうに学問に励んだので、後にはりっぱな人になりました。
                          

                  疑  問   
             
第3期A型と → 第5期B型 の違い

1、書物の種類    オランダの「兵書八冊」が  →   外国の辞書一冊に変わっ                                ている
2、値段       オランダの兵書八冊・五十両 が → 外国の辞書六十両 に 
3、借金       お金を親類からの借金で用意  →  親類知人に借金を断られた 
4、場所       持主の家に夜に通って写した  →  借りてきて写した  
5、期間       半年で写し終えた       →  一年以上かかった 
6、二冊       兵書をもらって二冊になった  →  辞書を二冊分写して一冊を                              売った
7、勝海舟の次の手記はこの話とどうかかわるのか。この手記をもとにした話なら、なぜ初めから「2冊筆写した」としなかったのか。
 
 「嘉永元年八月、手写蘭学辞書の後に記す・弘化四丁未秋、業に就き、翌仲秋二日終業。予、この時貧骨に到り、夏夜無冬夜無衾、唯、日夜机に倚りて眠る。しかのみならず、大母病床に在り、諸妹病弱、事を解せず、自椽を破り、柱を割りて炊く、困難爰に到る。又、感激を生じ、一歳中二部の謄写成る。その一部は他に嚮ぎ、その諸費を弁ず。嗚呼、この後の学業、その成否の如き知るべからず、期すべからざるなり。   勝 義邦記」(『勝海舟全集 別巻2・海舟別記』)

   考 察
・話が変わったのは…第3期と第5期、どちらの話が真実ということではなくて、そもそも原典が具体的なものでないから、両方とも創作・脚色が出来たのではあるまいか。

・兵書→辞書…一説に辞書はオランダの辞書「ヅーフ・ハルマ」という説もある。ところが、そのヅーフハルマについて勝海舟が語るくだりでは、すぐに自慢話をするクセが消えて「写した本だ」とは語っていない。

 「その字引きは、弘化四年(1847)秋としてあるだろう。『ヅーフハルマ』といって、オランダとフランスの対訳であったのに、ヘルデンキ[ヘンドリック・ヅーフ]が日本語を入れたのさ。日本語は、通詞や、唐通詞に聞いたのサ。第一世ナポレオン騒ぎで国へ帰れず、長崎へ二十年もこもっている間にしたのサ。長崎へ留学の時は、外国から来るものはみなワシが会ったのサ。そして鼻息を窺う役目だから。ちっぽけな船の船長だが、船長だから対等の交際でネ。それで何もかも打ちあけて話したよ。ヘルデンキが「お前は日本の海軍を起こす人だが、海軍には金がいるから、そのつもりで財政のことを知らねばならぬ」と言うたから、それで財政々々と言うのサ。」(「勝海舟全集11・海舟座談・明治31年6月30日」)

◇この「勉学」の原話は田中重男(楽鷹真人)著『学生之銘』(明治39年4月10日発行・光世館)の「勉学亀鑑-勝安芳の苦学」に紹介されている話で、「其一」がA型、「其二」がB型の原話とみられる。
そこでは
・「其一」の兵書の持ち主は「四谷大番町の与力」としているが、大場安右衛門という与力、兵書は「ソルダートスコール」
・「其二」辞書の持ち主を「蘭医某」としているが、ほかに赤城玄意という医者、と諸説ある。
「其二」の話は、本屋ではなく、はじめから蘭医某が持っていた辞書を借りた話である。


 以上のように、修身教科書で勝海舟の勉学に対する努力という、どうにでも創作できる「お話」を学んだ後に、次の「勇気―咸臨丸」で脚色誇張された勇ましい太平洋横断の快挙の「お話」を学習した小学生は、疑問を持たずこのお話が歴史の史実と受け取ったに違いない。

 





修身教科書における「勇気」咸臨丸  
     の虚構
(虚構にもとづく神話)

二つの虚構

1、日本人初の太平洋横断
2、日本人だけで航海した
は、修身の教科書によって広められた。ここではその元となった勝海舟の誇張も併せて検証する

           ○第十五課  勇気  (『尋常小学修身書』巻五・第三期国定教科書)より 
                
太字は錯誤あるいは第五期教科書との違いがある個所 
                                  *傍線部は遣米使節について触れた部分。第5期では消えている 

安芳(やすよし)は幕府の命を受けて長崎に行き、オランダ人について航海術を学びました。修行がすんでからもつづいて長崎に留まって、血気盛りの海軍練習生を教へ九州の近海で、あちこち航海を試みました。

 間もなく幕府は使をアメリカ合衆国へやることになりました。其の時、使は合衆国の軍艦にのせ、別に日本の軍艦を一そうやるといふうはさがありました。安芳はそれを聞いて、我が航海の進歩を見せるには、この上もないよい機会だと思ったので、自分の教へた部下をさしづして日本人の力だけで航海をしたいと願ひ出ました

 何分我が軍艦を外国へやるのは始めてのことであり、まだ練習も十分に積まない日本人だけではあぶないと思ったので幕府は、容易に許しませんでした。しかし、安芳があくまで願ってやまないので幕府も遂に其の熱心と勇気に感じて、咸臨丸と言ふ小さい軍艦で安芳等をやることに決めました。
                    
 航海中は毎日のやうに南風が続いて、海が大そう荒れました。嵐がはげしい時には、船体がひどくゆれて、ねぢ折られそうになったことが幾度もありました。しかし、安芳等は少しも恐れず、元気よく航海をつづけ、日本を出てから三十八日目にサンフランシスコに着きました。アメリカ人は、日本人が航海術を学んでからまだ間もないのに、少しも外国人の助けを受けずに、小さい軍艦で、よくも太平洋を越えてきたものだと、たいそう感心しました
 
                 

     疑 問      検  証

1、派遣の発端は 第三期教科書で 「日本人の力だけで航海をしたいと願い出ました」 
                「安芳があくまでも願ってやまないので…」
       
 第五期教科書も  「日本人だけでアメリカ大陸へ行ってみようと考えました」
                「まことに愉快なもくろみでありましたが…」
    

 …
「願い出ました」「考えました」「願ってやまない」「もくろみ…」となっていて、いかにも勝海舟が率先して提案したようにみえるが、実際は勝海舟の申し出など(あってもなくても)関係なく、幕府は安政五年の日米通商条約締結の時から随行船の派遣を決定していた。(『幕末維新外交史料集成』修好門 第四巻)
 この時、軍艦奉行として咸臨丸の責任者となった木村喜毅は
 「(勝安芳を)咸臨丸の艦長にするのでも、(勝安芳が)どうか行きたいということですから、お前さんが行ってくれればというので、私から計らったのですが、・・・・・・」(『海舟座談』)
 と、勝海舟の乗船は木村喜毅のあっせんで実現したことを回顧している。

2、
日本人だけで航海か 
       
第三期教科書で 「日本人の力だけで航海したい」
               「少しも外国人の助けを受けず…」
       
第五期教科書でも 「日本人だけでアメリカ大陸へ…」
                「案内する者もなく」

 ・・・*ここだけ読むといかにも愛国心をふるい立たせる勇ましくいい話だが、実際は米海軍の測量船フェニモアクーパー号(95㌧)の船長ブルック大尉他10名の米海軍水兵の同乗を依頼して出航し、大嵐でほとんどの日本人が船酔いで動けないところを米兵の操船で乗り切ることができた。勝海舟は航海中ほとんど寝たきりだった。(ブルックの『咸臨丸日記』、斉藤留蔵の『亜行新書』などいずれも『遣米使節史料集成』第四・五巻)
 この件に関して
福沢諭吉が
「少しも他人の手を借らずに出かけてゆこうと決断した」
「決してアメリカ人に助けてもらうということはちょっともなかった」(『福翁自伝』) と書き、

勝海舟が
「日本人が独りで軍艦に乗ってここへ来たのはこれが初めてだと言って、アメリカの貴紳らもたいそうほめて…」(「氷川清話」)

と語るのも、同じく誇張であり日本人を誤らせた原因である。この文にはトリックがあって、「独りで…ここへ来たのは初めてだ」と言ったのは「アメリカの貴紳(紳士たち)」だ、俺が言ったんじゃない、と云い抜け出来る文の構成となっている。


3、
初の航海は  第三期教科書で  「軍艦を外国へやるのは始めて」

 ・・・*この記述は正しい。
 勝海舟も「軍艦として初の太平洋横断」と書いている。勝海舟は下記の史実を承知しているから「軍艦として」を付けたのだろう。しかし、いつの間にか「軍艦として」がはずされ、「日本人初の太平洋横断の勝海舟・咸臨丸」というキャッチフレーズに変化して独り歩きしている。
 
 ・俗にいう「日本人初の太平洋横断=咸臨丸」は間違い。
 歴史で見れば、
 万延元年遣米使節(1860)よりも約250年前の
慶長15年(1610)に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦案針)に建造させた帆船で田中勝介が太平洋を横断してメキシコへ渡り、翌慶長16年(1611)に帰国している。 この3年後に
伊達政宗がサン・ファン・バウティスタ号で派遣したのが、支倉常長。やはり太平洋を横断してメキシコへ渡り―スペインから―イタリア―ローマ法王に面謁して、ふたたび太平洋を渡って、7年後に帰国している。


4、
航海中は  第三期教科書で 「安芳等は少しも恐れず、元気よく航海を続け」 

 ・・・*水夫斉藤留蔵の日記『亜行新書』に
 「日本人はほとんど船酔いで動けず、動けたのは二、三人。あとはみなアメリカ人の力で嵐の中を乗り切った」
とある。二、三人とは小野友五郎・ジョン万次郎など。
 ブルックの『咸臨丸日記』はもっと具体的に、外洋に初めて乗り出した日本人乗組員たちに統率がなく、当直制をとらず、気がついたものが仕事を少しする程度で、全くアメリカ人に頼りきっている状況を書いている。


5、
船酔いで寝たきりの勝海舟は 
       第三期教科書で
  「安芳等は…元気よく航海…」
       第五期教科書でも 「(出航の時)…しばらくの間は、悲壮な気持で甲板に立ち続けました」
                「絶えずはげまし続ける安芳のことばに…」

  ・・・*航海中、勝海舟はじつは「元気よく航海」「立ち続け」「絶えずはげまし続ける」どころか、船酔いのため航海中はほとんど船室にこもって寝たきりで、サンフランシスコに着くまでに甲板まで上がってきたのは3回くらい。まったく艦長(じつは教授方取扱が正式な役名)の役を果たしていない。

ブルックの日記には
「艦長は下痢を起こし、提督は船に酔っている。」
「艦長はまだ寝台に寝たきり、提督も同様」
「艦長は快方に向かっている。今日スープとブドー酒を贈った。私がキャビンの扉を開けたとき、彼は寝床の上に座っていて、非常に感謝しているようであった。大変静かな人で、私は彼の声を聞いたことがない」
「今日、麟太郎艦長が出てきたが、まだ弱々しくデッキには立てない」(ブルック「咸臨丸日記」・
『遣米使節史料集成』第五巻)  *この日記が交換されて半世紀以上経過したので、いまテレビや映画で勝海舟が咸臨丸で活躍する画面は描かれない。「アメリカへ行ってきた」と自慢して語る場面だけで済ませている。

 木村喜毅も
「勝さんは船室にこもりきりで、太平洋の真ん中で、バッテイラ(ボート)を下ろしてくれ、俺は江戸へ帰る!といった…」
と「海舟座談」で語っている。

 ◆その勝海舟が晩年に木村喜毅について、次のように語るのはハッタリ以上の、人格を疑いたくなる会話であろう。

 「木村(摂津守)が奉行の時、『航海のけいこが、そう短くて、直
(すぐ)に帰ってくるようでは、宜しくない。もっと遠くまで行ったらどうだ』というから、『そうですか、それではそう致しましょう』と言って、木村を乗せて『今日は遠くまで行くのだ』と言ってひどい目に合わせてやった。風が立って、波が荒いものだから、木村が、『ここは何処だ。もう帰っては』と言うたら、『どうしてどうして、ここはまだ天草から五,六里です。これからズット向うまで行くのです。』と言うたら『モウヨイ、モウヨイ』と言って大層へどついた(吐いた)よ。」(『勝海舟全集』11・海舟座談明治30年7月30日)。

 咸臨丸に乗る以前の会話ならまだしも、木村のおかげで乗れた咸臨丸航海で醜態をさらした後、晩年になってもこう自慢そうに回顧する勝海舟の心根はいかがなものか。「咸臨丸の英雄・海軍の父」勝海舟は、ブルックの「咸臨丸日記」が公刊(100年後の昭和36年)されてみると、咸臨丸航海で醜態をさらしたあげく、こういうむなしい会話をする人物だった、とわかる。


6、
サンフランシスコで 第三期教科書で 「アメリカ人達は小さい軍艦で太平洋を越えてきたとたいそう感心」
             したのに
            第五期教科書では 「アメリカ人は日本をあなどることはできない、という感じを強くした。」

 ・・・*アメリカ人たちが日本人の渡航を喜んで咸臨丸やポウハタン号の遣米使節団を歓迎したことは、当時のアメリカの新聞で明らかである。しかし、昭和十六年の第五期国定教科書で「あなどることはできない」などとする感情は根拠のない憶測を記述しているとしか思えない。「アメリカが開国に導いた日本人が、はるばるやってきた」という「けなげな弟を迎えるような」純粋な歓迎の気持ちこそあれ、「あなどる」(逆にいえば、あなどらない)などという〈日本を対等にみる〉意識を当時「半文明国」と見ている日本に対して抱いたとはとても考えられない。この記述は、昭和16年当時の日本が国際的に孤立化しアメリカを敵対国と見ている国情が反映されて、愛国心をあおり、国民の団結を求めるために、国粋意識を高め、国威発揚を強く意識した、独りよがりの文章になったとみられる。

 ちなみに、サンフランシスコに着いた咸臨丸はサンフランシスコ湾の北のメーア島にある米海軍造船所(現在は撤退)に滞在して、嵐で傷んだ船体をすっかり修理してもらい、アメリカ側はその費用をまったく受け取らなかった。


参考までに
国定教科書以前はどうだったか
ちなみに、教科書の歴史は
学校制度創設初期は   届出教科書    の時代
明治20年から        検定教科書    の時代
           大正7年~敗戦まで    国定教科書    の時代  となっている。

届出教科書と検定教科書 の歴史教科書   では
以下の通り、「勝海舟・咸臨丸」よりもむしろ「遣米使節」の方がきちんと教えられていた。

教科書名 遣米使節 勝海舟 咸臨丸

『古今紀要』明治14年1881 自由教科書 

記述アリ ナシ ナシ
『新編日本略史』明治14年再版
アリ ナシ ナシ
『新撰国史』第四巻明治20年1887 検定第一期 アリ ナシ ナシ
『校正日本小史』 明治20年 アリ アリ(名前のみ) アリ
(一船邦人ノミニテ…)
『小学校用日本歴史』明治20年 ナシ ナシ ナシ
『小学校用日本歴史』明治27年 ナシ ナシ ナシ
『小学校史』    明治33年 ナシ ナシ ナシ
*以上の教科書がすべて小学校で使われたものか否かは、確認できていない
*ほかに未見・未調査の教科書がたくさんあると思われる。教えていただければ幸いです。

 戦前の修身教育がすべて問題だというつもりはないが、ここに見るように勝海舟と咸臨丸に関してはかなり不正確、かつ脚色され誇張された「お話」が教えられ、それがそのまま歴史であると錯覚されてきたことがわかる。その教育の影響は戦後における教科書編纂にも反映し、戦後の歴史教科書で遣米使節に触れる際は、必ず咸臨丸・勝海舟を引き合いに出し、遣米使節の説明として(遣米使節が乗らなかった)咸臨丸航海の絵を載せている。戦前の修身「勝海舟・咸臨丸教育」の後遺症といえよう。 遣米使節を一、二行書くとあとの五、六行は勝海舟・咸臨丸の航海の話に終始している教科書すらある。
 
 横綱の前に太刀持ち・露払いが立ちふさがって土俵入りを邪魔している図式である。
 
 咸臨丸の絵を教科書から外さないと、日本人は遣米使節の業績を理解できない。
 


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ニューヨークの「週刊NY生活」№284・2010平成22年1月1日号 で遣米使節150年特集(リンク)
一本のネジ…HPニューヨーク総領事館(リンク)
遣米使節一行一覧表(リンク)
岡谷荘三郎(館林藩・塚原重五郎の従者)(リンク)
「勝海舟、もうひとつの顔」(リンク)
司書の出番『小栗上野介の生涯』坂本藤良著(リンク)

『航米記』従者・木村鉄太の世界一周記

遣米使節 世界一周の旅
本:遣米使節 「小栗忠順従者の記録」

◆問題は、
・・・・・・戦前の修身教科書の記述を引き継いで、戦後のいまだにしかも歴史教科書や副読本に、「遣米使節の説明として遣米使節が乗らなかった咸臨丸の絵」を掲載し続けていることです。

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会員の責務:中学・高校の歴史教科書の「遣米使節の説明に使われている(遣米使節が乗らなかった)咸臨丸の絵」をはずし、代わりに遣米使節のワシントン海軍造船所見学記念の写真を載せよう!、と主張する。

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