横須賀造船所(東善寺)  幕末明治日本の産業革命の地―横須賀明細一覧図を読む

横須賀造船所はテーマパークだった
横須賀明細一覧図を読む

 横須賀造船所は「蒸気機関を原動力とする
         日本最初の総合工場」
だった…

 従来、日本の工業の原動力は人力-牛馬-水車までだった。横須賀製鉄所ははじめから蒸気機関を原動力としていたから「蒸気機関を原動力とする日本最初の総合工場」で、日本の産業革命の地といえる。司馬遼太郎が「日本の近代工学のいっさいの源泉」(「三浦半島記」)と書いたのは、このことを指す。

         「軍港」以前の横須賀を読む
 横須賀は初めから軍港ではない。「軍港」になったのは明治末年から。それ以前の横須賀をこの一覧図で見ると「産業革命の地・横須賀」であることが読めてくる。

◇横須賀明細一覧図は明治12年版14年版16年版21年版がありこの図からいろいろなことが読み取れる。
◇市販していた横須賀明細一覧図…見学を終えた後この一覧図をお土産として買えたから、現在でも全国の旧家から出てくる。
◇この絵をよく読むと、壮大な工場群を擁した一大産業革命の地であることが見えてくる。

この図は明治16年版で、明治18年8月にも販売したいとお届け済みのもの。(東善寺所蔵)
大きさ:A3版くらい
発行:日本橋山本良助
発売:横須賀汐留町鈴木卯兵衛
秘密の軍港ではなかった
 富士登山や、熱海、湯河原の帰り、丹沢の大山詣りの帰りなどに、当時最大の工業施設を見学しようと
この施設の動いているさまを見るために、内外国人を問わず、一日に参観する者数百人
 
 ここは日本近代化を目の前で実感できる一大テーマパークで、外国人も見物に来ていた。だからこのような絵図が毎年作られ、お土産として買われて全国に持ち帰られた。横須賀は秘密の軍港基地ではなかった。
 のちに大正昭和に入ると各国との軍備拡張競争が強くなり、民間施設が充実してきたこともあってしだいに軍専用となって、秘密基地化していった。

■三十数戸の「一漁村に造船所を造ったから」、市になった
横須賀市に造船所を作ったのではない。造船所を造ったら人が集まってきて市になったのである。

タイトル下の解説文▲ には、次のように書かれている。▲

「この地はむかしは僅か三十数戸の海辺の一漁村
(元町ふきん)であった。ひとたび造船所を設けてからわずか10数年でこれほど隆盛の小都会となったのは、実に驚くべき開明の進歩である」

 幕府ははじめ長浦湾に設ける予定で、フランス人技師を案内し、測量したところ「もう少しいい場所がないか…」、というので横須賀湾を見てもらったら、海深・地形・土質とも造船所に最適の場所とわかった。

 横須賀村に造ったから横須賀市になった。造船所を長浦湾に造っていれば「長浦市」、房総半島にでも造っていれば今ごろここはたぶん、「浦賀市の一部」だったろう。



       ■フランス人技師が横須賀に決めた理由は

1、太平洋に対して横須賀湾の入口が逆の北向きのため荒波を防いで海面が穏やか。
2、海の深さが20m以上あって造船に適している。

…浅いと、完成した船を海に入れる「進水式」で船を入れたショックが海底から跳ね返って、船をひっくり返す。
横須賀は大きな空母もそのまま横付けできる海の深さがある。例:九州の佐世保は大きな空母は入港できず、沖に停めてあとはボートで陸と連絡している。

3、土が土丹岩(どたんがん)という粘土質で、粘りがあって割れにくいので、ドック建造に適している。
…土丹岩は水飴が固まったような岩で、ヒビが伝わらないからいっぺんに割れる恐れがない。実物は品川区立歴史館(大森貝塚の近く)に展示されている。
4、山が迫っているから、風を防ぎ、造船に適している。
…和船は盥タライのような平底型。洋式船は断面がハート形で、造船の時は竜骨(キール)だけで接地し、あとは棒で支えて作業するから強風で倒される心配がある。

 
            横須賀製鉄所の特徴三つ
1、慶應2年から蒸気機関で工業製品を製造していた先進性
2、鉄製品、木工製品、ロープ、などあらゆる工業製品を製作する総合工場
3、モノづくりの原点は人づくりー「黌舎」「機関学校」が人材を育てた

 東京大学工学部生は、機関学校で現場実習することが単位として義務付けられていた。当時機械工学の原点・最先端が造船所で、日本にここ以上の機械工学を学べる現場は存在しなかった。現在でも、大きなトンネルをいっぺんに丸く掘り抜く大きなシールドマシン
(トンネルを掘削する大きな工具)は造船所で作られている。
 ちなみにいまは飛行機工学、特に宇宙工学が最先端。

詳しくは以下のページをご覧ください。
横須賀造船所三つの特徴 …横須賀製鉄所(造船所)の特徴三つを見ると、日本の産業革命の地であることがわかる。

 製綱所 長さ270m。「糸へん」に注意。ロープ工場である。日本の工業ロープ製造はここから始まった。しだいに民間の製綱技術が上がり、明治22年に民間からの買い付けで済む、としてここは操業停止した。二段ある明かり取りの窓の構造は、富岡製糸場も同じ。  製帆所 
 当時の蒸気船は石炭を節約してふだんは風で走っていた。だから帆もロープも必要。日本には西洋式の強い帆布はなかったから
、ここで織っていた。
富岡製糸場の原型建物
 この製綱所は富岡製糸場の建物によく似ている。それも道理で、富岡製糸場の建物は明治4年に横須賀造船所の建築担当の技師が設計図を引き、横須賀造船所の建物の設計図を基に描いてすべてをたった50日で仕上げたという。実際の建築は技師のバスチャンが富岡に派遣されて建築した。バスチャンは、横須賀からフランス語で書かれた設計図の文字やメートル法の寸法を読める日本人大工を数人連れてゆき、現地の大工を指揮して仕事を進めた。
 電気灯 電気灯(アーク灯)が明るくともって、夜業が行われていた。大阪紡織よりも3年早い。電信線で電話も引かれていた  蒸気帆船 この当時は蒸気機関を備えていても「ふだんは帆で走る」帆船の時代。たくさんのロープが使われた。
 鍛造と旋盤 ネジくぎをはじめ船の鉄の部品とそれを扱う工具はここや「練鉄所」で作られた。工作機械を動かす原動力はすべて蒸気機関であった。蒸気機関のシンボル煙突に注意、ここが「日本産業革命の地」たるゆえんである。  構内の鉄道 造船所内の運搬作業には馬車鉄道が使われていた。
横須賀線開通はこの6年後(明治22年)である。製罐所(左奥) 蒸気機関の釜や窯を造る
製飾所(中央) 飾り物といわれる各種の細かな金物から食堂の鍋釜まで造る
   
  組立所 錬鉄所などで製造した部品を完成させる工場。煙突は機械の運転動力に蒸気機関が使われていたことを示す、富岡製糸場に共通する近代工業のシンボル。   船台造船小屋 船台は地面を斜めに掘って進水に備え、さまざまな部品を集めて船に組み立てる。雨天でも作業ができるよう屋根をかけてあった。
 黌舎(こうしゃ) 定員60人で5年間フランス語や数学、物理、造船技術を学ぶ。日本最初の職場内学校はフランス語で始まった。
 機関学校 東大工学部に匹敵する内容の工業学校で、学費無料のほか小遣いまでもらえたから全国から優秀な若者が殺到し、受験の予備校までできた。中島飛行機を興した中島知久平も明治40年にここを卒業。
 錬鉄所 ひな形や設計図によって鉄を鍛鉄する。火床40あまり、スチームハンマー8基が音を立てて部品を造っていた。製鉄所ではない。  職工学校 技手になるための学校と、ここに入るための予備校や塾があった手前は時計塔。15分遅刻で欠勤となった。職工は時計に合わせて働き、定時就労が日本人に定着していった。
 クレーン 輸入された部品機具を陸揚げする30dクレーンは、造船所建設の最初に設置された。  電信局 明治初年から電信線が引かれ、電信器が使われていた。

東京・横浜から定期船
工事を始めたときから、横浜ー横須賀間に定期蒸気船を走らせて、資材や人員運搬にあてた。
絵図の右下に東京など各地への里程表があり、横浜から1日5回の定期蒸気船がでていたことがわかる。東京見物、伊勢参り、富士登山、大山参りのあとの帰りに横浜から蒸気船で横須賀へ来ると、旅館に泊り、翌朝造船所を案内してもらって見物することが出来た。

一日に数百人の見物客
 「
船渠(せんきょ・ドック)及び諸機械の運転効用を観(み)んが為内外国人を問わず来観する者一日数百人の多きに至る……」(『横須賀明細一覧図』明治16年・解説)
 「
港内の壮観たるものは造船所の構造にして、ドック、船台の模様より諸機械運転の作用等を縦覧(じゅうらん)せんが為内外国人の来遊するもの日々数百人の多きに至る」(竹内馬渓『横須賀港独案内』明治21年発行)

珍しい機械設備や電信、電気灯、機械仕掛けの工作状況をひと目見ようと、外国人も含めて1日に数百人の見物客が押し寄せる一大テーマパークが横須賀だった。軍専用の軍港とされ秘密基地のようになっていったのは、日露戦争後の明治40年代になってからのこと。 「軍港都市」といういかめしさは明治末から大正昭和の軍拡競争時代の産物で、もともとは日本の工業近代化のモデル工場であったことがよくわかる。

 各地への里程 「横浜まで七里二十七丁、毎日5回蒸気の定期船が出ている」とあり、富士山、大山、箱根の里程は、そこから立ち寄る客が多いということ。  横浜 明治5年から新橋ー横浜間に汽車が走った。近代工場の横須賀見物には横浜のほか、東京からも定期船が出ていた。
 宿屋 いまのヴェルニー公園あたりの宿屋に泊まった客は、朝飯がすむと8時から番頭に案内されて「御場所」と呼ばれた造船所内を見物した。  造船台 かつての花形職場で、ここから日本近代化のシンボルとしての船が次々に作られ、昭和30年代に造船大国となる基礎がここだった。いまのダイエーの裏あたり。
 妓楼 大滝町一帯に20数軒あまりあって、芸妓が200名くらいいた  長浦 幕府がはじめにフランス人技師を案内した長浦湾。ここに造船所を造っていればいまごろは横須賀市ではなく「長浦市」になっていたろう
イギリス・アメリカ・ロシア・フランス…の船も修理した
 「(つね)に英米の商船、露仏の鉄艦、大となく小となく修理工作を依頼して踵(きびす)を接す。誠に東洋一の工場と謂(いい)つべし」(『横須賀繁盛記』明治21年)

 秘密厳守の「軍港都市横須賀」というイメージだけで横須賀を捉えてはいけない。近代造船・修理の先進工場としての横須賀を見直すことが大切。

誰でも買えた絵図
 横須賀はもとはオープンな工場だったから、この絵図もはじめは誰でも買うことが出来た。よく売れたから何度も再版されている。しだいに軍拡競争の時代になって、情報の秘密化がはかられると、絵図の出版が規制され、秘密基地化していった。戦時中は、国鉄横須賀駅からの海辺(いまのヴェルニー公園あたり)は高い板塀で造船所を隠してあって、そのまま敗戦を迎えたから「軍港都市横須賀」のイメージをぬぐえない市民が多い。
この絵図から横須賀市の歴史を読むと「日本工業化の源泉・横須賀」が理解できる。


横須賀製鉄所では製鉄をしていなかった。
 
明治4年に「横須賀造船所」と改称するまでここは「横須賀製鉄所」だった。この「製鉄所」は「鉄製品を作る」「鉄で造る」所という意味だった。だから横須賀では鉄鉱石から鉄を取り出す意味の第1次製鉄はしていなかった。すでに製鉄された銑鉄を買って(はじめは外国から)、工作をしていた。
 明治初年に製鉄所の意味が「鉄を製する」所、と変わって現在に至っている。このことを踏まえないと下記*2のような錯覚をする学者が出る。

横須賀造船所は「幕府を強化するだけの軍需工場」、と矮小評価する学者

 「日本の近代工学のいっさいの源泉」(司馬遼太郎『街道を行く―三浦半島記』)となったこの横須賀造船所を、たんなる軍事工場と矮小評価する学者もいる。たとえば、次のような論評だ。

小栗上野介は、……横須賀に軍需工場を作って軍艦を作るという構想を持っていた。そうして、徳川の新しい政権を作ろうというわけだが、これは実にぞっとする構想である。結局はフランスの属国のようになる(*1)ことだから。」「(略)・・・昔から、落城のときには、相当な英雄が出るものだが、小栗はそれに値する。彼は、最後に横須賀に大きな溶鉱炉かなんか建てる(*2)のだが、そこでやむを得ず家を売り渡すが、蔵をつけて売り渡す(*3)ところがせめてものプライドだといっている。あくまでも徳川の権威を重んじたわけである。」・・・・・谷沢永一(『封印の近現代史』ビジネス社2001年)より

*1、「結局はフランスの属国のようになる」・・・なぜいきなりこういう言いがかりめいた結論が出るのか不思議ですが、関連ページの「四国を担保にした話」や「横須賀製鉄所(造船所)の借款説」をあわせてお読みになれば、それが誤解であるとわかります。

*2、「大きな溶鉱炉」・・・とありますが、じつは横須賀製鉄所は鉄鉱石から鉄を取り出すという意味の製鉄所ではありません。第一次製鉄で作られた銑鉄・鋳鉄が運び込まれ、加工され製品化される「鉄製品を製する所」という意味ですから、「大きな溶鉱炉」はありませんでした。
 造船所内にあったのは銑鉄、鋳鉄を再度溶かして製品化するための小さな反射炉でした。
明治4年になって「造船所」と改称し、製鉄所は現代の意味の「鉄を製する所」になってゆく。

*3、小栗上野介が栗本鋤雲に語った「いずれ土蔵つきの売家になる」というセリフは、明治維新の3年前にいずれ徳川家の政権はもたない、と見通していた江戸っ子旗本のシャレ。他の人には「土蔵付売り据え」とも言ってます。

歴史の現場や史実を踏まえないまま、「大きな溶鉱炉かなんか建てる」などと、史実から目をそらせた想像話を展開して「ぞっとする構想」と関西大学名誉教授が評価するのは、いかがなものか。



おススメの本
歴史読本別冊「横須賀」 
2011平成23年11月発行 1000円(税共)  いいガイドブックです。
軍港の街」というサブタイトルは大衆向けであろうが、初めから軍港ではなかったからこのホームページの趣旨とはそぐわない。編集にこのページを見て活かしてくれたら、もっといいタイトルが付けられたことだろうと、残念に思う。
いずれ横須賀製鉄所の見直しがひろがって「日本産業革命の街」と認識される日が来ることを願っている。
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