遣米使節従者・玉蟲左太夫
しだいに近代人の目線に変化してゆく記録を残した、仙台藩士
玉蟲 左太夫
たまむし    さだゆう

玉蟲左太夫誼茂(やすしげ)
1823(文政六)〜1869(明治二)
享年47歳



玉蟲左太夫の渡米記録『航米日録』より

 嵐のポウハタン号でうろたえる日本人、悠々と仕事を進めるアメリカ人水夫の様子に赤面 
「風波いよいよ烈しく、陶器は砕け水器は破れ、今にも歿溺せんと思わるるほどなり。しかるに、その業に馴れしとて、花旗人(アメリカ人)の挙動少しも変せず。おのおのその業を守り、ことに当直のものと見え、各房を監視し、破損のところをよく糺し、また灯の消えたるへは火を点じ、什器の転倒はよく始末し、一として遺漏せず。かくのごとき風波は何とも思わざるなり。しからば、かくのごときは即ち彼等の常にして、予らの恐怖は定めて一笑に付すならんと。翌日に至りて赧顔に堪えず。」

身分の上下なく、威張らず互いに和して協力する米国人に感銘をうける
「船将の前といえども、ただ冠を脱するのみにて、礼拝せず。もっとも平日も船将・士官の別なく上下相混じ、たとい水夫たりといえども、あえて船将を重んずる風さらに見えず。船将もまた威焔を張らず同輩のごとし。而して情交親密にして事あればおのおの力を尽くして相救う。凶事あれば涙を流して悲嘆す。わが国とは相反することどもなり。
 わが国にては礼法厳にして、総主などには容易に拝謁するを得ず。あたかも鬼神のごとし。これに順じて少しく位ある者は大いに威焔を張り下を蔑視し、情交かえってうすく凶事ありといえども悲嘆の色を見ず。大いに彼と異なる。このごとくにては、万一緩急の節にいたり誰か力を尽くすべきや。これ昇平長く続きたる弊ならん。慨嘆なり。しからば、礼法厳にして情交薄からんよりは、むしろ礼法薄くも情交厚きをとらんか。」

香港で中国人が英人に、犬のように追い払われるのを見て「胸が傷む」と記す
「(町中を)徘徊すでに一時ばかりなりければ、、数十の支那人(中国人)群がり、予らの装いを見んとす。英国の兵卒傍にあり。鉄棍をもって撃ち払う。あたかも犬馬を追うがごとし。これを以ってはなはだ心を傷ます。」

  

玉蟲左太夫の墓
保春院(仙台市保春院丁)境内
本堂のすぐ左わき玉蟲家の墓の隣に並んでいる。
表面に「玉蟲拙斎之墓」と刻まれて「左太夫」の文字はどこにもないからご注意。

側面には、
「明治二年四月九日逝歳四十六
友人横尾某建以代墓成」
と刻まれている。
明治維新後は世をはばかる名となって、お墓も友人によりひっそりと建てられたものと思われます。

会津鶴ケ城での会見の絵
     (白虎隊記念館)

慶應四年三月、会津鶴ケ城で藩主松平容保公と対面する玉蟲左太夫と、同じく仙台藩士若生文十郎

保春院(小栗上野介・東善寺) 玉蟲左太夫の墓・看板(小栗上野介・東善寺)
保春院
臨済宗妙心寺派
保春院丁の貨物線ガードに沿って入る。仙台駅前西口のバスE「荒町経由」で約10分、「若林区役所」を下りたら、近くに見えるガードをくぐってすぐ右。

玉蟲左太夫の墓 標示文

 「玉蟲左太夫は萬延元年(1860年)に日米修好条約締結のため、幕府使節新見豊前守の随員として渡米し帰国後大番士に登用され、航米日録等の書を著している。また養賢堂指南頭取に推挙された。戊辰の役に奥羽列藩同盟した際、軍務局副頭取に任ぜられ会津に使する等奔走したが藩論一変し その犠牲となり明治2年4月9日同志と共に切腹を申し渡され自刃(享年47歳)当保春院に葬られた。       仙台市

『玉蟲左太夫「航米日録」を読む』―日本最初の世界一周日記―
小田 基 東北大学出版会


『仙台藩士幕末世界一周 玉蟲左太夫外遊録』
山本三郎 編著(現代語訳)
出版:荒蝦夷 2010平成22年8月31日刊

仙台で「玉蟲左太夫の世界」   
2010平成22年2月13日(土)

仙台市若林区文化センターで「先人のはなを啓く会」主催:玉蟲左太夫顕彰のイベントが開かれました。

◇第1部 講演 「幕末の日本における東北と仙台藩のとった行動を考える」 講師 星 亮一(歴史作家)
◇第2部 創作落語「玉蟲左太夫の生涯」 口演 桂 友楽 (落語家)
◇第3部 演劇「超サムライ 玉蟲左太夫」  脚本 石川裕人  演出 鳳城りむ
2年前に玉蟲左太夫の存在に気づいた今回の仕掛け人出雲幸五郎さんと、玉蟲のお墓でばったり会い一緒に会場へ。 東善寺の「遣米使節3船」模型を制作してくれた岡崎英幸さん(隣の大崎市)も、かけつけました。
他にも会場で「東善寺へお参りしました」と、声をかけてくれる方が何人もいました
講演 の前に講師の星亮一氏がロビーで著書にサイン。
講演のあとは落語 玉蟲左太夫の生涯を楽しく聞かせてくれます 演劇「超サムライ 玉蟲左太夫」
素人の演技とは思えないもので、すっかりその気になって見せてもらいました
観客も楽しそうに観劇 広いホールがほとんどいっぱいです
遣米使節(正使)新見豊前守正興の従者としてアメリカへ渡り、新興国家アメリカのさまざまな文化に触れながら、日本文化との比較をし、次第に近代人の目に変わってゆく玉蟲左太夫姿が、踊りあり、歌ありの中で表現されますトミーポルカも流れました。倉渕切り絵クラブ制作・東善寺提供の切り絵画像が劇の進行説明に使われました。絵の原作は木村直巳作マンガ「天涯の武士―小栗上野介―」より
そして、従来の儒教道徳、武士道でアメリカの文物を見、判断する上役、村垣淡路守範正(副使)との葛藤。 村垣役の乳井さん(先人のはなを啓く会)もシロウトとは思えないわかりやすい発声で、堂々としていました。講演を終えた星亮一氏もポウハタン号の艦長役で出演です。陰マイクで流れる進行ナレーションもすばらしい声で、あとで元NHKアナと聞いてナットク。
帰国後の明治維新の嵐の中で新しい日本の姿を追求しながら、結局詰め腹を切らされる形で生涯を終えた玉蟲左太夫。140年経てようやく仙台市民に再認知されはじめたことを喜びました。出演の皆さん、裏方の皆さん、お疲れさまでした!玉蟲左太夫が喜んでいますよ!!
終わった後ロビーには感激、興奮した観客が渦巻きました。               玉蟲左太夫の木彫胸像 市の地下鉄工事のために伐られたケヤキ材から彫ったもので、平成21年7月に完成しました。    
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