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ブルック大尉 ジョン・マーサー・ブルック John Mercer Brooke |
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ジョン・マーサー・ブルックは、部下10人とともに咸臨丸に乗って咸臨丸の航海を助け、サンフランシスコまで同乗したアメリカ人。明治以後「日本人だけで航海した」と教えられる咸臨丸だが、実際には、ブルックとジョン万次郎、それに10人のアメリカ人乗組員がいなかったら、経験のない日本人乗組員だけでは北太平洋に沈没していたと言われている。以下、ブルック大尉について3つの英文ウェブサイトが見つかったので翻訳してみた。 |
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通説「アメリカ人を乗せてやった」は誤り Common belief "I gave the Americans a ride" is wrong. |
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ブルック大尉 ジョン・マーサー・ブルック (1826-1906)
同僚たちが軍人でありながら、ドルと小判のレートの差を利用して金儲けに走ることに不快な感情を持っていることが、日記からうかがえる。ジョセフ彦とも面識があり、サンフランシスコ到着後の咸臨丸の修理や滞在費をアメリカ政府が負担するよう働きかけたり、歓迎準備に力を尽くした、高潔な人物。 □日記として「横浜日記」「咸臨丸日記」(万延元年遣米使節史料集成第五巻・風間書房)がある |
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書評「海軍科学者・教育者のジョン・マーサー・ブルック」 (発行元: University of Press of Virginia, 1980) http://www.baxleystamps.com/litho/brooke_1980.shtml 当初、ブルックはパウハタン号に乗務してペリー Perry 提督の日本遠征に加わることになっていた。しかし、代わりに、フェニモア・クーパー号に配転されリングゴールド Ringgold とロジャーズ Rogers の指揮下で北太平洋調査探検に加わることになる(1853年〜1856)。この航海で、1854年後半から1855年初めにかけて沖縄と日本に寄港している。 1858年後半、ブルックはフェニモア・クーパー号を指揮して、サンフランシスコから香港への航路調査の航海を行った。1859年5月に香港に到着している。帰路は沖縄と日本を経由する航路を採った。 日本滞在中にブルックの任務が変更された。日本が(アメリカ艦船)パウハタン号で遣米使節団を送ることになり、それに伴って日本の蒸気船「咸臨丸」もアメリカに行くことになったが、ブルックはその咸臨丸の技術アドバイザーとして乗務することになったのだ。1860年2月のことだった。 ブルックはその経歴の中で、ジョセフ・ヒコ、中濱万次郎(ジョン万次郎)、タウンゼント・ハリスなど多くの著名人物に出会っている。 ペリー提督の下でアメリカ艦隊は、日本(の鎖国状態)を開放しアメリカとの通商を行わせるべく、海軍力や軍事力を駆使した。その一方でブルックのような科学者が、海上貿易支援に欠かせない海洋学上の技術的な調査、海図作成、研究を、陰ながら地道に実施していたのだ。この本は、日本の開国におけるそうした側面に独特の展望を展開している。 1861年にブルックはアメリカ海軍の職務を辞すると、すぐにバージニア海軍に入隊し任務についた。南部連合国(南軍)でブルックは、重砲の開発や、火災にあった蒸気船メリマック号 Merrimack を鋼鉄製 CSS バージニア号に改造する工事の設計と監督などの業務に従事した。 |
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John Mercer Brooke ジョン・マーサー・ブルック略歴 (バージニア州立軍人養成大学の資料) http://www.vmi.edu/archives/images/Clark_album/gbcfr004.html 海軍将校であり科学者でもあるジョン・マーサー・ブルックは、1826年12月18日、フロリダ州タンパ近郊で生まれた。1845年に海軍兵学校を卒業してから、科学者としての優れた才能を発揮し始めた。1851年から1853年まで、ワシントンのアメリカ海軍天文台で、マシュー・フォンテーン・モウリー Matthew Fontaine Maury と一緒に働きながら、深海測深器を発明した。それによって初めて、大海の海底から試料を採取したり、海底の地形を正確に調査したりできるようになったのだ。1858年、ブルックは太平洋の島々と日本東部の海岸線を広く調査し、日本との外交関係樹立に貢献した。 南北戦争が始まると、ブルックはアメリカ海軍の任務を辞して南軍に加わり、1862年に南軍の海軍中佐となった。南北戦争中、ブルックは装甲艦 Merrimac メリマック (後の装甲艦 Virginia バージニア)を設計し、また、南軍が開発したライフルとしては最も強力なものとなったいわゆる「ブルック銃」を発明した。1865年、ブルックはバージニア州立軍人養成大学で物理学と天文学の教授になり、マシュー・フォンテーン・モウリーとまた一緒に働くことになった。1899年、ブルックは引退し、1906年12月14日、バージニア州レキシントンの自宅で亡くなった。 Naval officer and scientist John Mercer Brooke was born on December 18, 1826, near Tampa, Florida, and began to show great talent as a scientist after graduating from the United States Naval Academy in 1845. From 1851 to 1853, while working with Matthew Fontaine Maury at the U.S. Naval Observatory in Washington, D.C., Brooke invented the deep-sea sounding instrument, which for the first time allowed them to take samples from the ocean floor and accurately survey the topography of the ocean floor. In 1858, Brooke extensively surveyed the Pacific islands and the eastern coastline of Japan, contributing to the establishment of diplomatic relations with Japan. At the outbreak of the Civil War, Brooke resigned his commission in the U.S. Navy and joined the Confederate Army, becoming a Lieutenant Commander in the Confederate Navy in 1862. During the Civil War, Brooke designed the armored ship Merrimac (later the armored ship Virginia) and invented the so-called "Brooke's Gun," which became the most powerful rifle ever developed by the Confederacy. In 1865, Brooke became a professor of physics and astronomy at the Virginia Military Institute, where he again worked with Matthew Fontaine Mowry. Brooke retired In 1899 and died at his home in Lexington, Virginia on December 14, 1906. |
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咸臨丸の試練 (American Heritage Magazine の記事) http://www.americanheritage.com/articles/magazine/ah/1963/5/1963_5_95.shtml(リンク消失、Link broken) ジョン万次郎についての新しい証言がここにある。アメリカを見た最初の日本人であったジョン万次郎は、日本の開国に陰ながら一つの役割を果たしただけではなく、海のもくずとなりかねなかった創生期日本海軍の誇りを救ったのだ。 エミリー・V・ワリナー EMILY V. WARINNER 7年前の「アメリカの伝統 AMERICAN HERITAGE」1956年12月号に、注目すべきジョン万次郎の冒険物語が掲載された。ジョン万次郎とは、乗っていた漁船が難破してアメリカ人の捕鯨船船長に助けられ、アメリカにつれてこられた日本人の漁民である。この物語が発表されたことで、万次郎の後半生でおそらく最も劇的な部分について、重要な証言が公のものとなったのだ。下に掲載した記事で、伝記 Voyager to Destiny「ジョン万次郎漂流記(副題:運命へ向けて船出する人)」(Bobbs-Merrill, 1956)の著者エミリー・V・ワリナーはこの新情報について記述している。荒海を乗り切った咸臨丸の話は、彼女自身も「歴史のひとこま」に過ぎないとしながら、そこには見過ごしてはならないこともあったのだと、ワリナーは言う。それは、ある一人の男のことだった。それまでは多少目立つに過ぎないと思われていた人間が、実は日本の長い鎖国政策を終わらせるのに大きな役割を果たしていた・・・そのことが明らかになったとワリナーは指摘するのだ。 Here is a new testimony about John Manjiro. As the first Japanese to see America, John Manjiro not only played a role in the opening of Japan to the world, but also saved the pride of the nascent Imperial Japanese Navy from being reduced to the dregs of the sea. Emily V. Warinner Seven years ago, in the December 1956 issue of AMERICAN HERITAGE, a remarkable story of the adventures of John Manjiro was published. John Manjiro was a Japanese fisherman who was brought to America by an American whaling captain after the fishing boat he was on was wrecked. With the publication of this story, an important testimony about perhaps the most dramatic part of Manjiro's later life has become public knowledge. In the article below, Emily V. Warinner, author of the biography, "John Manjiro Adrift (subtitle: Voyager to Destiny)" (Bobbs-Merrill, 1956), describes this new information. While she herself says that the story of the Kanrin Maru, which survived the rough seas, is just "a piece of history," Wariner says that there was something there that should not be overlooked. It was about a man. Wariner points out that this man, who had previously been thought to be only somewhat prominent, actually played a major role in ending Japan's long isolationist policy. |
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<この部分は要訳> 万次郎たち5人が乗った土佐(高知県)の漁船は、1841年1月に難破して漂流し、一週間後に鳥島に漂着した。万次郎が15歳のときだった。5ヶ月後の6月、ウィリアム・H・ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船に救助される。4人はハワイで下ろされるが、船長が特に気に入った万次郎だけはアメリカに連れて行かれた。ボストン近郊のフェアヘブンにあるホイットフィールドの自宅で、万次郎はわが子のように育てられ、地元の学校を卒業する。それから、捕鯨船の船長にまでなって世界中を航海したり、また、カリフォルニアでは金鉱で働いたりした。しかし、望郷の念を抑えることができず、死刑も覚悟で1851年に日本に戻ってくる(1638年に作られた徳川幕府の掟では「いったん外国に住んだものが帰国した場合は死刑に処す」ということになっていた)。 さいわい死刑は免れ、しかも、万次郎のアメリカについての情報が次第に幕府要人の注意を引くようになる。特に、日本人がまだ見たことのない蒸気船の話は幕府要人の興味をそそった。1853年にペリー提督が日本に初めての蒸気船でやってくると、万次郎がそれまでに話していたことがすべて本当だったことが分かり、江戸に呼ばれる。ペリーとの交渉で表舞台にたつことはなかったが、万次郎は将軍の求めに応じてペリーがなにを望んでいるかを知るための手助けをした。その後、幕府の江川太郎左衛門の信頼を得て多くのアメリカについての情報を提供する。 (The following is summary of the site) The Tosa (Kochi Prefecture) fishing boat in which Manjiro and five others were aboard was wrecked in January 1841 and drifted ashore at Torishima Island a week later, when Manjiro was 15 years old. Five months later in June, they were rescued by an American whaling ship led by Captain William H. Whitfield. The four men got off the ship in Hawaii, but only Manjiro, whom the captain particularly liked, was taken to America. At Whitfield's home in Fairhaven, near Boston, Manjiro was raised as if he were Whitfield's own child and graduated from the local school. He became a captain of a whaling ship and sailed around the world, and also worked in a gold mine in California. However, he could not suppress his longing for home and returned to Japan in 1851, prepared to be executed (according to the Tokugawa Shogunate's law of 1638, "Once a person has lived abroad, he shall be punished by death if he returns"). Fortunately, he was spared the death penalty, and Manjiro's information about America gradually attracted the attention of important people in the Shogunate. When Commodore Matthew C. Perry arrived in Japan on the first steamship in 1853, it became clear that everything Manjiro had said was true and he was summoned to Edo. Although he did not appear on the stage to negotiate with Perry, Manjiro helped the shogun to find out what Perry wanted at his request. Later, he gained the trust of Tarozaemon Egawa of the Shogunate and provided him with a lot of information about America. |
1860年、友好の印として、アメリカは蒸気船パウハタン号Powhatanを提供して、日本が最初の使節団をワシントンに送るための手助けを申し出た。使節団は、少し前に駐日公使タウンゼント・ハリスと徳川幕府との間で調印された通商条約を批准するのが目的であった。徳川幕府は返礼の気持ちで(あるいは、習得した航海知識を披露したいために)、オランダから購入したばかりの自国の軍艦、咸臨丸を使節の護衛船としてサンフランシスコまで行かせることを決定した。 日本人乗組員は、航海士も船員も訓練が十分ではなかったため、徳川幕府はアメリカ人の海軍将校を咸臨丸に任命するよう依頼した。アメリカの東インド艦隊の司令官、ジョシュア・タットノール准将 Josiah Tattnall は、天文学者、水路学者として長い経験を持つジョン・マーサー・ブルック大尉を選んだ。ブルックはもともと、アメリカ海軍からサンフランシスコと香港を結ぶ蒸気船航路を決定する任務を負っていて、その任務を終えてから日本に立ち寄っていた。さらに、日本で日米条約によって新たに開港された港の調査を予定していたのだが、彼が指揮する船、フェニモア・クーパー号Fenimore Cooperが台風で難破してしまった。 当初の調査計画がそのように挫折してしまったので、ブルックは打診されたアメリカへの航海任務を喜んで受け入れた。そして、出航への最終準備をしているときにジョン万次郎に出会った。万次郎は難破船に乗り合わせた人間としてはブルックの先輩ということになる。万次郎は、公式通訳として咸臨丸に任命されていて、二人は長時間にわたって打ち合わせをしているが、その内容についてはブルック大尉の日誌に詳述されている。 In 1860, as a token of friendship, the United States offered to help Japan send its first delegation to Washington by providing the steamer Powhatan. The purpose of the mission was to ratify the trade treaty that had been signed a short time earlier between the Japanese Minister to Japan, Townsend Harris, and the Tokugawa Shogunate. The Tokugawa Shogunate decided to send its own warship, the Kanrin Maru, which it had just purchased from the Dutch, to San Francisco as an escort ship for the delegation as a gesture of gratitude (or to show off its acquired nautical knowledge). Since the Japanese crew, both navigator and seaman, were not well trained, the Tokugawa Shogunate asked for an American naval officer to be assigned to the Kanrin Maru. The commander of the U.S. East India Squadron, Brigadier General Josiah Tattnall, chose Captain John Mercer Brooke, who had long experience as an astronomer and hydrographer. Brooke had originally been assigned by the U.S. Navy to determine the steamship route between San Francisco and Hong Kong, and had stopped in Japan after completing his mission. He had also planned to survey the newly opened ports in Japan under the Japan-U.S. treaty, but the ship he was commanding, the Fenimore Cooper, was wrecked in a typhoon. Since the original plan had fallen through, Brooke gladly accepted the offer of a voyage to America. He was making final preparations for the voyage when he met John Manjiro. Manjiro was Brooke's predecessor as a passenger in the shipwreck. Manjiro was assigned to the Kanrin Maru as an official interpreter, and they had a long meeting, which is described in detail in Captain Brooke's journal. ブルックの日誌は「死後50年間公開しない」という遺言によって公表されることなく、ブルックの孫に当たるジョージ・M・ブルック・ジュニア博士(バージニア州立軍人養成大学の歴史学教授)が保管してきた。しかし、1960年、日米友好通商100周年記念協会に提供され、日本で「万延元年遣米使節史料集成第五巻」として刊行された。 1860年2月の中旬、咸臨丸とポウハタン号は江戸港からアメリカに向けて出航した。さほどの日数がたたないうちにブルック大尉の日誌には、咸臨丸の日本人乗組員たちについて、訓練がよくできていないことだけでなく、(仕事に対する)気無力さについての不満が書き込まれることになった。しかし、ただ一人、ジョン万次郎にだけはブルックも尊敬の念を持ち続けた。そんな状況ではあったが、不安な気持ちの中にも、ブルックは日本人の生来の能力がなんとか安全に航海をやり遂げるだろうと信じていた。 しかし、ブルックにとって計算外だったのは、日本人乗組員が本当に気まぐれだということだった。出航後、ほどなくして二隻の船は台風に見舞われた。ポウハタン号に乗船していた経験豊かな航海士が「太平洋上で遭遇した最悪の嵐」と言うほどのものだった。しかも、悪いことに咸臨丸の艦長(勝海舟)は船酔いでまったく指揮が取れなくなってしまった。そのため、ブルックが代わって指揮を取らざるを得ない。しかし、さいわいだったのは、ブルックが航海士として経験豊かな万次郎を頼りにできたことだった。ブルックと万次郎の二人と、難破したフェニモア・クーパー号からのアメリカ人乗組員たちがいなかったら、咸臨丸はとっくに沈没していたかもしれないのだ。 編集部 (The following is summary of the site) The Tosa (Kochi Prefecture) fishing boat in which Manjiro and five others were aboard was wrecked in January 1841 and drifted ashore at Torishima Island a week later, when Manjiro was 15 years old. Five months later in June, they were rescued by an American whaling ship led by Captain William H. Whitfield. The four men got off the ship in Hawaii, but only Manjiro, whom the captain particularly liked, was taken to America. At Whitfield's home in Fairhaven, near Boston, Manjiro was raised as if he were Whitfield's own child and graduated from the local school. He became a captain of a whaling ship and sailed around the world, and also worked in a gold mine in California. However, he could not suppress his longing for home and returned to Japan in 1851, prepared to be executed (according to the Tokugawa Shogunate's law of 1638, "Once a person has lived abroad, he shall be punished by death if he returns"). Fortunately, he was spared the death penalty, and Manjiro's information about America gradually attracted the attention of important people in the Shogunate. When Commodore Matthew C. Perry arrived in Japan on the first steamship in 1853, it became clear that everything Manjiro had said was true and he was summoned to Edo. Although he did not appear on the stage to negotiate with Perry, Manjiro helped the shogun to find out what Perry wanted at his request. Later, he gained the trust of Tarozaemon Egawa of the Shogunate and provided him with a lot of information about America. |
以下、ブルックの日誌の一言一句が咸臨丸の試練を物語っている。 The following is a word-for-word account of the ordeal of the Kanrin Maru in Brooke's logbook. ・・・見張りに二人しかいない・・・。咸臨丸には、命令とか規律などというものはなにも存在しないかのように思えた。実際、日本人のやり方では、アメリカの軍隊なら当然存在する規律や命令のようなものは認められないのだ。日本人乗組員は、船室に炭火が少し必要だし、温かいお茶とパイプ煙草がなくてはならないのだ。酒はきちんと管理されていないので、いつでも飲めた。加えて、命令はすべてオランダ語で出されるのにオランダ語を理解する乗組員はほとんどおらず、乗組員は実際に行われるやり方を見て作業を覚えるしかなかった。艦長は相変わらず船室にこもったままだし、司令官(海軍奉行、木村摂津守を意味している)も同様だった。彼らが開け放したままの船室ドアはバタンバタンと音を立てるし、デッキ上に放置されたコップ、皿、ヤカンなどが転がりまわって、まったくの混乱状態だった。とはいえ、忘れてはならないのは、これが彼らにとって初めての航海であり、天候は悪いし、彼らがオランダ語で教育されたことだ。咸臨丸上では、万次郎だけが、日本海軍を改革するにはなにが必要かを知っている唯一の日本人だった。 ...There were only two of us on watch... It seemed to me that there were no orders or discipline on board the ship. In fact, the Japanese way of doing things did not allow for the kind of discipline and orders that would naturally exist in the American military. The Japanese crew needed a few charcoal fires in their cabins, hot tea, and pipe tobacco. Liquor was not properly controlled and could be consumed at any time. In addition, all orders were given in Dutch, but few of the crew understood Dutch, so they had to learn the work by watching it being done. The captain was still confined to his cabin, and so was the commander (meaning the naval magistrate, Settsukemori Kimura). The cabin doors they had left open were slamming, and the cups, plates, and kettles left lying around on the deck were a complete mess. Nevertheless, we must not forget that this was their first voyage, the weather was bad, and they were educated in Dutch. On the Kanrin Maru, Manjiro was the only Japanese who knew what it would take to reform the Japanese Navy. ・・・気圧計が足らなくてなってしまった。ローリングするたびに Adie式気圧計の針は1インチも振れたし、日本人乗組員がアネロイド気圧計の表面ガラスを手で突き抜いてしまったのだ。その残骸は、いま私の船室にある。また、ほかの日本人は天窓を足で突き抜いてしまったが、今日はクロノメーター(経度計測器)にまで達しそうな荒波の中を進んできた。最高に楽しい船旅だ。しかし、私は目新しいものが好きだ。日本海軍がよくなるように努力するし、万次郎の努力が実るよう助けるつもりだ。 ...The barometer was missing. Every time we rolled, the needle of the Adie barometer swung an inch, and a Japanese crewman poked the surface glass of the aneroid barometer with his hand. The remnants of the barometer are now in my cabin. Another Japanese guy poked his foot through the skylight, and today we've been sailing in rough seas that almost reached the chronometer (longitude measuring device). It's a most enjoyable boat ride. But I do like novelty. I'm going to try to make the Japanese Navy better and help Manjiro's efforts bear fruit. ・・・夜半まで南南西の風が猛烈に吹いた。なんどか、帆が帆桁から外れてしまうかと思った。真夜中には、滝のような雨が降って空気が白く見えるほどだった。風は西に向かって吹き、たちまち強くなったが、思ったとおりそれ以上の変化はなくて安心した。午前3時に床についた。正午から深夜までに96マイル進んだのだ。床につくまもなく、私はまた乗組員に呼ばれた。激しいスコールだった。ゆうべは、日本人たちのやる気のなさにまったくあきれてしまった。強風が吹いてくることは分かりきっていたのに、ハッチはきちんと閉められていないし、羅針盤箱の明かりはとても薄暗いのだ。デッキ上の当番の航海士は船室に降りてしまっているし、デッキ上では2〜3人の日本人乗組員がうずくまっている。私は万次郎に言って、やっと、見張り当番の航海士だけでなく、航海士全員を引っ張り出してくることができたものの、出てきた航海士達は船尾のほうで一塊になってしまった。 ..The south-southwest wind blew fiercely until midnight. Several times I thought the sails were going to come off the yards. By midnight, it was raining like a waterfall and the air looked white. The wind blew to the west and quickly became stronger, but I was relieved that there was no further change as I had expected. I went to bed at 3 am. We had gone 96 miles between noon and midnight. No sooner had I settled down than I was called out again by the crew. It was a heavy squall. Last night, I was utterly amazed at the unwillingness of the Japanese. The hatches were not closed properly and the light in the compass box was very dim, even though they knew that a strong wind was coming. The navigator on duty on deck had gone down to the cabin, and there were two or three Japanese crewmen huddled on deck. I told Manjiro to pull out all the officers, not just the officer on watch, but all the officers who came out were lumped together at the stern. ・・・今日は、日本人の航海士や船員を見張りやそのほかの部署に配置しようとした。ところが、思いもしない困難に遭遇した。大尉級の航海士6人は自分の仕事のことをまったく知らないのだ。何人かの乗組員は能力があるのに、司令官は彼らにクロノメーターを預けようとしない。その理由というのが、彼らの陸上での地位がほかの乗組員ほど高くないからということなのだ。高い地位の乗組員が船上では使い物にならないというのに・・・。 万次郎はまったくあきれ果てたが、司令官にゆずるしかなかった。しかし、万次郎は、航海士たちが見張りにつくことがどんなに当然のことかを航海士たちに説得した。私は万次郎に聞いてみた、「もし、私がアメリカ人乗組員を非番にして咸臨丸の操縦を拒否したら、司令官はどうするだろう」。彼の答えは、「沈没させるだろう」だった。「自分だって命は惜しいよ」と万次郎は言うのだった。 ...Today, I tried to assign Japanese navigators and sailors to watch and other departments. However, they encountered an unexpected difficulty. The six captain class navigators had no idea what they were doing. Some of the crew members are capable, but the commander does not want to give them chronometers. The reason for this is that their rank ashore is not as high as the rest of the crew. High ranking crew members are useless on board... Manjiro was utterly disgusted, but he had no choice but to yield to the commander. However, Manjiro persuaded the navigators how natural it was for them to be on watch. I asked Manjiro, "What would the commander do if I refused to pilot the Kanrin Maru with the American crew off duty? His answer was, "He would let it sink." "I'd spare my life too," Manjiro said. ・・・3月1日、私は艦長および航海士たちと一つの合意に達した。これまでは、日本人乗組員がまったく使い物にならないので、自分で常に見張りをしたり、アメリカ人乗組員を見張りに立てたりしなければならなかった。逆風の時に、どうやって船の針路を変えるかを日本人航海士たちに教えることを提案した。ところが、航海士たちはまったくやる気がなくてデッキに上がってこない上に、なんやかやと言い訳ばかりしている。私はそこで、アメリカ人乗組員全員を呼んで船室に引きこもらせ、私の了解なしには何もするなと伝えた。それから艦長に、日本人航海士たちが協力しない限り、私は船の操縦を一切しないと伝えた。艦長は航海士たちに説教して航海士たちが私の命令に従うようにし、デッキに見張りを立てることができた。 ...On March 1, I reached an agreement with the captain and the navigators. Up to now, I had had to keep a constant lookout myself or send an American crewman to keep a lookout because the Japanese crew was completely useless. I suggested that I would teach the Japanese navigators how to change the course of the ship when there was a headwind. However, the navigators were completely unwilling to come on deck and kept making excuses. So I called the entire American crew and told them to stay in their cabins and not to do anything without my approval. I then told the captain that I would not take any control of the ship unless the Japanese navigators cooperated. The captain lectured the officers so that they would obey my orders, and I was able to set up a guard on deck. ・・・万次郎が言うには、昨夜、万次郎が日本人乗組員にマストに登るよう強く言ったとき、乗組員たちは万次郎を桁端で首吊りにすると脅した。私は万次郎に言った。そのような脅しを乗組員たちが実行に移そうとしたり、日本人乗組員たちに暴動がおこしたりするなら、艦長の許しを得て彼らをすぐさま首吊りにする、と。 ..Manjiro told me that last night, when he insisted that the Japanese crew climb the mast, they threatened to hang him by the girder. I told Manjiro that if the crew tried to carry out such a threat or if the Japanese crew rioted, I would hang them immediately with the captain's permission. 暴風雨があまりにひどくて、ポウハタン号は航路を変更して船体修理のためホノルルに向かった。一方、咸臨丸は予定通りの針路を進んだ。3月17日、37日間の航海の後、咸臨丸はついにサンフランシスコ湾に碇を下ろした。ポウハタン号が到着したのはそれから12日後だった。 海軍長官のアイザック・タウシー Issac Toucey への報告の中で、ブルック大尉は航海中のいろいろな困難について述べているが、そこには(日本人乗組員に対する)恨みつらみはなかった。ただ、万次郎については、「並外れた能力を持つ日本人」として褒め称えていた。 しかし、ブルックは日誌の中では万次郎について、アメリカを見た最初の日本人として、さらに惜しみない賛辞の言葉を連ねている。「万次郎は、私がこれまでに出会った人間の中で最もすばらしい人間の一人であることは間違いない。万次郎は、ボウディッチの航海術書籍(*)を日本語に翻訳している。万次郎は実に腹蔵のない人間で、万次郎がほかのどの人間よりも日本の開国に関わってきたことに私は満足している。」 (*)ナサニエル・ボウヂッチ Nathaniel Bowditch の New American Practical Navigator 「新アメリカ実用航海術」 The storm was so severe that the Powhatan changed course and headed for Honolulu for hull repairs. Meanwhile, the Kanrin Maru continued on its scheduled course, and on March 17, after 37 days of sailing, it finally anchored in San Francisco Bay. The Powhatan did not arrive until 12 days later. In his report to Secretary of the Navy Issac Toucey, Captain Brooke described various difficulties during the voyage, but there was no bitterness (toward the Japanese crew). He did, however, praise Manjiro as a "Japanese man of extraordinary ability." In his journal, Brooke was even more lavish in his praise of Manjiro as the first Japanese to see America. "There is no doubt that Manjiro is one of the most wonderful human beings I have ever met. Manjiro translated Bowditch's books on navigation* into Japanese. He is truly a man without guts, and I am pleased to say that he has had more to do with the opening of Japan than any other men." * Nathaniel Bowditch's New American Practical Navigator. かくして、ジョン万次郎と同じ時代に生き、アメリカ海軍に25年余にわたって勤めた、元軍人ジョン・マーサー・ブルックの日誌や書簡の中で、19世紀日本の歴史におけるジョン万次郎の重要さが明らかになった。この分野の研究で先駆的な学者の一人、東京の慶応大学教授、清岡暎一は次のように書いている。「おそらく、ブルック大尉は当時、ジョン万次郎の重要性を本当に理解していた唯一の人間であった。」 Thus, the importance of John Manjiro in the history of 19th century Japan is revealed in the journals and letters of John Mercer Brooke, a former soldier who lived at the same time as John Manjiro and served in the U.S. Navy for more than 25 years. One of the pioneering scholars in this field, Professor Eiichi Kiyooka of Keio University in Tokyo, wrote: "Captain Brooke was probably the only person who really understood the importance of John Manjiro at the time." |
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■通説「帰国を希望していたアメリカ人を乗せてやった」は誤り/咸臨丸神話の一つ ■ One of the myths of the Kanrin Maru, "We gave a ride to Americas who wanted to return home," is wrong. ◆ブルック「横浜日記」より 1859(安政六)年 1月13日(十二月二十一日) …。使節はパナマ経由で行く事に決定した。…日本人は今でも自分たちの船を一隻派遣するつもりでいるということだ。…私は日本船に乗って行きたいのではないが、この場合私は奉仕しなくてはなるまい。 1月14日(十二月二十二日) …提督が日本船で行く決心がついたかと聞いた、私は決心がついたと答え、その船についていろいろ聞きたいと言った。 1月19日(十二月二十七日) 今日私は提督に手紙を書き、例の日本の蒸気船をアメリカまで嚮導することを申し出た。 1月21日(十二月二十九日) 今朝タットナル提督からパナマに向う日本の幕府の蒸気船の航行を援助するため、準備を整えておくように、という命令を受け取った。 ◆ From Brook's "Yokohama Diary" 1859 (Ansei 6) January 13, 1860 (December 21 of 1859, Ansei 6, in Japanese calender): It was decided that the envoys would go via Panama. ...that the Japanese still intend to send one of their own ships. ...I don't want to go on a Japanese ship, but in this case I will have to serve. January 14, 1860 (December 22 of 1859): The Admiral asked me if I had made up my mind to go on a Japanese ship, to which I replied that I had, and that I wanted to hear all about it. January 19, 1860 (December 27 of 1859): Today I wrote to the Admiralty and offered to lead the Japanese steamer to America. January 21, 1860 (December 29th, 1859): This morning I received orders from Admiral Tattnall to make arrangements to assist the Japanese Shogunate steamer in her voyage to Panama. ◆当初遣米使節に予定されていた者連名の別船派遣建議書《『幕末維新 外交史料集成 第四巻』修好門》 初めての海路ですから相談によってアメリカ人の指南役その他熟練の水夫を二、三人乗り組ませれば尚更方向を失う懸念はなくなります…水野筑後守 永井玄蕃頭 津田半三郎 加藤正三郎 以上は安政五年九月 ◆ From a letter of proposal for dispatching another ship written by those originally scheduled to be sent to the U.S. in their joint names (Bakumatsu Ishin Gaiko Shiryo Shusei, Vol. 4, Shukomon) "Since it is the first time for us to travel by sea, it would be better if we had two or three American instructors or other experienced sailors on board for consultation, so that we would not have to worry about losing our bearings..." Chikugonokami Mizuno, Genbanokami Nagai, Hanzaburo Tsuda and Shozaburo Kato (The above is from October 1858 or September of the 5th year of Ansei in Japanese calender) |
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このページをご覧になったあなたは 「遣米使節」の説明に使われている遣米使節が乗っていなかった 咸臨丸の絵を教科書からはずす会 の会員資格があります。 会員の責務:中学高校の歴史教科書・副読本に掲載されている、「遣米使節の説明に使われている遣米使節が乗っていない咸臨丸の絵」をはずして、代わりに遣米使節のワシントン海軍造船所見学記念の写真を載せよう!、と主張する。 会員の特典:「勝海舟は遣米使節ではない」「「勝海舟はサンフランシスコから帰った」「遣米使節は咸臨丸には乗らなかった」「小栗上野介のワシントン海軍造船所見学から横須賀造船所建設が発想された」・・・などの知識をひけらかすことができます。 会費:無料 Reading this page, you are eligible for membership of the Association for Removing the Kanrin Maru from School Textbooks. Member's responsibility: Advocate removing the picture of the Kanrin Maru, which is falsely used to explain the Japanese mission to the U.S., from high schools’ history textbooks and supplementary readers, and putting the photo of the mission's visit to the Washington Naval Shipyard in its place. Member's privilege: You can reveal your knowledge such as "Kaishu Katsu was not an envoy to the U.S.," "Kaishu Katsu returned from San Francisco," "The mission to the U.S. did not board the Kanrin Maru," "The construction of the Yokosuka shipyard was conceived from Kozukenosuke Oguri's visit to the Washington Naval Shipyard," etc. Fee: Free |
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□ブルック大尉…日米交流のページへ(リンク) ■世界一周の旅 ■遣米使節の行程…日本人初世界一周の行程表 ■遣米使節一行の旅コースを訪ねる・ワシントン編:海軍造船所の正門はまだ存在していた ■遣米使節一行の旅コースを訪ねる・フィラデルフィア編:古い歴史を誇る町 ■遣米使節の旅コースを訪ねる・ニューヨーク編:ブロウドウェイを途中から迂回して |
□ Captain John Mercer Brooke - Japan-US Encounters (Link) ■ Journey Around the World ■ Itinerary of the Japanese Mission to the United States: The Itinerary of the first Japanese to go around the world ■ Visiting the course of the mission to the U.S. (Washington DC): The main gate of the naval shipyard still existed. ■ Visiting the course of the mission to the U.S. (Philadelphiai): A city with an old history ■ Visiting the course of the mission to the U.S. (New York): They bypassed the Broadway to continue the parade on the way to the hotel. |
■大統領の記念メダル:使節と従者全員に金・銀・銅のメダルが贈られた ■玉蟲左太夫:仙台藩士の見た世界は新鮮だった ■遣米使節小栗の従者:小栗忠順の従者9名 ■遣米使節従者・三好権三…島根の人だった ■遣米使節の業績・・・1本のネジくぎを持ち帰った小栗 ■日の丸を国旗に決めた遣米使節…船印だった日の丸を国印に決めた ■遣米使節三船…ポウハタン号で渡米。咸臨丸ではない 《咸臨丸》 ■「木村摂津守喜毅は副使」「副使が乗る船が咸臨丸」という説の誤り…近年広まった副使説、根源はどこか ■咸臨丸病の日本人…なんでも勝海舟を出さないと気が済まない症候群 ■修身教科書が作った咸臨丸神話・・・国定教科書が教えた虚構 ■トミーポルカ…通訳見習いの少年トミー・立石斧次郎の音楽 ■「ポウハタン号の町・伊豆下田」 |
■ President's medals: Gold, silver, and bronze medals were presented to the envoys and all the
followers. ■ Sadayu Tamamushi: The world that a Sendai clan samurai saw was fresh. ■ Oguri's Followers on the Mission to America: Nine Followers of Tadamasa Oguri ■ Miyoshi Gonzo, a follower of Tadamasa Oguri in the mission to the U.S.: He was from Shimane prefecture. ■ Achievements of the Japanese mission to the U.S.: Oguri brought back a screw nail. ■ The Japanese envoys to the U.S. decided to use the Hinomaru as the national flag: They chose the Hinomaru as the national flag of Japan, which was originally a ship's seal. ■ Three ships for the Japanese mission to the U.S.: The USS Powhatan brought the mission to the U.S. by crossing the Pacific ocean and the Kanrin Maru was not used for the mission. <Regarding Kanrin Maru> ■There have been false theories recently that "Settsunokami Yoshitake Kimura was a deputy envoy" and that "the ship on which the deputy envoy boarded was the Kanrin Maru." Where are the roots of them? ■ Japanese people with the "Kanrin Maru disease |