横須賀造船所  横須賀明細一覧図を読む

横須賀造船所はテーマパークだった
横須賀明細一覧図を読む

◇横須賀明細一覧図は明治12年版14年版16年版21年版がありこの図からいろいろなことが読み取れる。

この図は明治16年版で明治18年8月発行のもの。
大きさ:A3版くらい
発行:日本橋山本良助
発売:横須賀汐留町鈴木卯兵衛
富士登山や、熱海、湯河原の帰り、丹沢の大山詣りの帰りなどに、当時最大の工業施設を見学しようと「この施設の動いているさまを見るために、内外国人を問わず、一日に参観する者数百人」。ここは日本近代化を目の前で実感できる一大テーマパークだった。だからこのような絵図が毎年作られ、お土産として買われて全国に持ち帰られた。秘密の軍港ではなかった。

■三十数戸の「一漁村に造船所を造ったから、市に」なった
<横須賀市に造船所を作ったのではない。造船所を造ったら人が集まってきて市になったのである。>

タイトル下の解説文には、次のように書かれている。

「この地はむかしは僅か三十数戸の海辺の一漁村(元町ふきん)であった。ひとたび造船所を設けてからわずか10数年でこれほど隆盛の小都会となったのは、実に驚くべき開明の進歩である」

 幕府ははじめ長浦湾に設ける予定で、フランス人技師が測量したところ「もう少しいい場所がないか…」、というので横須賀湾を見てもらったら、海深・地形・土質とも造船所に最適の場所とわかった。
 横須賀湾に造ったから横須賀市になった。造船所を長浦湾に造っていれば「長浦市」、房総半島にでも造っていれば今ごろここはたぶん、「浦賀市の一部」だったろう。

あらゆる工業製品を生み出す総合工場が「造船所」

 造船所入口に、俗称「長ムネ」と呼ばれる「製綱所」がある。「鋼・はがね」ではなくて糸ヘンの「綱・つな」で、ロープ工場だから建物が長い。幕末・明治初期の蒸気船は、ふだんは石炭を節約して帆で走ったから、たくさんの種類のロープを必要とした。近代ロープ工業はここから広まったといえよう。
 製帆所という帆布の縫製工場もある。ネジはもちろん、あらゆる工具・部品・工業製品をここで造って「船も造った」から、造船所の周辺に下請け工場がない。下請けの必要がなかったのだ。
「かつてここは日本の近代工学の源泉であった」(司馬遼太郎「三浦半島記」)といわれるゆえん。
 明治4年、それまでの製鉄所から横須賀造船所に名称が変わり、内部の構成も造船部、造機部、造兵部、木工部などに分かれていった。
製綱所の先端の時計塔は、ほとんどの職工の家に時計がない時代だから大事なものだった。ちなみに労務管理上「針を30分進ませてあった」という。


製綱所 「糸へん」に注意。ロープ工場である。日本の工業ロープ製造はここから始まり民間に流れた。 製帆所 艦船の帆や天幕を縫う裁縫所
電気灯 電気灯(アーク灯)が明るくともって、夜業が行われていた。大阪紡織よりも3年早い。電信線で電話も引かれていた 蒸気船 この当時はまだ蒸気機関を備えた帆船の時代。たくさんのロープが使われた。
鍛造と旋盤 ネジくぎをはじめ船の鉄の部品とそれを扱う工具はここや「練鉄所」で作られた。 構内の鉄道 造船所内の運搬作業には馬車鉄道が使われていた。
横須賀線開通はこの6年後(明治22年)である。
黌舎(こうしゃ) 定員60人で5年間造船技術を学ぶ。日本最初の職場内学校はフランス語で始まった。
機関学校 東大工学部に匹敵する内容の工業学校で、給料までもらえたから全国から優秀な若者が殺到し、受験の予備校までできた。中島飛行機を興した中島知九平もここを出ている。
錬鉄所 ひな形や設計図によって鉄を鍛鉄する。火床40あまり、スチームハンマー8基が音を立てて部品を造っていた。製鉄所ではない。 職工学校 技手になるための学校と、ここに入るための予備校や塾があった
クレーン 輸入された部品機具を陸揚げする30dクレーンは、造船所建設の最初に設置された。 電信局 電信線が引かれ、電話が使われていた。

東京・横浜から定期船
工事を始めたときから、横浜ー横須賀間に定期蒸気船を走らせて、資材や人員運搬にあてた。
絵図の右下に東京など各地への里程表があり、横浜から1日5回の定期蒸気船がでていたことがわかる。東京見物、伊勢参り、富士登山、大山参りのあとの帰りに横浜から蒸気船で横須賀へ来ると、旅館に泊り、翌朝造船所を案内してもらって見物することが出来た。

日に数百人の見物客
 「船渠(せんきょ・ドック)及び諸機械の運転効用を観(み)んが為内外国人を問わず来観する者一日数百人の多きに至る……」(『横須賀明細一覧図』明治16年・解説)
 「港内の壮観たるものは造船所の構造にして、ドック、船台の模様より諸機械運転の作用等を縦覧(じゅうらん)せんが為内外国人の来遊するもの日々数百人の多きに至る」(竹内馬渓『横須賀港独案内』明治21年発行)

珍しい機械設備や電信、電気灯、機械仕掛けの工作状況をひと目見ようと、1日に数百人の見物客が押し寄せる一大テーマパークが横須賀だった。軍港になって秘密基地のようになっていったのは、日露戦争後の明治40年代になってからのこと。 「軍港都市」といういかめしさは明治末から大正昭和の軍拡競争時代の産物で、もともとは日本の工業近代化のモデル工場であったことがよくわかる。

各地への里程 「横浜まで七里二十七丁、毎日5回蒸気の定期船が出ている」とあり、富士山、大山、箱根の里程は、そこからの客が多いということ。 横浜 明治5年から新橋ー横浜間に汽車が走った。近代工場の横須賀見物には東京からも定期船が出ていた。
宿屋 いまのヴェルニー公園あたりの宿屋に泊まった客は、朝飯がすむと8時から番頭さんに案内されて「ご場所」と呼ばれた造船所内を見物した。 造船台 かつての花形職場で、ここから日本近代化のシンボルとしての船が次々に作られ、造船大国となった。いまは存在しない
妓楼 大滝町一帯に20数軒あまりあって、芸妓が200名くらいいた 長浦 幕府がはじめにフランス人技師を案内した長浦湾。ここに造船所を造っていれば「長浦市」になっていたろう
イギリス・アメリカ・ロシア・フランス…の船も修理した
 「毎(つね)に英米の商船、露仏の鉄艦、大となく小となく修理工作を依頼して踵(きびす)を接す。誠に東洋一の工場と謂(いい)つべし」(『横須賀繁盛記』明治21年)

 秘密厳守の「軍港都市横須賀」というイメージだけで横須賀を捉えてはいけない。近代造船・修理の先進工場としての横須賀を見直すことが大切。

誰でも買えた絵図
 横須賀はもとはオープンな工場だったから、この絵図もはじめは誰でも買うことが出来た。よく売れたから何度も再版されている。しだいに軍拡競争の時代になって、情報の秘密化がはかられると、絵図の出版が規制され、秘密基地化していった。戦時中は、国鉄横須賀駅からの海辺(いまのヴェルニー公園あたり)は高い板塀で造船所を隠してあって、そのまま敗戦を迎えたから「軍港都市横須賀」のイメージをぬぐえない市民が多い。
この絵図から横須賀市の歴史を読むと「日本工業化の源泉・横須賀」が理解できる。

横須賀造船所は「幕府を強化するだけの軍需工場」、と矮小評価
 ところが、「日本の近代工学のいっさいの源泉」(司馬遼太郎『街道を行く―三浦半島記』)となったこの横須賀造船所を、たんなる軍事工場と矮小評価する学者もいる。たとえば、次のような論評だ。

小栗上野介は、……横須賀に軍需工場を作って軍艦を作るという構想を持っていた。そうして、徳川の新しい政権を作ろうというわけだが、これは実にぞっとする構想である。結局はフランスの属国のようになる(*1)ことだから。」「(略)・・・昔から、落城のときには、相当な英雄が出るものだが、小栗はそれに値する。彼は、最後に横須賀に大きな溶鉱炉かなんか建てる(*2)のだが、そこでやむを得ず家を売り渡すが、蔵をつけて売り渡すところがせめてものプライドだといっている。あくまでも徳川の権威を重んじたわけである。」・・・・・谷沢永一(『封印の近現代史』ビジネス社2001年)より

*1、「結局はフランスの属国のようになる」・・・なぜいきなりこういう言いがかりめいた結論が出るのか不思議ですが、関連ページの「四国を担保にした話」や「横須賀製鉄所(造船所)の借款説」をあわせてお読みになれば、それが誤解であるとわかります。

*小栗上野介の「いずれ土蔵つきの売家」というセリフは、明治維新の3年前にいずれ徳川家の政権はもたない、と見通していた江戸っ子旗本のシャレ。

*2、「大きな溶鉱炉」・・・とありますが、じつは横須賀製鉄所には鉄鉱石から鉄を取り出すという意味の「溶鉱炉」はありませんでした。第一次製鉄がすんだ、錬鉄・鋳鉄が運び込まれて加工され製品化されていました。歴史の現場や史実を踏まえないまま、「大きな溶鉱炉かなんか建てる」などと、史実から目をそらせた想像話を展開して「ぞっとする構想」と評価するのは、いかがなものか。

関連ページ
横須賀造船所の借款説:約定書の読み違いで濡れ衣
小栗の濡れ衣・四国・蝦夷を担保にした:幕末世情混乱の中の根無し草
横須賀造船所のページ
「土蔵つき売家」の横須賀造船所のページ
レンガのページ:やっと入手できた、横須賀で作られたレンガ
森林保護育成の提唱:造船には多量の木材が必要だから・・・
技師長フランソワ・レオンス・ヴェルニー:横須賀市のページ(リンク)
勝海舟の「海軍500年説」は:「海舟日記」の信憑性ゆらぐ
東郷元帥の謝辞:日本海海戦の勝利は小栗さんのおかげ・・・
幕末の構造改革:ネジをお土産にした小栗上野介