小栗上野介随想 (東善寺)     咸臨丸病の日本人


ホワイトハウスに現れた勝海舟!?
咸臨丸病の日本人

咸臨丸の虚構二つ

1、「日本人初の太平洋横断」

じつは勝海舟は「軍艦として」を前につけて「日本人初の太平洋横断」と書いている。つまり軍艦以外でなら別に日本人初の太平洋横断した人たちがいることを認めている。

それは、慶長15年(1610)に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦案針)に建造させた帆船で田中勝介が太平洋を横断してメキシコへ渡り、翌慶長16年(1611)に帰国している。この3年後に伊達政宗が派遣したのが、支倉常長。やはり太平洋を横断してメキシコへ渡り―スペインへ渡り―ローマ法王に面謁して、ふたたび太平洋を渡って、5年がかりで帰国している。

たぶん勝海舟はこの歴史を知っているからわざわざ「軍艦として」と断りを入れたのだろう。いずれあとでこんな断りはすっ飛ばして「日本人初の太平洋横断」だけが使われると計算していたとしたら、これはもう確信犯!

2、「日本人だけで航海した」
咸臨丸には幕府から頼まれて乗船したアメリカ人船長ジョン・マーサー・ブルック他10名の船員がいて、船酔いで動けない日本人に代わって嵐の海をほとんど乗り切ってくれた。(以下の記述を参照)

ところが明治以後の日本人は幕末の歴史や、遣米使節団を語るとき、なんでも勝海舟と咸臨丸を登場させ、活躍させなければ気がすまなくなっている。たとえば、

毎日新聞 日本大百科全書  「再現日本史」  産経新聞  「幕末史」   咸臨丸を教科書からはずす会

毎日新聞(昭和50年10月3日)は・・・

毎日新聞は昭和50年に下記のように、 サンフランシスコから帰った咸臨丸の勝海舟を、ワシントンに登場させる報道でひんしゅくをかった。

「フォード大統領が両陛下をホワイトハウスに歓迎して催した晩餐会は、きらびやかで、しかも・・・・親しみのあふれた夜会だった。・・・・イーストルームは100余年前、勝海舟も加わっていた遣米使節団が日米修好条約に調印した部屋。・・・」

「日本大百科全書」は・・・

小学館の「日本大百科全書」では、遣米使節が会ったブキャナン大統領をこう説明する。

「ブキャナン James Buchanan(1791-1868) ・・・1857年大統領に就任。・・・、なお、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節船、咸臨丸がサンフランシスコに到着したのは、ブキャナン大統領の時代である。(中谷義和)」(1988・昭和63年発行)

ワシントンで大統領に直接会見した遣米使節がいるのに、
「(サンフランシスコに)咸臨丸がついたのはこの時代」という説明では、ポウハタン号の使節はどこへ行っちゃったの?、というおかしなことになる。
「遣米使節船、咸臨丸」
という表現もあいまいで、「遣米使節船(ポウハタン号)咸臨丸」「遣米使節船咸臨丸」と、どちらにもとれる。もしかしたら、追及されたときの言い訳と、後者にとられる錯覚と、「」一つで両方をねらったかと勘ぐりたくなる。

じつはこの文章は、たまたま私がゲラを見かけたことがあって、
「遣米使節勝海舟が咸臨丸でアメリカへ渡って会った大統領・・・うんぬん」というでたらめな原稿だったので編集部あてに、間違っているから直したほうがよい、と手紙を出したところ「ご指摘ありがとうございます。・・・」と返事が来て、出来あがったら、まだ咸臨丸にこだわったおかしな文章のまま、CDにまでなって売られている。

週刊「再現日本史」(2001・平成13年7月31日号)は・・・

つい最近も似たような本が売られている。
講談社発行の週刊「再現日本史」という、CGを使った場面構成が新鮮で写真も迫力があり楽しく読める本だが、2001・平成13年7月31日号「幕末維新C」がやはり咸臨丸である。

表紙・・・「三七日間の大冒険、咸臨丸アメリカへ」という大きな見出しと、海を渡る復元された咸臨丸の写真。
1・2ページ見開き・・・勝海舟、福沢諭吉、木村攝津守3人が、サンフランシスコの町を背景にする、大きなCG複合写真。
3ページ・・・「アメリカで熱烈歓迎」という見出しで、ホテル前を出発する一行の馬車の列の写真。ホテルの窓にはびっしりと日の丸の旗。

再現日本史(東善寺・小栗上野介) 咸臨丸の3人(東善寺・小栗上野介)
 ▲週刊「再現日本史」(2001・平成13年7月31日号・表紙     ▲ 1・2ページ サンフランシスコの古い街並みと福沢諭吉・木村摂津守・勝海舟の合成写真
3・4ページ(見開き) 初めてのサムライ、アメリカで熱烈歓迎

ここまで見てくるとふつうの読者は、咸臨丸でアメリカへわたった勝海舟らが大歓迎を受けている、と理解(誤解)する。

しかし、よく見ると3ページのホテルは遣米使節一行が泊まったニューヨーク・ブロードウェイのメトロポリタンホテルだから、サンフランシスコから帰国した咸臨丸・勝海舟らは関係ない。4ページもよく見ると遣米使節一行の従者たちとワシントン・ニューヨークの町中で歓迎される写真で、咸臨丸・勝海舟らは関係ない。

でも、よほど知ってる人でなければほとんどこれで、「咸臨丸の勝海舟がワシントン・ニューヨークで歓迎された」と錯覚する。

5ページでようやく本物の遣米使節一行の写真が登場する。ワシントン海軍造船所を見学した直後の写真で、この見学が横須賀造船所の建設につながった記念すべき写真である。しかし、この本の写真説明は「ワシントン上陸後の記念写真」と、あたかも観光地めぐりの説明でそっけない。

ワシントン海軍造船所を見学した遣米使節一行
1860萬延元年4月5日

この見学を契機として小栗上野介は総合工場としてのあまたの反対を抑えて造船所建設を発意し、横須賀造船所建設にこぎつける。近代日本の工業にとって記念すべき見学である。

産経新聞(2003.平成15.5.14)は・・・・・・

 コラム「産経抄」で、「日本の近代産業は造船業から進水したといっていい…」、として浦賀ドックが明治29年に誕生したこと、そして今年閉鎖されることになったので、ぜひ造船博物館としてのこすべきである、という識者の提言を紹介して、保存を呼びかけている。
 
 ただし文中で次のように書くのはいかがなものか。
 
「日本人初の太平洋横断となった遣米使節団を乗せた咸臨丸もこの港から船出した」

@日本人初の太平洋横断は咸臨丸より約250年早く、1613(慶長十八)年支倉常長がメキシコへ渡っているから、誤り。
A遣米使節団は、パウハタン号に品川沖から乗り込んで渡米し、咸臨丸には乗らなかったから、誤り。
・・・です。

『幕末史』半藤一利(2008平成20年12月刊・新潮社)
     
…… 勝海舟の船酔い説は福沢諭吉の厭味と書く本……

勝海舟びいきの作家半藤氏は『幕末史』に次のように書く。
「伝習所時代に何度も船に乗り、難破しかけて天草の港に入り込んだこともある勝さんが、船酔いして使いものにならないなんてことはないです。・・・(中略)…だから勝つぁんの船酔い説は、少し福沢さんの厭味じゃないかと思います。…(中略)…のちに「日本海軍の父」と呼ばれる勝つぁんです。船酔いする海軍の父なんておかしいですよね」

たしかに咸臨丸で船酔いしていた勝海舟
 ○咸臨丸乗り組みの日本人は、嵐に会ってほとんどが船酔いで動けなかった
「多人数の中甲板上に出て動作をなす者は唯僅かに四五人のみ。この時に当って帆布を縮長上下する等のことは一切に亜人(アメリカ人)の助力を受く。彼らはこの暴風雨に逢うといえども一人も恐怖を抱く者なく、ほとんど平常に異なることなく動作をなす。之に継ぐ者はわが土人(日本人)にて唯僅かに中浜氏(ジョン万次郎)・小野氏〈友五郎〉・濱口氏(與右衛門)のみ」
 以上は(咸臨丸乗組みの斉藤留蔵「亜行新書」・『遣米使節史料集成』第五巻)


  ○勝海舟はどうか。木村喜毅も勝海舟も、出発してすぐに
「艦長は下痢を起こし、提督は船に酔っている」状態に陥り、何日たってもこれが好転しない。
「艦長はまだ寝台に寝たきり、提督も同様」
「艦長は快方に向かっている。今日スープとブドー酒を贈った。私がキャビンの扉を開けたとき、彼は寝床の上に座っていて、非常に感謝しているようであった。大変静かな人で、私は彼の声を聞いたことがない」

「今日、麟太郎艦長が出てきたが、まだ弱々しくデッキには立てない」
 以上は(ブルック「咸臨丸日記」)


 結局、ブルック大尉の「咸臨丸日記」によれば勝海舟がデッキまで上がってきたのは、航海中三回くらいでサンフランシスコに着いた。ほとんど何もしなかった艦長といえる。福沢諭吉の厭味でも何でもない事実です。

ブルック大尉の「咸臨丸日記」が「遣米使節史料集成第5巻」(1961昭和36年)として公刊されて半世紀経過し、ほとんどの学者・作家が周知の史実を、こうして根拠もなく否定して語る作家がいることに驚く。この本巻末の参考文献に「遣米使節史料集成」が見当たらないから、基本資料を見ないまま幕末史を語っているのだろうか。ふつうの読者は『幕末史』を読んで「福沢諭吉は厭味な男」と解釈することだろう。
歴史は「船酔いして使いものにならないなんてことはない」「船酔いする海軍の父なんておかしい」などと感情で語ってはいけないと、つくづく思う。
パウハタン号
2400トン
遣米使節を乗せて
品川沖〜ハワイ〜サンフランシスコ〜パナマ

まで運んだ

ついでに
この本には更にいくつかの誤認があるので指摘しておきます。

咸臨丸の派遣について
・・・遣米使節がポウハタン号に乗ってワシントンへ連れて行ってもらう話を聞いた勝海舟は
「長崎にいた勝麟太郎は、なにもアメリカの船で行くことはない。日本の船で行こうじゃないかと急遽、江戸に戻って幕閣に面会し、「使節派遣は外国船でなくぜひ日本の船で」と盛んに主張します」(『幕末史』)

○以上、あたかも勝海舟の主張で咸臨丸派遣が決まったかのようになっていますが、

遣米使節渡米に際しては勝海舟が乗ることに決まるずっと前からアメリカ政府が迎えの船を寄越すことになっていた。さらに幕府側でいろいろ検討すると、日本の代表として一〇万石大名の格式で派遣するにふさわしい供揃えの人数を確保し、そのためのたくさんの装束、食料や諸道具を運ぶには、どうしてもあと一隻の別船を幕府で仕立てる必要がある。もしアメリカへ行ってから、現地雇いのアメリカ人を臨時に日本人風の服装にして行列を組んだ場合、逆にアメリカ人が日本にやってきたとき、同じように日本人を雇って異国風の支度をさせて行列を作られても、苦情を言えなくなる。
 「下供の分は
拠所(よんどころ)なく夷人を相雇い候つもりを以て、申上げ候ども、夷人相雇い召し連れ候節、彼の国の衣服着用為し致し候ては、御国風に相触れ、さりとて、此方の衣服に着替え為し致し候ては、この後彼の国より罷り越し候もの御當国下人相雇い、彼の国の衣服着替え為し候節當難致すと察せられ…安政五年九月」(『幕末維新外交史料集成』第四巻)
 
 国の威厳を示すことが外交の基本であるから、使節の行列もそれにふさわしい人数で、しかも日本人だけで、格式を整えなければならない。迎えに来る米国海軍のフリゲート艦一艘には乗り切れないから、もう一艘を仕立てたい。

ということで、別船を派遣することが決定していた。

○勝海舟はどうしてもそこへ一緒に乗り込みたいということで、


 「咸臨丸の艦長にするのでも、(勝が)『どうか行きたい』というので、……私から計らったのですが、なにぶん身分を上げることもできず、それが第一不平で、八ツ当たりです。始終部屋にばかし引っ込んでるのですが、船長のことですから相談しないわけにも行かず、相談すると『どうでもしろ』という調子で、それからいろいろ反対もされるので、実に困りました」
(木村喜毅「咸臨丸船中の勝」)

という木村の記述の方が、ハッタりがなくて信用できる。とても半藤氏の言う勝海舟の意見で派遣が決まった、とはいえない。資料根拠のない虚説を刊行するのはいかがなものか。

○ほかにこまかくあげれば次の記述も明治以降の国威発揚意識の咸臨丸神話そのまま
「この時、何人か帰国するアメリカ人を一緒に乗せていってほしいと頼まれます。」(『幕末史』)
 
…これも間違いで、頼まれたのはブルック大尉で頼んだのは日本側。
日本人だけの航海を心配した海軍奉行木村摂津守喜毅やハリスの手配で、ブルック大尉に同行を頼むと、「部下を10人連れて行かないと自分だけでは役に立たない」というので、計11人に乗ってもらって出航した。(遣米使節史料集成第5巻・ブルック「横浜日記」


「一応すべて日本人が軍艦を動かし・・・サンフランシスコまで行った」(『幕末史』)
 …「(大嵐の中で)動ける日本人は2,3名」あとはほとんど米水兵が操縦をしてくれたのが史実。(遣米使節史料集成第5巻・ブルック「咸臨丸日記」


「パウハタン号で西海岸に到着し、汽車に乗ったんでしょうか、ワシントンまで行き」(『幕末史』)
 …大陸横断鉄道はなかったからパナマへ行きパナマ鉄道で大西洋側へ出た。(遣米使節史料集成)

*巻末の「参考文献」に「遣米使節史料集成」(全7巻)が入っていないから、こういう文章になるのかもしれないが、基本的な資料を見ないまま出来上がった本とすれば他の部分も心配になる。

幕末維新ミュージアムの霊山歴史館(京都)では・・・

勝海舟の紹介文で
咸臨丸の指揮をとり太平洋を横断しアメリカを視察した…」
ことになり
「遣米使節人数及図」の説明では「一行の一部はパナマを経てワシントンへと向かった…」
と、肝心の遣米使節一行は「(勝海舟)一行の一部」扱いにして、勝海舟を持ち上げるために遣米使節の矮小化を図っていました。歴史をゆがめる記述と言えます。

小栗上野介が遣米使節での見聞を活かして行なった、日本近代化の業績を知っていただくには、明治以来の咸臨丸・勝海舟への過大な評価を拭い去ることからはじめなければならない。随行船の咸臨丸はいわば、横綱に従う太刀持ち露払いだから、いつまでも立ちふさがっていては横綱の業績が表に出られない。(2009平成21年7月)

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