小栗上野介随想 (東善寺)     咸臨丸病の日本人   事例集


事例集 目次  
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咸臨丸の虚構  山川出版『日本史図録』  毎日新聞  小学館『日本大百科全書』  
週刊『再現日本史』  産経新聞  半藤一利『幕末史』  記念切手     霊山歴史館 木村喜毅は副使説  土居良三『軍艦奉行木村摂津守』  宗像善樹『咸臨丸の絆』

ホワイトハウスに現れた勝海舟!?
咸臨丸病の日本人

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咸臨丸の虚構二つ

1、「日本人初の太平洋横断」

 じつは勝海舟は「軍艦として」を前につけて「日本人初の太平洋横断」と書いている。つまり軍艦以外でなら別に日本人初の太平洋横断した人たちがいることを承知している。

 それは、慶長15年(1610)に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦案針)に建造させた帆船で田中勝介が太平洋を横断してメキシコへ渡り、翌慶長16年(1611)に帰国している。この3年後に伊達政宗が派遣したのが、支倉常長。やはり太平洋を横断してメキシコへ渡り―スペインへ渡り―ローマ法王に面謁して、ふたたび太平洋を渡って、5年がかりで帰国している。

 たぶん勝海舟はこの歴史を知っているからわざわざ「軍艦として」と断りを入れたのだろう。いずれあとでこんな断りはすっ飛ばして「日本人初の太平洋横断」だけが使われると計算していたとしたら、これはもう確信犯!

2、「日本人だけで航海した」
 咸臨丸には幕府から頼まれて乗っていたアメリカ人船長ジョン・マーサー・ブルック他10名の船員が、船酔いで動けない日本人に代わって嵐の海をほとんど乗り切ってくれた。

 ところがほとんどの日本人は幕末の歴史や、遣米使節団を語るとき、なんでも勝海舟と咸臨丸を登場させ、活躍させなければ気がすまなくなっている。

 咸臨丸を教科書からはずす会

「咸臨丸神話」は修身教科書から…国定教科書の「歴史」でなく「修身」で教えた勝海舟・咸臨丸の誇張が、戦後の教科書(しかも戦後は歴史教科書!)に引き継がれ咸臨丸病の日本人を生み出している!


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山川ビジュアル版「日本史図録」山川出版社 (2014平成26年4月発行)は・・・

・歴史教科書などの出版で知られる山川出版社発行の教科書の補助教材書
・山川出版から「遣米使節がホワイトハウスで日米修好通商条約の批准書を手渡す場面のアメリカの新聞の絵を掲載したい」、という要請があって貸し出し、出来上がって届けられた本が以下のようなものだった。

***(P179より)*開国A/開港とその影響 下記はその説明文 **********

日米修好通商条約の批准書交換
 〈説明文〉

1860年新見正興を正使とする遣米使節が米艦ポウハタン号で渡米。その際、勝義邦(海舟)を艦長とする咸臨丸が随行した。絵はワシントンでブキャナン大統領と謁見した時の様子。

*青字…はゴシック体で記述している

*******************以上が引用ページ****************
・説明文の事前チェックを怠った当方もミスだが、まさか山川出版社がこういうことで済ませるとは、想定外だった。

  問題点:
・サンフランシスコから帰った咸臨丸・勝海舟を、なぜ無関係のワシントン・ホワイトハウスの説明に入れるのか。
・この説明文でまた「勝海舟が咸臨丸でワシントンに行った」と誤解する日本人が量産されるに違いない。

・誤った事実:
ワシントンを旅行すると、現在でも日本人ガイドで、遣米使節一行が宿泊したウィラード・ホテル
 「勝海舟が泊まったホテル…」
と説明する人がいる。そして、ほとんどの日本人がその説明に疑問を持たない!!

・山川出版社編集部に平成26年4月に苦情を申し入れてあるが、9月10日現在返信なし。

・さらに問題点
この本の5ページ後の「幕末の科学技術と文化」(P183)では

長崎海軍伝習所の設立…が大きな画像で紹介され、「…勝海舟や榎本武揚らも参加している。」と紹介、
咸臨丸の横断…荒波にもまれる咸臨丸の画像が上記の遣米使節の画像より大きく掲載されている。

…と、「何でも咸臨丸・勝海舟」の風潮をあおっている。どうして、どの程度、これが「科学技術と文化」に貢献したのだろう。
・そして、幕末に建設が開始され明治2年にはフル稼働して、日本の産業革命の地となった横須賀製鉄所(造船所)は名前も出てこない。
・この本では代わりに紹介する近代化の例は、富岡製糸場まで。→参考ページ:「富岡製糸場は横須賀造船所の妹」



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毎日新聞(昭和50年10月3日)は・・・

毎日新聞は昭和50年に下記のように、 サンフランシスコから帰った咸臨丸の勝海舟を、ワシントンに登場させる報道でひんしゅくをかった。

「フォード大統領が両陛下をホワイトハウスに歓迎して催した晩餐会は、きらびやかで、しかも・・・・親しみのあふれた夜会だった。・・・・イーストルームは100余年前、勝海舟も加わっていた遣米使節団が日米修好条約に調印した部屋。・・・」


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「日本大百科全書」は・・・

小学館の「日本大百科全書」では、遣米使節が会ったブキャナン大統領をこう説明する。

「ブキャナン James Buchanan(1791-1868) ・・・1857年大統領に就任。・・・、なお、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節船、咸臨丸がサンフランシスコに到着したのは、ブキャナン大統領の時代である。(中谷義和)」(1988・昭和63年発行)

ワシントンで大統領に直接会見した遣米使節がいるのに、
「(サンフランシスコに)咸臨丸がついたのはこの時代」という説明では、ポウハタン号の使節はどこへ行っちゃったの?、というおかしなことになる。

「遣米使節船、咸臨丸」
という表現もあいまいで、「遣米使節船(ポウハタン号)咸臨丸」「遣米使節船咸臨丸」と、どちらにもとれる。もしかしたら、追及されたときの言い訳と、後者にとられる錯覚と、「」一つで両方をねらったかと勘ぐりたくなる。

じつはこの文章は、たまたま私がゲラを見かけたことがあって、
「遣米使節勝海舟が咸臨丸でアメリカへ渡って会った大統領・・・うんぬん」というでたらめな原稿だったので編集部あてに、間違っているから直したほうがよい、と手紙を出したところ「ご指摘ありがとうございます。・・・」と返事が来て、出来あがったら、まだ咸臨丸にこだわったおかしな文章のまま、CDにまでなって売られている。


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週刊「再現日本史」(2001・平成13年7月31日号)は・・・

講談社発行の週刊「再現日本史」という、CGを使った場面構成が新鮮で写真も迫力があり楽しく読める本だが、2001・平成13年7月31日号「幕末維新C」がやはり咸臨丸である。

表紙・・・「三七日間の大冒険、咸臨丸アメリカへ」という大きな見出しと、海を渡る復元された咸臨丸の写真。
1・2ページ見開き・・・勝海舟、福沢諭吉、木村攝津守3人が、サンフランシスコの町を背景にする、大きなCG複合写真。

ページ・・・「アメリカで熱烈歓迎」という見出しで、ニューヨークのホテル前を出発する一行の馬車の列の写真。ホテルの窓にはびっしりと日の丸の旗。

咸臨丸の3人(東善寺・小栗上野介)
    ▲ 1・2ページ サンフランシスコの古い街並みと福沢諭吉・木村摂津守・勝海舟の合成写真
3・4ページ(見開き) 初めてのサムライ、アメリカで熱烈歓迎

ここまで見てくるとふつうの読者は、咸臨丸でアメリカへわたった勝海舟らが大歓迎を受けている、と理解(誤解)する。

しかし、よく見ると

3ページのホテルは遣米使節一行が泊まったニューヨーク・ブロードウェイのメトロポリタンホテルだから、サンフランシスコから帰国した咸臨丸・勝海舟らは関係ない。

4ページもよく見ると遣米使節一行と従者がワシントンやニューヨークの町中で歓迎される写真で、咸臨丸・勝海舟らは関係ない。

でも、よほど知ってる人でなければほとんどこれで、「咸臨丸の勝海舟がワシントン・ニューヨークで歓迎された」と錯覚する。

ページでようやく本物の遣米使節一行の写真が登場する。▼下の画像
ワシントン海軍造船所を見学した直後の写真で、この見学が横須賀造船所の建設につながった記念すべき写真である。しかし、この本の写真説明は「ワシントン上陸後の記念写真」と、あたかも観光地めぐりの説明でそっけない。

ワシントン海軍造船所を見学した遣米使節一行
1860萬延元年4月5日

この見学を契機として小栗上野介は総合工場としての造船所建設を発意し、あまたの反対を抑えて横須賀造船所建設にこぎつけ、日本産業革命の地となった。近代日本の工業にとって記念すべき見学である。
 

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産経新聞(2003.平成15.5.14)は・・・・・・

 コラム「産経抄」で、「日本の近代産業は造船業から進水したといっていい…」、として浦賀ドックが明治29年に誕生したこと、そして今年閉鎖されることになったので、ぜひ造船博物館としてのこすべきである、という識者の提言を紹介して、保存を呼びかけている。
 
 ただし文中で次のように書くのはいかがなものか。
 
「日本人初の太平洋横断となった遣米使節団を乗せた咸臨丸もこの港から船出した」

@日本人初の太平洋横断は 咸臨丸より約250年早く、1610(慶長15年)田中勝助・1613(慶長十八)年支倉常長がメキシコへ渡っているから、誤り。
A遣米使節団は、パウハタン号に品川沖から乗り込んで渡米し、咸臨丸には乗らなかったから、誤り。
・・・です。



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『幕末史』半藤一利(2008平成20年12月刊・新潮社)
     
…… 勝海舟の船酔い説は福沢諭吉の厭味と書く本……

勝海舟びいきの作家半藤氏は『幕末史』に次のように書く。

「伝習所時代に何度も船に乗り、難破しかけて天草の港に入り込んだこともある勝さんが、船酔いして使いものにならないなんてことはないです。・・・(中略)…だから勝つぁんの船酔い説は、少し福沢さんの厭味じゃないかと思います。…(中略)…のちに「日本海軍の父」と呼ばれる勝つぁんです。船酔いする海軍の父なんておかしいですよね」

たしかに咸臨丸で船酔いしていた―「おかしい海軍の父」勝海舟
 ○咸臨丸乗り組みの日本人は、嵐に会ってほとんどが船酔いで動けなかった

「多人数の中甲板上に出て動作をなす者は唯僅かに四五人のみ。この時に当って帆布を縮長上下する等のことは一切に亜人(アメリカ人)の助力を受く。彼らはこの暴風雨に逢うといえども一人も恐怖を抱く者なく、ほとんど平常に異なることなく動作をなす。之に継ぐ者はわが土人(日本人)にて唯僅かに中浜氏(ジョン万次郎)・小野氏〈友五郎〉・濱口氏(與右衛門)のみ」
 以上は(咸臨丸乗組みの斉藤留蔵「亜行新書」・『遣米使節史料集成』第五巻)より


  ○勝海舟はどうか。木村喜毅も勝海舟も、出発してすぐに
「艦長は下痢を起こし、提督は船に酔っている」状態に陥り、何日たってもこれが好転しない。
「艦長はまだ寝台に寝たきり、提督も同様」

「艦長は快方に向かっている。今日スープとブドー酒を贈った。私がキャビンの扉を開けたとき、彼は寝床の上に座っていて、非常に感謝しているようであった。大変静かな人で、私は彼の声を聞いたことがない」

「今日、麟太郎艦長が出てきたが、まだ弱々しくデッキには立てない」

 (以上はブルック「咸臨丸日記」)より


 結局、ブルック大尉の「咸臨丸日記」によれば勝海舟がデッキまで上がってきたのは、航海中三回くらいでサンフランシスコに着いた。ほとんど何もしなかった艦長といえる。福沢諭吉の厭味でも何でもない事実です。

ブルック大尉の「咸臨丸日記」が「遣米使節史料集成第5巻」(1961昭和36年)として公刊されて半世紀経過し、ほとんどの学者・作家が周知の史実を、こうして根拠もなく否定して語る作家がいることに驚く。この本巻末の参考文献に「遣米使節史料集成」が見当たらないから、基本資料を見ないまま幕末史を語っているのだろうか。ふつうの読者は『幕末史』を読んで「福沢諭吉は厭味な男」と解釈することだろう。

歴史は「船酔いして使いものにならないなんてことはない」「船酔いする海軍の父なんておかしい」などと感情で語ってはいけないと、つくづく思う。
パウハタン号
2400トン
遣米使節を乗せて
品川沖〜ハワイ〜サンフランシスコ〜パナマ

まで運んだ

ついでに
この本には更にいくつかの誤認があるので指摘しておきます。

咸臨丸の派遣について
・・・遣米使節がポウハタン号に乗ってワシントンへ連れて行ってもらう話を聞いた勝海舟は
「長崎にいた勝麟太郎は、なにもアメリカの船で行くことはない。日本の船で行こうじゃないかと急遽、江戸に戻って幕閣に面会し、「使節派遣は外国船でなくぜひ日本の船で」と盛んに主張します」(『幕末史』)

○以上、あたかも勝海舟の主張で咸臨丸派遣が決まったかのようになっていますが

遣米使節渡米に際しては勝海舟が乗ることに決まるずっと前からアメリカ政府が迎えの船を寄越すことになっていた。さらに幕府側でいろいろ検討すると、日本の代表として一〇万石大名の格式で派遣するにふさわしい供揃えの人数を確保し、そのためのたくさんの装束、食料や諸道具を運ぶには、どうしてもあと一隻の別船を幕府で仕立てる必要がある。もしアメリカへ行ってから、現地雇いのアメリカ人を臨時に日本人風の服装にして行列を組んだ場合、逆にアメリカ人が日本にやってきたとき、同じように日本人を雇って異国風の支度をさせて行列を作られても、苦情を言えなくなる。
 「下供の分は
拠所(よんどころ)なく夷人を相雇い候つもりを以て、申上げ候ども、夷人相雇い召し連れ候節、彼の国の衣服着用為し致し候ては、御国風に相触れ、さりとて、此方の衣服に着替え為し致し候ては、この後彼の国より罷り越し候もの御當国下人相雇い、彼の国の衣服着替え為し候節當難致すと察せられ…安政五年九月
(『幕末維新外交史料集成』第四巻)
 
 国の威厳を示すことが外交の基本であるから、使節の行列もそれにふさわしい人数で、しかも日本人だけで、格式を整えなければならない。迎えに来る米国海軍のフリゲート艦一艘には乗り切れないから、もう一艘を仕立てたい。

ということで、別船を派遣することが決定していた。

○勝海舟はどうしてもそこへ一緒に乗り込みたいということで、


 「咸臨丸の艦長にするのでも、(勝が)『どうか行きたい』というので、……私から計らったのですが、なにぶん身分を上げることもできず、それが第一不平で、八ツ当たりです。始終部屋にばかし引っ込んでるのですが、船長のことですから相談しないわけにも行かず、相談すると『どうでもしろ』という調子で、それからいろいろ反対もされるので、実に困りました」
(木村喜毅「咸臨丸船中の勝」)

という木村の記述の方が、ハッタりがなくて信用できる。半藤氏の言う「勝海舟の意見で派遣が決まった」のではない。資料根拠のない虚説を刊行するのはいかがなものか。参考:修身教科書が作った咸臨丸神話…半藤氏の錯覚はこの修身教科書による教育(洗脳)から抜け出せていないことによる。

○ほかにこまかくあげれば次の記述も明治以降の国威発揚意識の咸臨丸神話そのまま
「この時、何人か帰国するアメリカ人を一緒に乗せていってほしいと頼まれます。」(『幕末史』)
 
…これも間違いで、頼まれたのはブルック大尉で頼んだのは日本側。
日本人だけの航海を心配した海軍奉行木村摂津守喜毅やハリスの手配で、ブルック大尉に同行を頼むと、「部下を10人連れて行かないと自分だけでは役に立たない」というので、計11人に乗ってもらって出航した。(遣米使節史料集成第5巻・ブルック「横浜日記」


「一応すべて日本人が軍艦を動かし・・・サンフランシスコまで行った」(『幕末史』)
 …「(大嵐の中で)動ける日本人は2,3名」あとはほとんど米水兵が操縦をしてくれたのが史実。(遣米使節史料集成第5巻・ブルック「咸臨丸日記」


「パウハタン号で西海岸に到着し、汽車に乗ったんでしょうか、ワシントンまで行き」(『幕末史』)
 …大陸横断鉄道はなかったからパナマへ行きパナマ鉄道で大西洋側へ出た。(遣米使節史料集成)

*巻末の「参考文献」に「遣米使節史料集成」(全7巻)が入っていないから、こういう文章になるのかもしれないが、基本的な資料を見ないまま出来上がった本とすれば他の部分も心配になる。

関連ページ  「修身教科書が作った咸臨丸神話」をぜひご覧下さい。



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◇日米修好通商百年記念のおかしな記念切手

 「日米修好通商百年記念」(1960・昭和35年)に発行された切手が、遣米使節が乗っていない「咸臨丸」の絵だった。

 これでまた「遣米使節が咸臨丸で渡米した」と誤解する日本人が増えたことだろう。
                  
                ▲「日米修好通商百年記念」と銘打って売りだされた切手シート

                 
                 左:ホワイトハウスで批准書を渡す遣米使節
                 右:遣米使節が乗らなかった咸臨丸  




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幕末維新ミュージアム霊山(りょうぜん)歴史館(京都)では・・・

展示の中の
◆勝海舟の紹介文で
咸臨丸の指揮をとり太平洋を横断しアメリカを視察した…」

…と船酔いで寝たきりだった勝麟太郎が「指揮をとって太平洋を横断」したことになり、サンフランシスコから帰ってきたのに「アメリカを視察した」という誇大なお話に導いている。

◆「遣米使節人数及図」の説明では
一行の一部はパナマを経てワシントンへと向かった…」

と、本隊の遣米使節団を「(勝海舟)一行の一部」扱いにして、勝海舟を持ち上げるために遣米使節の矮小化を図っていました。

歴史をゆがめる記述と言えます。(平成22年)


 
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◇ 木村摂津守喜毅(咸臨丸提督・軍艦奉行)を副使とする説は誤り
  *はじめにお断りしておくが、木村摂津守喜毅は人柄・挙措動作・人格いずれも尊敬に値する武士で、咸臨丸が北太平洋で沈まなかったのはブルック大尉・ジョン万次郎及び、二人を乗船させることにこぎつけた木村摂津守喜毅のおかげであり、咸臨丸ではこの三人がさわやかな物語を展開している。以下は、後世の人が「史実を曲げてことを論ずる」のは将来に歴史を誤る恐れがあると考え、公開する。

 近年、「木村喜毅は副使」あるいは「正使はポウハタン号で、副使は日本で仕立てた船咸臨丸・・・と決まった」とする説が、いくつかの書やHP・ブログで見られるようになりました。これも咸臨丸病の一つと思われます。

例えば
「軍艦奉行木村摂津守」土居良三(中公新書1994年平成6年)
「木村喜毅は副使」説の根源はこの本か
『咸臨丸海を渡る』土居良三(未来社1992年平成2年)(中公文庫1998年)…
「副使木村喜毅」「副使の乗る船が咸臨丸」説の始まりか・第6回和辻哲郎文化賞が泣く錯誤

『咸臨丸の絆』宗像善樹(海文社2014平成26年)・・・『軍艦奉行木村摂津守』を参照したらしく
「木村喜毅が副使」「遣米副使」「木村は副使といえども正使の新見と同格の御役目……」として格上げを図っている。最近、著者もその誤りを認め、日本図書館協議会選定図書となっていたのを辞退している。帯で歴史ドキュメントとしているが、創作会話が入っているのでドキュメントとはいえない。フィクションと見るべき。

・文中で
「小栗が…代表と見られた」という錯誤の文章は、以前のウィキペディアからのコピペ転用であろう。

・「勝麟太郎が『帰国するときもアメリカ人の手助けが必要だ』といいだして、5名を雇って帰国した…。」としているが、前々年安政五年九月に案内役の米人を雇う話は始まっていて、前年安政六年十二月段階で「帰国の際も米人を雇う」ことが決まっていた。勝麟太郎は無関係な話で勝本人も言ってないことを勝の功績話にして、勝海舟神話を増やしかねない。
 
・とはいえ、木村喜毅の温厚真摯な人柄に接して心酔するようになった福沢諭吉との「絆」がいきいきと描かれた好著。

「清く美しい流れ−日本人の生き方を取り戻す−」田口佳史(PHP出版)
「遣米副使として……」遣米使節と咸臨丸一行を混同しているように読める。
木村芥舟(ウィキペディア)
木村は咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ…
木村摂津守喜毅(ニコニコ大百科)…使節副使として渡
国際派日本人養成講座「咸臨丸に乗り組む副使として任命されたのが…木村摂津守喜毅」
「ハワイスペシャリスト検定公式ガイド」(エイ出版社)「使節団副使の木村摂津守喜毅」とありますこの件以外は要点をわかりやすくまとめてあり、ハワイを知るのに良い検定ページ。

…この他のブログにもたくさん見受けられます。
 
咸臨丸子孫の会のHPは「史実を正しく伝える」ことを目的としている会で、さすがに「木村摂津守喜毅が副使」という記述はありませんが、木村喜毅が
「遣米使節に任ぜられた」という記述はあります…。

実際はどうなのか―史実に照らすと

幕府が遣米使節副使として任命したのは村垣淡路守範正ひとりだけ。
以下がその文書

 己未九月十三日
                                      新見豊前守
                            村垣淡路守

                            小栗 又一

亜墨利加国へ使差遣候節新見豊前守正使村垣淡路守は副使小栗又一は立合之心得ニ可罷在事
《『幕末維新 外交史料集成 第一巻』禮儀門 P235

このほかに副使に任ぜられたものはいない。

              ▲副使村垣淡路守範正・正使新見豊前守正興・目付小栗豊後守忠順

では

◯木村摂津守喜毅は使節に万一の時の代理役だから副使と同格、とする説 はどうか。

 万一の時の代理役についてはこの後追加の指令があって、その内容は次の1,2,3三人となる。
1「目付小栗又一は正使・副使に支障があった時は一人でも代行すべし」  という下知があった。
2,さらに咸臨丸出帆直前に追加指令があって、木村摂津守喜毅(咸臨丸)が代理役を命じられている。
、2,と同時に追加指令で、勘定組頭森田岡太郎(ポウハタン号)が使節(三使)も木村喜毅も支障が生じた場合の代理役を命じられている。

以上を総合すると、幕府は

1,正使・副使に支障が生じた場合は目付小栗又一が代わって任務を果たすよう指示している。
2、三使(正使・副使・目付)共に病気等で不都合が生じた場合は、
(咸臨丸の)軍艦奉行木村摂津守喜毅がその代理を務めること。
3、三使
(ポウハタン号)も木村摂津守喜毅(咸臨丸)も支障が生じた場合は勘定組頭森田岡太郎(ポウハタン号)がその代理となることを指示している。

 *1,2,3,いずれも副使という正式な職名は与えていない
  
代理だから副使と同等=副使、とする論理は「副使にしたい」だけの無理な話。もしこの論理が通るなら、1,2,3の順序でまず小栗忠順が副使と言えることになる。

 *多くの書籍やHP・ブログで
「木村摂津守喜毅が副使」「副使が乗る船が咸臨丸」としているのは誤りと言える。

◆「木村喜毅が副使」説の根源はどこかー
たとえばこの本
『咸臨丸海を渡る』土居良三(未来社1992平成2年)(中公文庫1998) と
『軍艦奉行木村摂津守』土居良三(中公新書1994平成6年) に

正使に万一の支障があった場合、代るべき副使を乗せるための船という名目で、その副使に軍艦奉行を当てることとした」
「別船に乗る副使」
「別船を副使の乗る船としたのは・・・」
「正式に遣米副使として咸臨丸に搭乗」


としているのが初出と思われる。
好著と言われる同書になぜこのような記述をしたのだろう。
 
中公新書『軍艦奉行木村摂津守』の問題点
@副使は正使に支障があった場合のみの臨時代理役、と副使の意味が矮小化され、正式に遣米使節副使として任ぜられている外国奉行村垣淡路守範正の存在を無視、あるいは気づいていない。

A咸臨丸派遣の目的がポウハタン号に乗っている遣米使節の護衛あるいは随行という名目であったのを、「副使が乗る船」として格上げを図っている。と同時にポウハタン号に正式な副使(外国奉行)村垣淡路守範正が乗船していることを無視、あるいは気がつかない。

B軍艦奉行木村喜毅が「遣米使節に任ぜられた」、と格上げを図っている。
遣米使節は正使・副使・目付の三名で、随行した団員たちの間では「三使」「三公」と呼ばれている。咸臨丸には「使節」は乗っていない。

詳しい史料 「木村摂津守喜毅は副使」説は誤り  をご覧ください。史料で説明しています。                                        (2016平成28年8月)

 
小栗上野介が遣米使節での見聞を活かして行なった日本近代化の業績を知るには、明治以来の咸臨丸・勝海舟への過大な評価を拭い去ることからはじめなければならない。随行船の咸臨丸はいわば、横綱に従う太刀持ち露払いだから、いつまでも立ちふさがっていては横綱が表に出られない。(2009平成21年7月)
  

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咸臨丸の絵を教科書からはずす会 の会員資格があります。

会員の責務:教科書や副読本の「遣米使節の説明に使われている(遣米使節が乗っていない)咸臨丸の絵」をはずし、代わりに遣米使節のワシントン海軍造船所見学記念の写真を載せよう!、と主張する。

会員の特典:「勝海舟は遣米使節ではない」「木村摂津守喜毅は副使ではない」「勝海舟はサンフランシスコから帰った」「遣米使節は咸臨丸には乗らなかった」「小栗上野介のワシントン海軍造船所見学から横須賀造船所建設が発想された」「富岡製糸場は横須賀造船所の妹」・・・などの知識をひけらかすことができます。

会費:無料



関連ページ         ●遣米使節の旅
     咸臨丸
遣米使節三船…咸臨丸ではない
リーフレット『遣米使節三船』・・・教科書の「遣米使節の説明」に使われている咸臨丸の絵をはずすため作成
修身の教科書が作りだした咸臨丸神話・・・国定教科書の〈歴史〉でなく〈修身〉教科書で教えた勝海舟・咸臨丸が始まり
咸臨丸の冒険を成功させたブルック大尉(リンク)・・・ブルック大尉の「咸臨丸日記」を克明に記載。航海の実態がよく分かる。
シーマンシップとは(リンク・PDF)…ブルック大尉が日本人に伝えたシーマンシップ


富岡製糸場は横須賀造船所の妹…突然変異でうまくいったのではない。歴史には継続性がある。遣米使節の成果がここに花開いている。

大航海時代の駿府の家康公(リンク):田中勝介の太平洋横断

遣米使節の行程:日本人初の世界一周の行程表
ブルック大尉:咸臨丸が沈まなかったのはブルックとジョン万次郎のおかげ
大統領の記念メダル:使節と従者全員に金・銀・銅のメダルが贈られた
小栗忠順の通貨交渉:フィラデルフィアで「ノー」といって進めさせた通貨実験は

世界一周をした名主・佐藤藤七:権田村名主が従者として世界一周
玉蟲左太夫:仙台藩士の見た世界は新鮮だった
遣米使節小栗の従者:小栗忠順の従者9名
遣米使節従者・三好権三…島根の人だった
遣米使節の業績・・・1本のネジくぎを持ち帰った小栗
横須賀明細一覧図を読む…図から読み取れる産業革命の地横須賀は、遣米使節の成果
      

日の丸を国旗に決めた遣米使節…船印だった日の丸を国印に決めた

帆船模型作家・岡崎英幸さんに感謝状…おかげで「遣米使節3船」がそろいました
トミーポルカ…アメリカで大人気となった少年通訳立石斧次郎の音楽
遣米使節とアメリカの酪農…初めてアイスクリームを食べた日本人

■Bridge of Hope(english)…JEWL発行の本で小栗上野介の業績紹介
「パウハタン号の町・伊豆下田」