小栗上野介関連の人物紹介   ● ●     ブルック大尉咸臨丸が沈没しなかったのはこの人のおかげ

ブルック大尉
ジョン・マーサー・ブルック
John Mercer Brooke

ジョン・マーサー・ブルックは、部下10人とともに咸臨丸に乗って咸臨丸の航海を助け、サンフランシスコまで同乗したアメリカ人。明治以後「日本人だけで航海した」と教えられる咸臨丸だが、実際には、ブルックとジョン万次郎、それに10人のアメリカ人乗組員がいなかったら、経験のない日本人乗組員だけでは北太平洋に沈没していたと言われている。以下、ブルック大尉について3つの英文ウェブサイトが見つかったので翻訳してみた。

海軍科学者・教育者のブルック   ジョン・マーサー・ブルック略歴   咸臨丸の試練

ブルック大尉(東善寺・小栗上野介)

ブルック大尉 ジョン・マーサー・ブルック (1826-1906)

アメリカ海軍測量船フェニモア・クーパー号で日本近海を測量中、台風にあって船が難破。横浜滞在中に頼まれて小栗上野介らにアメリカ行きの事前講義を行なう。

同僚たちが軍人でありながら、ドルと小判のレートの差を利用して金儲けに走ることに不快な感情を持っていることが、日記からうかがえる。ジョセフ彦とも面識があり、サンフランシスコ到着後の咸臨丸の修理や滞在費をアメリカ政府が負担するよう働きかけたり、歓迎準備に力を尽くした、高潔な人物。

□日記として「横浜日記」「咸臨丸日記」(万延元年遣米使節史料集成第五巻・風間書房)がある


書評「海軍科学者・教育者のジョン・マーサー・ブルック」   TOP
(発行元: University of Press of Virginia, 1980)

http://www.baxleystamps.com/litho/brooke_1980.shtml
 
当初、ブルックはパウハタン号に乗務してペリー Perry 提督の日本遠征に加わることになっていた。しかし、代わりに、フェニモア・クーパー号に配転されリングゴールド Ringgold とロジャーズ Rogers の指揮下で北太平洋調査探検に加わることになる(1853年〜1856)。この航海で、1854年後半から1855年初めにかけて沖縄と日本に寄港している。

1858年後半、ブルックはフェニモア・クーパー号を指揮して、サンフランシスコから香港への航路調査の航海を行った。1859年5月に香港に到着している。帰路は沖縄と日本を経由する航路を採った。

日本滞在中にブルックの任務が変更された。日本が(アメリカ艦船)パウハタン号で遣米使節団を送ることになり、それに伴って日本の蒸気船「咸臨丸」もアメリカに行くことになったが、ブルックはその咸臨丸の技術アドバイザーとして乗務することになったのだ。1860年2月のことだった。

ブルックはその経歴の中で、ジョセフ・ヒコ、中濱万次郎(ジョン万次郎)、タウンゼント・ハリスなど多くの著名人物に出会っている。

ペリー提督の下でアメリカ艦隊は、日本(の鎖国状態)を開放しアメリカとの通商を行わせるべく、海軍力や軍事力を駆使した。その一方でブルックのような科学者が、海上貿易支援に欠かせない海洋学上の技術的な調査、海図作成、研究を、陰ながら地道に実施していたのだ。この本は、日本の開国におけるそうした側面に独特の展望を展開している。

1861年にブルックはアメリカ海軍の職務を辞すると、すぐにバージニア海軍に入隊し任務についた。南部連合国(南軍)でブルックは、重砲の開発や、火災にあった蒸気船メリマック号 Merrimack を鋼鉄製 CSS バージニア号に改造する工事の設計と監督などの業務に従事した。
John Mercer Brooke ジョン・マーサー・ブルック略歴      TOP
(バージニア州立軍人養成大学の資料)

http://www.vmi.edu/archives/images/Clark_album/gbcfr004.html

海軍将校であり科学者でもあるジョン・マーサー・ブルックは、1826年12月18日、フロリダ州タンパ近郊で生まれた。1845年に海軍兵学校を卒業してから、科学者としての優れた才能を発揮し始めた。1851年から1853年まで、ワシントンのアメリカ海軍天文台で、マシュー・フォンテーン・モウリー Matthew Fontaine Maury と一緒に働きながら、深海測深器を発明した。それによって初めて、大海の海底から試料を採取したり、海底の地形を正確に調査したりできるようになったのだ。1858年、ブルックは太平洋の島々と日本東部の海岸線を広く調査し、日本との外交関係樹立に貢献した。

南北戦争が始まると、ブルックはアメリカ海軍の任務を辞して南軍に加わり、1862年に南軍の海軍中佐となった。南北戦争中、ブルックは装甲艦 Merrimac メリマック (後の装甲艦 Virginia バージニア)を設計し、また、南軍が開発したライフルとしては最も強力なものとなったいわゆる「ブルック銃」を発明した。1865年、ブルックはバージニア州立軍人養成大学で物理学と天文学の教授になり、マシュー・フォンテーン・モウリーとまた一緒に働くことになった。1899年、ブルックは引退し、1906年12月14日、バージニア州レキシントンの自宅で亡くなった。
咸臨丸の試練                                          TOP
(American Heritage Magazine の記事)

http://www.americanheritage.com/articles/magazine/ah/1963/5/1963_5_95.shtml

ジョン万次郎についての新しい証言がここにある。アメリカを見た最初の日本人であったジョン万次郎は、日本の開国に陰ながら一つの役割を果たしただけではなく、海のもくず
となりかねなかった創生期日本海軍の誇りを救ったのだ。
                                    エミリー・V・ワリナー EMILY V. WARINNER

7年前の「アメリカの伝統 AMERICAN HERITAGE」1956年12月号に、注目すべきジョン万次郎の冒険物語が掲載された。ジョン万次郎とは、乗っていた漁船が難破してアメリカ人の捕鯨船船長に助けられ、アメリカにつれてこられた日本人の漁民である。この物語が発表されたことで、万次郎の後半生でおそらく最も劇的な部分について、重要な証言が公のものとなったのだ。下に掲載した記事で、伝記 Voyager to Destiny「ジョン万次郎漂流記(副題:運命へ向けて船出する人)」(Bobbs-Merrill, 1956)の著者エミリー・V・ワリナーはこの新情報について記述している。荒海を乗り切った咸臨丸の話は、彼女自身も「歴史のひとこま」に過ぎないとしながら、そこには見過ごしてはならないこともあったのだと、ワリナーは言う。それは、ある一人の男のことだった。それまでは多少目立つに過ぎないと思われていた人間が、実は日本の長い鎖国政策を終わらせるのに大きな役割を果たしていた・・・そのことが明らかになったとワリナーは指摘するのだ。
<この部分は要訳>

万次郎たち5人が乗った土佐(高知県)の漁船は、1841年1月に難破して漂流し、一週間後に鳥島に漂着した。万次郎が15歳のときだった。5ヶ月後の6月、ウィリアム・H・ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船に救助される。4人はハワイで下ろされるが、船長が特に気に入った万次郎だけはアメリカに連れて行かれた。ボストン近郊のフェアヘブンにあるホイットフィールドの自宅で、万次郎はわが子のように育てられ、地元の学校を卒業する。それから、捕鯨船の船長にまでなって世界中を航海したり、また、カリフォルニアでは金鉱で働いたりした。しかし、望郷の念を抑えることができず、死刑も覚悟で1851年に日本に戻ってくる(1638年に作られた徳川幕府の掟では「いったん外国に住んだものが帰国した場合は死刑に処す」ということになっていた)。

さいわい死刑は免れ、しかも、万次郎のアメリカについての情報が次第に幕府要人の注意を引くようになる。特に、日本人がまだ見たことのない蒸気船の話は幕府要人の興味をそそった。1853年にペリー提督が日本に初めての蒸気船でやってくると、万次郎がそれまでに話していたことがすべて本当だったことが分かり、江戸に呼ばれる。ペリーとの交渉で表舞台にたつことはなかったが、万次郎は将軍の求めに応じてペリーがなにを望んでいるかを知るための手助けをした。その後、幕府の江川太郎左衛門の信頼を得て多くのアメリカについての情報を提供する。

1860年、友好の印として、アメリカは蒸気船パウハタン号Powhatanを提供して、日本が最初の使節団をワシントンに送るための手助けを申し出た。使節団は、少し前に駐日公使タウンゼント・ハリスと徳川幕府との間で調印された通商条約を批准するのが目的であった。徳川幕府は返礼の気持ちで(あるいは、習得した航海知識を披露したいために)、オランダから購入したばかりの自国の軍艦、咸臨丸を使節の護衛船としてサンフランシスコまで行かせることを決定した。

日本人乗組員は、航海士も船員も訓練が十分ではなかったため、徳川幕府はアメリカ人の海軍将校を咸臨丸に任命するよう依頼した。アメリカの東インド艦隊の司令官、ジョシュア・タットノール准将 Josiah Tattnall は、天文学者、水路学者として長い経験を持つジョン・マーサー・ブルック大尉を選んだ。ブルックはもともと、アメリカ海軍からサンフランシスコと香港を結ぶ蒸気船航路を決定する任務を負っていて、その任務を終えてから日本に立ち寄っていた。さらに、日本で日米条約によって新たに開港された港の調査を予定していたのだが、彼が指揮する船、フェニモア・クーパー号Fenimore Cooperが台風で難破してしまった。

当初の調査計画がそのように挫折してしまったので、ブルックは打診されたアメリカへの航海任務を喜んで受け入れた。そして、出航への最終準備をしているときにジョン万次郎に出会った。万次郎は難破船に乗り合わせた人間としてはブルックの先輩ということになる。万次郎は、公式通訳として咸臨丸に任命されていて、二人は長時間にわたって打ち合わせをしているが、その内容についてはブルック大尉の日誌に詳述されている。

ブルックの日誌は「死後50年間公開しない」という遺言によって公表されることなく、ブルックの孫に当たるジョージ・M・ブルック・ジュニア博士(バージニア州立軍人養成大学の歴史学教授)が保管してきた。しかし、1960年、日米友好通商100周年記念協会に提供され、日本で「万延元年遣米使節史料集成第五巻」として刊行された。

1860年2月の中旬、咸臨丸とポウハタン号は江戸港からアメリカに向けて出航した。さほどの日数がたたないうちにブルック大尉の日誌には、咸臨丸の日本人乗組員たちについて、訓練がよくできていないことだけでなく、(仕事に対する)気無力さについての不満が書き込まれることになった。しかし、ただ一人、ジョン万次郎にだけはブルックも尊敬の念を持ち続けた。そんな状況ではあったが、不安な気持ちの中にも、ブルックは日本人の生来の能力がなんとか安全に航海をやり遂げるだろうと信じていた。

しかし、ブルックにとって計算外だったのは、日本人乗組員が本当に気まぐれだということだった。出航後、ほどなくして二隻の船は台風に見舞われた。ポウハタン号に乗船していた経験豊かな航海士が「太平洋上で遭遇した最悪の嵐」と言うほどのものだった。しかも、悪いことに咸臨丸の艦長(勝海舟)は船酔いでまったく指揮が取れなくなってしまった。そのため、ブルックが代わって指揮を取らざるを得ない。しかし、さいわいだったのは、ブルックが航海士として経験豊かな万次郎を頼りにできたことだった。ブルックと万次郎の二人と、難破したフェニモア・クーパー号からのアメリカ人乗組員たちがいなかったら、咸臨丸はとっくに沈没していたかもしれないのだ。
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以下、
ブルックの日誌の一言一句が咸臨丸の試練を物語っている。



・・・見張りに二人しかいない・・・。咸臨丸には、命令とか規律などというものはなにも存在しないかのように思えた。実際、日本人のやり方では、アメリカの軍隊なら当然存在する規律や命令のようなものは認められないのだ。日本人乗組員は、船室に炭火が少し必要だし、温かいお茶とパイプ煙草がなくてはならないのだ。酒はきちんと管理されていないので、いつでも飲めた。加えて、命令はすべてオランダ語で出されるのにオランダ語を理解する乗組員はほとんどおらず、乗組員は実際に行われるやり方を見て作業を覚えるしかなかった。艦長は相変わらず船室にこもったままだし、司令官(海軍奉行、木村摂津守を意味している)も同様だった。彼らが開け放したままの船室ドアはバタンバタンと音を立てるし、デッキ上に放置されたコップ、皿、ヤカンなどが転がりまわって、まったくの混乱状態だった。とはいえ、忘れてはならないのは、これが彼らにとって初めての航海であり、天候は悪いし、彼らがオランダ語で教育されたことだ。咸臨丸上では、万次郎だけが、日本海軍を改革するにはなにが必要かを知っている唯一の日本人だった。

・・・気圧計が足らなくてなってしまった。ローリングするたびに Adie式気圧計の針は1インチも振れたし、日本人乗組員がアネロイド気圧計の表面ガラスを手で突き抜いてしまったのだ。その残骸は、いま私の船室にある。また、ほかの日本人は天窓を足で突き抜いてしまったが、今日はクロノメーター(経度計測器)にまで達しそうな荒波の中を進んできた。最高に楽しい船旅だ。しかし、私は目新しいものが好きだ。日本海軍がよくなるように努力するし、万次郎の努力が実るよう助けるつもりだ。

・・・夜半まで南南西の風が猛烈に吹いた。なんどか、帆が帆桁から外れてしまうかと思った。真夜中には、滝のような雨が降って空気が白く見えるほどだった。風は西に向かって吹き、たちまち強くなったが、思ったとおりそれ以上の変化はなくて安心した。午前3時に床についた。正午から深夜までに96マイル進んだのだ。床につくまもなく、私はまた乗組員に呼ばれた。激しいスコールだった。ゆうべは、日本人たちのやる気のなさにまったくあきれてしまった。強風が吹いてくることは分かりきっていたのに、ハッチはきちんと閉められていないし、羅針盤箱の明かりはとても薄暗いのだ。デッキ上の当番の航海士は船室に降りてしまっているし、デッキ上では2〜3人の日本人乗組員がうずくまっている。私は万次郎に言って、やっと、見張り当番の航海士だけでなく、航海士全員を引っ張り出してくることができたものの、出てきた航海士達は船尾のほうで一塊になってしまった。

・・・今日は、日本人の航海士や船員を見張りやそのほかの部署に配置しようとした。ところが、思いもしない困難に遭遇した。大尉級の航海士6人は自分の仕事のことをまったく知らないのだ。何人かの乗組員は能力があるのに、司令官は彼らにクロノメーターを預けようとしない。その理由というのが、彼らの陸上での地位がほかの乗組員ほど高くないからということなのだ。高い地位の乗組員が船上では使い物にならないというのに・・・。
万次郎はまったくあきれ果てたが、司令官にゆずるしかなかった。しかし、万次郎は、航海士たちが見張りにつくことがどんなに当然のことかを航海士たちに説得した。私は万次郎に聞いてみた、「もし、私がアメリカ人乗組員を非番にして咸臨丸の操縦を拒否したら、司令官はどうするだろう」。彼の答えは、「沈没させるだろう」だった。「自分だって命は惜しいよ」と万次郎は言うのだった。

・・・3月1日、私は艦長および航海士たちと一つの合意に達した。これまでは、日本人乗組員がまったく使い物にならないので、自分で常に見張りをしたり、アメリカ人乗組員を見張りに立てたりしなければならなかった。逆風の時に、どうやって船の針路を変えるかを日本人航海士たちに教えることを提案した。ところが、航海士たちはまったくやる気がなくてデッキに上がってこない上に、なんやかやと言い訳ばかりしている。私はそこで、アメリカ人乗組員全員を呼んで船室に引きこもらせ、私の了解なしには何もするなと伝えた。それから艦長に、日本人航海士たちが協力しない限り、私は船の操縦を一切しないと伝えた。艦長は航海士たちに説教して航海士たちが私の命令に従うようにし、デッキに見張りを立てることができた。

・・・万次郎が言うには、昨夜、万次郎が日本人乗組員にマストに登るよう強く言ったとき、乗組員たちは万次郎を桁端で首吊りにすると脅した。私は万次郎に言った。そのような脅しを乗組員たちが実行に移そうとしたり、日本人乗組員たちに暴動がおこしたりするなら、艦長の許しを得て彼らをすぐさま首吊りにする、と。



暴風雨があまりにひどくて、ポウハタン号は航路を変更して船体修理のためホノルルに向かった。一方、咸臨丸は予定通りの針路を進んだ。3月17日、37日間の航海の後、咸臨丸はついにサンフランシスコ湾に碇を下ろした。ポウハタン号が到着したのはそれから12日後だった。

海軍長官のアイザック・タウシー Issac Toucey への報告の中で、ブルック大尉は航海中のいろいろな困難について述べているが、そこには(日本人乗組員に対する)恨みつらみはなかった。ただ、万次郎については、「並外れた能力を持つ日本人」として褒め称えていた。

しかし、ブルックは日誌の中では万次郎について、アメリカを見た最初の日本人として、さらに惜しみない賛辞の言葉を連ねている。「万次郎は、私がこれまでに出会った人間の中で最もすばらしい人間の一人であることは間違いない。万次郎は、ボウディッチの航海術書籍(*)を日本語に翻訳している。万次郎は実に腹蔵のない人間で、万次郎がほかのどの人間よりも日本の開国に関わってきたことに私は満足している。」

(*)ナサニエル・ボウヂッチ Nathaniel Bowditch の New American Practical Navigator 「新アメリカ実用航海術」

かくして、ジョン万次郎と同じ時代に生き、アメリカ海軍に25年余にわたって勤めた、元軍人ジョン・マーサー・ブルックの日誌や書簡の中で、19世紀日本の歴史におけるジョン万次郎の重要さが明らかになった。この分野の研究で先駆的な学者の一人、東京の慶応大学教授、清岡暎一は次のように書いている。「
おそらく、ブルック大尉は当時、ジョン万次郎の重要性を本当に理解していた唯一の人間であった。


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