| 横須賀造船所 ●● 横須賀明細一覧図を読む |
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横須賀造船所はテーマパークだった |
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◇横須賀明細一覧図は明治12年版14年版16年版21年版がありこの図からいろいろなことが読み取れる。 |
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大きさ:A3版くらい 発行:日本橋山本良助 発売:横須賀汐留町鈴木卯兵衛 |
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■三十数戸の「一漁村に造船所を造ったから、市に」なった |
タイトル下の解説文には、次のように書かれている。 |
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■あらゆる工業製品を生み出す総合工場が「造船所」 造船所入口に、俗称「長ムネ」と呼ばれる「製綱所」がある。「鋼・はがね」ではなくて糸ヘンの「綱・つな」で、ロープ工場だから建物が長い。幕末・明治初期の蒸気船は、ふだんは石炭を節約して帆で走ったから、たくさんの種類のロープを必要とした。近代ロープ工業はここから広まったといえよう。 |
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| 製綱所 「糸へん」に注意。ロープ工場である。日本の工業ロープ製造はここから始まり民間に流れた。 | 製帆所 艦船の帆や天幕を縫う裁縫所 |
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| 電気灯 電気灯(アーク灯)が明るくともって、夜業が行われていた。大阪紡織よりも3年早い。電信線で電話も引かれていた | 蒸気船 この当時はまだ蒸気機関を備えた帆船の時代。たくさんのロープが使われた。 |
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| 鍛造と旋盤 ネジくぎをはじめ船の鉄の部品とそれを扱う工具はここや「練鉄所」で作られた。 | 構内の鉄道 造船所内の運搬作業には馬車鉄道が使われていた。 横須賀線開通はこの6年後(明治22年)である。 |
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| 黌舎(こうしゃ) 定員60人で5年間造船技術を学ぶ。日本最初の職場内学校はフランス語で始まった。 |
機関学校 東大工学部に匹敵する内容の工業学校で、給料までもらえたから全国から優秀な若者が殺到し、受験の予備校までできた。中島飛行機を興した中島知九平もここを出ている。 |
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| 錬鉄所 ひな形や設計図によって鉄を鍛鉄する。火床40あまり、スチームハンマー8基が音を立てて部品を造っていた。製鉄所ではない。 | 職工学校 技手になるための学校と、ここに入るための予備校や塾があった |
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| クレーン 輸入された部品機具を陸揚げする30dクレーンは、造船所建設の最初に設置された。 | 電信局 電信線が引かれ、電話が使われていた。 |
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■東京・横浜から定期船 |
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■日に数百人の見物客 |
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| 各地への里程 「横浜まで七里二十七丁、毎日5回蒸気の定期船が出ている」とあり、富士山、大山、箱根の里程は、そこからの客が多いということ。 | 横浜 明治5年から新橋ー横浜間に汽車が走った。近代工場の横須賀見物には東京からも定期船が出ていた。 |
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| 宿屋 いまのヴェルニー公園あたりの宿屋に泊まった客は、朝飯がすむと8時から番頭さんに案内されて「ご場所」と呼ばれた造船所内を見物した。 | 造船台 かつての花形職場で、ここから日本近代化のシンボルとしての船が次々に作られ、造船大国となった。いまは存在しない |
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| 妓楼 大滝町一帯に20数軒あまりあって、芸妓が200名くらいいた。 | 長浦 幕府がはじめにフランス人技師を案内した長浦湾。ここに造船所を造っていれば「長浦市」になっていたろう |
| ■イギリス・アメリカ・ロシア・フランス…の船も修理した 「毎(つね)に英米の商船、露仏の鉄艦、大となく小となく修理工作を依頼して踵(きびす)を接す。誠に東洋一の工場と謂(いい)つべし」(『横須賀繁盛記』明治21年) 秘密厳守の「軍港都市横須賀」というイメージだけで横須賀を捉えてはいけない。近代造船・修理の先進工場としての横須賀を見直すことが大切。 |
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■誰でも買えた絵図 |
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■横須賀造船所は「幕府を強化するだけの軍需工場」、と矮小評価 |
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