遣米使節関連(東善寺HP)  ●●    「木村摂津守喜毅は副使」「副使の乗った船が咸臨丸」説は誤り

(咸臨丸軍艦奉行)木村摂津守喜毅は副使」
「副使の乗る船が咸臨丸」という説・・・は誤り

*はじめにお断りしておくが、木村摂津守喜毅は人柄・挙措動作・人格いずれも尊敬に値する武士で、咸臨丸が北太平洋で沈まなかったのはブルック大尉・ジョン万次郎及び、二人を乗船させることにこぎつけた木村摂津守喜毅のおかげであり、咸臨丸ではこの三人がさわやかな物語を展開している。以下は、後世の人が「史実を曲げてことを論ずる」のは将来に歴史を誤る恐れがあると考え、公開する。
                           
 近年、「木村喜毅は副使」とか「正使はポウハタン号で、副使は日本で仕立てた船咸臨丸・・・と決まった」とする説が、いくつかの書やHP・ブログで見られるようになりました。これも咸臨丸病の一つと思われます。

 
       
◆例えば

 
「軍艦奉行木村摂津守」土居良三(中公新書1994年平成6年)
『咸臨丸海を渡る』土居良三(未来社1992年平成2年)(中公文庫1998年)…「木村喜毅は副使」説の根源はこの本か・第6回和辻哲郎文化賞が泣く錯誤。これ以前に「木村喜毅は副使」説は見つからない。

『咸臨丸の絆』宗像善樹(海文社2014平成26年)・・・『軍艦奉行木村摂津守』を参照したらしく
  「木村喜毅が副使」
  「遣米副使」
  「木村は副使といえども正使の新見と同格の御役目……」

として格上げを図っている。
 最近、著者もその誤りを認め、図書館協議会選定図書となっていたのを辞退している。

「清く美しい流れ-日本人の生き方を取り戻す-」田口佳史(PHP出版)…「遣米副使として……」遣米使節団と咸臨丸一行を混同しているように読める部分がある。
木村芥舟(ウィキペディア)
「木村は咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ…
木村摂津守喜毅(ニコニコ大百科)…「遣米使節副使として渡海航海…」「副使は日本で別の船を仕立てて送り出すことにした。それが咸臨丸……」
国際派日本人養成講座「咸臨丸に乗り組む副使として任命されたのが…木村摂津守喜毅」
「ハワイスペシャリスト検定公式ガイド」(エイ出版社)「使節団副使の木村摂津守喜毅」その他は要点をわかりやすくまとめてあり、ハワイを知るのに良い検定ページ。
…この他ブログにもたくさん見受けられます。
 
咸臨丸子孫の会のHPには「木村摂津守喜毅が副使」という記述はありません。

     
          
◆実際はどうなのか


幕府が遣米使節副使として任命したのは村垣淡路守範正ひとりだけ。
以下がその文書
(原文は縦書き)

 己未九月十三日
                                      新見豊前守
                            村垣淡路守

                            小栗 又一

亜墨利加国へ使差遣候節新見豊前守正使村垣淡路守は副使小栗又一は立合之心得ニ可罷在事
                          《『幕末維新 外交史料集成 第一巻』禮儀門 P235

この他に副使に任ぜられたものはいないことを確認しておく。

遣米使節

(使節団では、三使・三公と
呼ばれた)

▲左から副使村垣淡路守範正・正使新見豊前守正興・目付小栗豊後守忠順

              


◆臨時代理は三名いた
 
 
では

木村摂津守喜毅は使節に万一の時の代理役だから副使と同格」とする説 はどうか。

 万一の時の代理役についてはこの後追加の指令があって、結局三名の臨時代理が指名され、その順序は次の1,2,3となる。

1「目付小栗又一は正使・副使に支障があった時は一人でも代行すべし」  という下知があった。

    ◯外国奉行下知状案   …まず、(外国奉行の)正使副使にその旨を伝え
奉行
     御下知状案
一、今般本条約書為取替亜墨利加國江被遣一條両国永世懇親之御主意厚相心得可申事
一、彼地滞在中諸般他邦江差響候義は雖些末之事厚勘弁可致事
一、右御用中万事其方共江御任被成間
  御国體を大切ニ存後来之御為深く勘弁致し取計可申事
一、其方共之内病気其外万一意外之差支有之節は又一儀壱人に而も御使可相勤事

      目付下知状案   …続いて目付小栗忠順にも伝えている。

御目付
   下知状案
一、今般本条約書為取替立会として亜墨利加國江被遣両国永世懇親之御主意厚相心得可申事
一、彼地滞在中諸般他邦江差響候義は雖些末之もの厚勘弁可致事
一、右御用中万事外国奉行江御任被成間心添いたし若奏論も候はば帰府之上
  御国體を大切ニ存後来之御為深く勘弁し心添可申事
一、外国奉行取計向若如何と存儀於有之は無腹蔵申談筋合宜敷方ニ決着可致事
一、外国奉行病気其外万一意外之差支も有之節は其方儀壱人ニ而も御使可相勤事
  右條々厚相心得外国奉行可申談もの也
       《『幕末維新 外交史料集成 第四巻』修好門 P2122


2,さらに咸臨丸出帆直前一月九日に追加指令があって、木村摂津守喜毅(咸臨丸)が代理役を命じられている。

○新見豊前守外二人疾病等ニテ使節勤メ難キ節ハ代リテ使節タルベシト木村摂津守ニ指令
庚申正月九日
                                  木村摂津守江
                                  木村摂津守
 今度亜墨利加国江被遣候 御使之面々御用中若病気等に而何も差支え候節者其方御使相勤候心得に而可被罷在候

、2,と同時に追加指令で、勘定組頭森田岡太郎(ポウハタン号)が使節(三使)も木村喜毅も支障が生じた場合の代理役を命じられている。

◯同上云々 組頭森田岡太郎ニ演達スベシト勘定奉行ニ指令
  庚申正月九日
       御勘定奉行江
                                    御勘定組頭
                                         森田岡太郎
 今度亜墨利加国江被遣候御使之面々並木村摂津守共御用中若病気等に而何も差支え候節者其方 御使相勤候心得に而可被罷在旨可被申渡候


以上を総合すると、幕府は

1,正使・副使に支障が生じた場合は目付小栗又一が代わって任務を果たすよう指示している。
2、三使(正使・副使・目付)共に病気等で不都合が生じた場合は、(咸臨丸の)軍艦奉行木村摂津守喜毅がその代理を務めること。
3、三使(ポウハタン号)も木村摂津守喜毅(咸臨丸)も支障が生じた場合は勘定組頭森田岡太郎(ポウハタン号)がその代理となることを指示している。

 *1,2,3,いずれも副使という正式な職名は与えていない
  
  
代理だから副使と同等=副使、とする論理は「副使にしたい」だけの無理な話。もしこの論理が通るなら、1,2,3の順序でまず小栗忠順が副使と言えることになる。

 *咸臨丸は当初は江戸-サンフランシスコ-パナマまで随行することになっていたから、2,の指令はパナマまでの太平洋上で判断・実行すべきことであって、国書も批准書も持っていない木村喜毅の立場ではパナマ以降は無効となる。
 *2,3の追加指示が十三日咸臨丸出港直前の一月九日に発せられていることから考えると、あくまでも往路の太平洋横断航海中の不慮の事故を想定して、付け足しのように急遽発令されたもので、当初からの計画的なものとは言いがたい。

 *多くの書籍やHP・ブログで
「木村摂津守喜毅が副使」「副使が乗る船が咸臨丸」としているのは誤りと言える。


 ◆「木村喜毅が副使」説の始まりはいつ、なぜー
 

 始まりは
 
1960昭和35年、遣米使節100年記念式典が行われた時の参列者名簿にある木村喜毅の肩書は「軍艦奉行」であって副使とは書かれていない。式典には木村摂津守喜毅の子孫しづ氏が参列している。「木村喜毅が副使」説は昭和35年以後に生まれ、近年に広まったと思われる。

 ■なぜ
 1961昭和36年に『遣米使節史料集成』が発刊され、そこに収められた史料、とくにブルック大尉の「咸臨丸日記」から咸臨丸の実態が知られて、

戦前の修身教科書
 「勝海舟の願いで派遣されることになった咸臨丸」
 「日本人だけで太平洋横断航海をした偉業・壮挙」
 「航海中立ち続けてみんなを励ました勝海舟」
という勝海舟・咸臨丸の勇ましい虚構イメージが覆ることになった。


 もともと「修身」には虚構の「お話」が含まれるから、歴史ではない。戦後にメッキが剥がれただけのこと
近年のテレビや映画で勝麟太郎が咸臨丸で活躍する画面が出てこないのも、理由は同じで、描けなくなったからである。

 これ以前の書物に「木村喜毅の副使説」は見られないから、イメージが覆った咸臨丸の格上げ復権を図る動きとして出てきたのであろう。
 

たとえばこの本
『咸臨丸海を渡る』土居良三(未来社1992平成2年)(中公文庫1998) と
『軍艦奉行木村摂津守』土居良三(中公新書1994平成6年) に

正使に万一の支障があった場合、代るべき副使を乗せるための船という名目で、その副使に軍艦奉行を当てることとした」

「別船に乗る副使」

「別船を副使の乗る船としたのは・・・」

「正式に遣米副使として咸臨丸に搭乗」


   …としているのが初出と思われる。

『軍艦奉行木村摂津守』中公新書平成6年

 好著と言われる同書になぜこのような記述をしたのだろう。

 さらに、同書には軍艦奉行木村喜毅が「遣米使節に任ぜられた」として次のような記述もある。
   「11月24日、江戸城内桔梗の間において、木村図書に遣米使節を命ずる式が行われた。「木村日記」には
   次のように記されている。
      掃部頭御老中方列座、和泉守殿左之通り仰せ付けられ候
             亜墨利加國江為御用被差遣候間可致用意候 」


 これは、「アメリカへ御用のため派遣するから用意しなさい」とあるだけで、「遣米使節に任じる」命令形式とはいえない。もし木村喜毅を遣米使節あるいは副使に任じたという公式文書があるなら正式にここに示すべきであろう。
 
つづいてこの本

 そのことについて宗像善樹著『咸臨丸の絆』(海文社・2014平成26年)では 

 会話体で

・「上様におかれては、木村図書に特別の思し召しがおありでござる。それは…別船を仕立て、副使の木村図書を軍艦奉行として差し遣わし、彼の地へ向かわせよ、との御沙汰である」
(p6)

「これはポウハタン号に搭乗する正使に病気や不測の事態が生じ、アメリカワシントンへ上ることが叶わざるときは、副使の木村図書が正使となりアメリカ大統領に謁見いたすべし、と御内意によるものでござる。しこうして、木村喜毅は副詞といえども正使の新見と同格の御役目を担うことになるゆえ、さよう心得られたい」(p7)

…として将軍家茂の内命があったと記述しているが、創作会話の中でのフィクションは史実ではない。
 *この本の帯で 歴史ドキュメントとしているが、創作会話が入っていてはドキュメントとはいえない。フィクションとすべきである。

 このような人事は思わせぶりに「内命」などと隠し立てする内容ではない。上記小栗又一が任命された例のようにむしろほかの使節たちが前もって承知しているべきことだから、上記のように公式指令が出されている。「副使」に任命したという公式文書がないのでは「木村喜毅が遣米使節副使」説は通らない。

 ついでにいえば、本書文中で
 「小栗が…代表と見られた」
という錯誤の文章は、ウィキペディア「小栗上野介」からの転用であろう。正使新見豊前守正興も副使村垣淡路守範正も外国奉行として外国人との折衝を度々経験しているから、この文章はあたらない
 
また
 勝麟太郎が『帰国するときもアメリカ人の手助けが必要だ』といいだして、5名を雇って帰国した…。」
としているが、前々年安政五年九月に案内役の米人を雇う話は始まっていて、前年安政六年十二月段階で「帰国の際も米人を雇う」ことが決まっていた。勝麟太郎とは無関係な話を勝麟太郎の功績に仕立てている。

 とはいえ本書は、木村喜毅の温厚真摯な人柄に接して心酔するようになった福沢諭吉との「絆」がいきいきと描かれた好著。
    


     ◆正式な遣米使節(正使・副使・目付)の任命は

 

じつは正式な遣米使節(正使・副使・目付)の任命はすでに上記11月の木村摂津守喜毅より2ヶ月前の1859安政六年九月十三日に芙蓉の間において行われていて、次の記録で目的も役割・職名も明確に判明する。
    
   ○外国奉行新見豊前守村垣淡路守目付小栗又一ニ条約本書交換ノ命令書

  己未九月十三日            外国奉行
                        新見豊前守
                        村垣淡路守

                     御目付

                        小栗 又一

   亜墨利加国へ本条約為取替として被差遣候間用意可致候
      右於芙蓉間掃部頭殿御老中御列座下総守殿被仰渡


 と、まず3名にアメリカへ条約取替のために派遣することが告げられ、同時に次のように3名の役割も告げられている。

    ◯右三名ニ使節の命令書
  己未九月十三日
    新見豊前守
    村垣淡路守
    小栗 又一

  亜墨利加国へ使差遣候節新見豊前守正使村垣淡路守は副使小栗又一は立合之心得ニ可罷在事

                     《『幕末維新 外交史料集成 第一巻』禮儀門 

    ■木村喜毅は遣米使節副使ではない

 確かに、木村喜毅の日記『奉使米利堅紀行』(遣米使節史料集成第四巻)には使節代理を命じられている次の文がある。
 「此頃閣老より命ありて、使節の内若病疾等にて差礙(さしさわりある時ハ、代りて和聖東washington)に至り予に使 節をつとむへしと・・・」
 しかしこれはあくまでも遣米使節が万一の時の臨時代理を一月九日に命じられたもので、遣米使節そのものに任じられたわけではない。ここで任じられた臨時代理は上述のとおり
 1 目付小栗忠順(ポウハタン号)
 2 軍艦奉行木村喜毅(咸臨丸)
 3 勘定組頭森田岡太郎(ポウハタン号)    
と、1、2、3の順に代理役を決めておいたまでのこと。

  それを
 正使に万一の支障があった場合、代るべき副使を乗せるための船という名目で、その副使に軍艦奉行を当てるこ ととした」(『軍艦奉行木村摂津守』)
とあたかも木村喜毅一人が臨時代理役と思わせ、その副使を乗せるための咸臨丸とするのは間違いである。このことについて一月九日の下知状では
    
「御使之面々御用中若病気等に而何も差支え候節者…」
と、
「御使之面々…何(いずれ)も差し支え」つまり三使ともいずれも故障が生じた時の臨時代理であることを念押ししている。


 だから
 「正使に万一の支障…」(『軍艦奉行木村摂津守』)
とするのは言葉足らずの表現で、「使節に万一の」、あるいは「正使・副使・目付に万一の支障……」とすべきであろう。
 「正使」とだけしたのでは、ポウハタン号に乗っている副使(外国奉行)村垣淡路守範正や目付小栗忠順を無視したことになる。臨時代理だからといって軍艦奉行が外国奉行の副使(村垣淡路守範正)と目付(小栗忠順)を飛び越えて外交の前面に出ることはありえない。

 それとも意図的に「正使の次は咸臨丸・木村喜毅」と読者にイメージさせ、咸臨丸の格上げを図っているのだろうか。
 
 

 中公新書『軍艦奉行木村摂津守』の問題点

①副使は正使に支障があった場合のみの臨時代理役、と副使の意味が矮小化され、正式に常任の遣米使節副使として任ぜられている外国奉行村垣淡路守範正の存在を無視、あるいは気づいていない。

②咸臨丸派遣の目的がポウハタン号に乗っている遣米使節の護衛あるいは随行という名目と実質は航海練習であったのを、「副使が乗る船」として格上げを図っている。そのことは同時にポウハタン号に正式な常任の副使(外国奉行)村垣淡路守範正が乗船していることを無視、あるいは気がつかない。

③軍艦奉行木村喜毅が「遣米使節に任ぜられた」、と格上げを図っている。
遣米使節は正使・副使・目付の三名で、随行した団員たちの間では「三使」「三公」と呼ばれている。咸臨丸には「使節」は乗っていない。

 
*もし木村喜毅がこの話を聴いたら「私は副使ではないのに後から勝手に格上げしないでほしい。私が職名を詐称しているようで恥ずかしい」と静かに呟くに違いない。

 *お願い:当方の調査不足があるかもしれない。もし、木村喜毅に副使を任命している公式史料があったら、ご教示いただきたい。その時は直ちにこのページを撤回し不明をお詫びします。
                                                    (2016平成28年8月)
 
                                    


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