幕末の金貨濫出(東善寺HP)                  小栗忠順の通貨交渉

幕末の金貨濫出を防ぐ!

小栗忠順の通貨交渉

小栗忠順がフィラデルフィア造幣局で「ノー」と言って行なった
通貨の分析実験はどのようなものだったのか―


合衆国造幣局・フィラデルフィア▲  :宮永孝氏提供 
  
    ◆
造幣局訪問

・1860年6月13日(水)(萬延元年四月二十四日)   朝9時過ぎ、遣米使節の三使(正使・副使・目付)一行はフィラデルフィアの造幣局を訪れた。迎えたスノーデン造幣局長に目付の小栗忠順は念願の小判金貨とドル金貨の分析実験を申し入れた。午後2時過ぎ、ホテルに戻っていた三使のもとに造幣局役人が来訪し、重ねて通貨分析の交渉が行なわれ、三使一行の翌日の再訪問を確認して帰って行った。
・6月14日(木)(四月 二十五日)  朝8時、三使は再び造幣局へ出向くと日米金貨の分析実験に立ち会った。

   日米金貨の分析実験  「ノー」と言った小栗忠順

 いよいよ両国通貨の小判とドル金貨の一部が削り取られてハカリにかけられた。その時、小栗忠順から異議が出された。「これくらいの小片で分析実験したのでは、だめだ。小判一枚、ドル金貨一個を丸ごと分析すべきだ」というのです。小栗忠順の主張は、たんに通貨の分析方法を知ることにあるのではない。小判金貨とドル金貨をそれぞれ丸ごと溶かして分析比較してほしい、というものでした。

 アメリカ側はあわてました。日本人の目的が日米貨幣の相対的品位を確かめようとするものだったからです。日本人は通貨の分析方法を知りたいのだろう、それほど高度な分析能力がないのだろう、というアメリカ側の偏見が前提にあったのでしょう。しかもドル金貨には小判よりも銀はわずかしか含まれていないことを承知していたからです。

 「それには時間がかかります」といっても、「承知している、最後まで立ち会うから」という小栗の粘り強い交渉で、アメリカ側は全量分析に同意し、双方の金貨を丸ごと溶解して成分を分析することになりました。

    
    
幕末の小判(金貨)濫出 ―何が問題だったのか―

 この交渉の前提に幕末の小判(金貨)の海外濫出問題があります。
 
 日米和親条約により下田に駐在するようになった初代アメリカ領事ハリスは、日米の通貨交渉を本格的に開始し、幕府との間に「同種同量交換」を強引に認めさせます。メキシコドル(銀貨)1個を持参したら、その重量に匹敵する日本の一分銀貨3個と交換するというもので、一見ごく当たり前のレートに見えます。(これを拒否した日本側の事情は後述します)

 ともかく「これが世界の交換基準だ、拒否するのはおかしい」というハリスに強引に押し切られ、単純な重量計算で
   1メキシコドル(銀貨・約24㌘)  ⇒⇒ 一分(銀貨・約8.5㌘) 3個 と交換
を日本側の役人は認めてしまいました。その結果日本から小判金貨が買いあさられて、海外へ濫出する事態が起き、日本経済にたいへんな混乱が生じていました。
 
どういうことが起きたのかを以下の図で説明します。
 
外国人が 日本国内で換金し 外国へ持ち出すと
メキシコドル銀貨
4個を
日本に持ち込み






 










1ドル銀貨は⇒一分銀貨3個だから

4ドルは 一分銀貨12個(12分)
 に換えられる


              
                 
      ⇒⇒     
                    ⇒⇒ ⇒⇒外国に                     持ち出すと
               
                 
               

(国内では一分銀貨4個で ⇒ 小判(金貨)1個と換え
             られるから)
1分銀貨12個  は 一両小判3個 となる
上海や香港で、
小判1両(金貨)は4ドル
に換えられるから


12ドル(銀貨)を手に入れられる


  


  

  

  

  

  
結果として
4ドル
日本で交換するだけで 12ドル
増やせた!

 労せずしてお金の交換だけで現金が3倍になる、外国人にとってマネーゲームの出来るおいしい国日本、という状態に陥っていた。この原因は 
一分銀貨4個で一両小判(金貨)と交換できるところに問題があり

ときどき「日本では銀の価値を低く見ていたから」という説明がありますが、そうではありません。

 これよりさらにさかのぼること約165年、元禄年間に通貨の概念が改定されました。
  
元禄の通貨改定

元禄八年(1695)勘定吟味役の荻原重秀は
「貨幣は国家が造るものだから、瓦礫で造っても政府の印が押してあれば貨幣である」
と主張して、貨幣の改鋳を行いました。

銀貨は金貨の代用で補助通貨として使用していましたから、
政府の印さえ押してあれば何も銀貨でなくても瓦礫でも紙切れでもいい
という理論です。

「瓦礫でもいい」とは一見乱暴なようにも聞こえますが、
現在でも「紙切れに5,000円/10,000円と印刷して使っている」ように
補助通貨の概念を世界に先駆けていち早く取り入れた画期的な考えとも言えます。

元禄期まで
ある品物
  =  (一分銀貨)
        一分で買えた
元禄期以降    〈荻原重秀の考え〉
ある品物
  =  (一分銀貨・小さくした)
        「銀の量目を3分の1に減らしても、一分だ
        そして銀でなくて
        「瓦礫でも紙でもいい」…補助通貨だから
        (現在紙切れに1万円と印刷しているのと同じ意味)
元禄期~安政五年まで
一分銀貨4個=小判一両

で交換していた

一分銀貨=補助通貨 だから=実質三倍の価値を持たせていた。
一分銀貨四個=実質12個分の価値小判金貨1個  とみていた

*だから下の図では
一分銀実質36個分とみている
              
     

       ⇒⇒ 

       ⇒⇒    

        
              
               











                                *詳しくは村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』集英社新書参照

 
 国内だけなら通用するこの(先進的な)考えに、外国との通貨交換がからんでおかしくなります。

 問題はこの理論を165年後の幕府役人が明確に理解していなかったところにあります。荻原が明確に理論づけて記しておかなかったためという人もいます。もう一つ言えば、太平の世が続いて、役人はその役目に就くことが肝心で詳しい内容が分からなくても仕事をしてきましたから、165年前の改定理論などほとんど気にかけずに仕事ができた、とも言えます。

 ハリスは国際通貨として使っているメキシコドル銀貨を、これまでの各国と同じに「同種同量で交換すればいい」と単純に考えていました。日本の役人が「この一分銀貨は3倍の価値を持たせている」というのを理解できません。それはモノの価値を3倍に吹っかける日本人のずるい主張だ、と誤解しました。

 日本の役人もあまり強硬にハリスに主張されると、同種同量でもいいように思えてきました。

 とうとう同種同量の交換比率に同意した結果、マネーゲームに狂喜する外国人が両替を求めて殺到する事態になり、小判金貨がどんどん外国へ濫出しました。咸臨丸に同乗して嵐の中を乗り切ってくれたブルック大尉は、横浜滞在中に同僚が通貨の交換に走る姿を軍人としてふさわしくない、と批判しています。(ブルック「横浜日記」遣米使節史料集成)
 また、かつてニューヨーク市立大学の創立に貢献したほどの人物ハリスが、日本に初代領事として着任後この通貨交換により国から受けた給料の何倍もの蓄えをアメリカに送金することができたため、のちに日本から帰国後は「日本で不当な利得を得た」と非難され、表立った場所へは出入りできないまま生涯を終えています。

 逆にアメリカへ行った遣米使節一行は日本の3倍の値段で品物を買わされる羽目に陥っていました。

 小栗忠順は遣米使節に派遣されるに際し、この事態を収拾するための方策を探ることを井伊大老に命ぜられていました。従者の日記にも、ハワイに寄港した時からドルについての関心を示す記事が見られます。小栗忠順もサンフランシスコやワシントンでしきりに通貨の話を出し、アメリカ側からフィラデルフィアへ行ったら造幣局で交渉してくれ、と示唆されていました。
 
           *詳しくは佐藤雅美『大君の通貨』講談社・同『覚悟の人―小栗忠順伝』岩波書店を参照
    小栗忠順の通貨交渉 つづき▼
       堂々の交渉に拍手

 小栗ら三使は実験が始まるとその場を離れず、、昼食も弁当を届けさせて最後まで根気よく立ち会いました。その様子をニューヨークタイムズは
「日本の硬貨の分析に費やした長くて飽き飽きする作業への忍耐力には、デュポン大佐や海軍委員会のほかのメンバーすら驚かされた。分析試験の間、遣米使節の人たちは昼食にホテルに戻ることさえ断って、その場でご飯と魚で昼食を済ませた。彼らの一貫した忍耐強さは、鋭さ、知性、集中力と相まって、現場にいた人々に感銘を与えた」(ニューヨークタイムズ6月16日)
と伝えました。
 
 実験が終わって、一通りの数値が示された時、使節一行の堂々と主張した高い知性と理解度に敬意を表し、期せずしてアメリカ側から拍手がわきあがりました。 

       金貨の価値はほぼ同等

 分析の結果を一口に言えば、ドル金貨はやや銀が少ない、しかしそれは小判の方が何倍も価値が高いというほどではなくて、1割未満の差で小判金貨の品位が高い、というものでした。
 この結果を踏まえると次の主張ができます。

 ドル金貨は小判金貨より少し品位が低いがほぼ同等である。それなのに、いまアメリカ人は日本に来てその小判金貨を、メキシコドル銀貨⇒一分銀貨 の交換を通して3分の一の価格で手に入れることができているのは、不公平ではないか。

 しかし残念ながら、遣米使節はこれ以上の交渉権限を幕府から与えられていないということで、通貨に関する交渉はここまででした。幕府に断りなく、またハリスに事前の相談をしないで通貨交換比率の変更につながる交渉をする事に、勘定組頭の森田清行が強硬に反対したからです。

 すべてが終わるとアメリカ側が用意してくれた簡単なパーティーがあり、「目付(小栗忠順)は、正しい貨幣交換のシステムが日本とアメリカの間で確立されることを確信すると述べた」「」(NYタイムズ1860年6月16日)
 小栗忠順の無念が表れたことばです。たぶんアメリカ側は、この鋭い日本人から次の段階の交渉を持ち出されなかったことで、ホッとしたでしょう。
 
 結論を言えば、幕府は遣米使節一行が出発して間もなく、一枚当たりの品位は変わらないが、大きさと重量を3分の一にした小型の「万延小判」と「万延一分金」を発行することで、金の濫出を食い止めています。外国との銀貨交換の条約条項「同種は同量で交換」は守らなくてはならないから、金貨の方を操作することで対応したということになります。

                   天保小判 ⇒⇒  万延小判(1/3にした)

 いま、東京駅近くの日本銀行の真向かいにある「貨幣博物館」で万延小判を見ることができます。天保小判と比べてなんとも小さく薄く、「これが黄金の国ジパングの金貨か」とお粗末な印象は拭えません。でもシカタガナカッタ。

 後に「三井の大番頭」と言われた三野村利左衛門は、小栗の渡米前にこの情報を聞き、天保小判を買い集めて利益をあげています。今では「インサイダー情報による利潤」と追求されるところですが、小栗が収賄したわけでもなく当時は問題にならなかった。

ついでに訂正…  万延小判は小さいだけで、品位(金含有率)は従来の天保小判と同じです。
         
小判(金)の比較
種類名称

製作
天保小判(金)
別名「保字」
天保8年1837

万延小判(金)

万延元年1860
 重  量 11.3g  3.3g
 金含有率 56.8% 56.8%
 含有金 6.4g 1.9g
一分金の比較
種類・名称 天保一分金 万延一分金
 重 量 2.8g 0.8g
 金含有率 56.8% 56.8%
 含有金 1.6g 0.5g
          ▲「貨幣博物館」展示資料より村上泰賢が作成

        *したがって村上泰賢著「小栗上野介」平凡社新書のP164 
金の含有量を従来の3分の一にした小粒で品位の低い」  は誤りで
           「重量と形状を3分の一にした小型の」  と訂正します。 
村上の調査不足でした。
    2012〈平成24〉年12月

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リーフレット『遣米使節三船』
Brochure "Three Ships That Carried the First Japanese Embassy to the United States Around the World"

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◇ フィラデルフィア日米協会(リンク)
遣米使節一行一覧表(リンク)
岡谷荘三郎(館林藩・塚原重五郎の従者)(リンク)
江戸で万延小判切り替えを知って差額利益を得た三野村利左衛門(リンク)