開国の町●●伊豆下田の史蹟を訪ねて

開国の町・下田


日本最初のアメリカ領事館玉泉寺
伊豆の下田は、嘉永六年に浦賀へやって来たペリーが、翌嘉永七(1854)年に再びやってきて神奈川で交渉の結果結んだ日米和親条約にもとずいて開かれた港。ペリーとの交渉及び接待所に当てられた了仙寺、ハリスが滞在して日本最初のアメリカ領事館となった玉泉寺をはじめ、小さな港町の至るところに開国の歴史が息づいている。

ポウハタン号の町
ペリーが二度目の来日に乗ってきた旗艦が、最新鋭の軍艦ポウハタン号(2400トン)。そして6年後に、遣米使節小栗上野介はポウハタン号で渡米する。いっぱんに幕末の船は咸臨丸一辺倒になっているが、下田の町では赤線が船腹に描かれたポウハタン号をを「赤筋のポウハタン」とよんで、おなじみの船となっていた。これまで「遣米使節使節が乗った船」という視点だけで見ていたポウハタン号が、この町では「ペリーが乗ってきた船」として、よく知られていることがうれしい。

伊豆急下田駅に着くと、異人の大きな風俗画が迎えてくれる 黒船祭
2004年は5月14〜16日です
黒船
下田駅前に飾られた大きな模型船はサスケハナ号だった
まず腹ごしらえ、と駅近くの「利久」に入る。刺身定食は柔らかな舌ざわりの絶品。少し手をつけてからあわてて撮影。
群馬から来た、と聞いた主人がギターを弾いてくれる。せっかくの「アランフェス協奏曲」をはたして聴いているのか、ひたすらほおばる。 出発
お腹がいっぱいになったところで、主人に見送られて、レンタカーを借りて町へ出かける。
了仙寺は日蓮宗の名刹。嘉永七年、ペリーが下田に入港した時の接待所。和親条約の細目を決める附属条約がここで締結された。 附属条約を結ぶにあたって、言語、風習、思想の違いを越え、互いの立場を尊重しながら根気強く主張しあい、合意にこぎつけた。
境内にはアメリカジャスミンが1000株もあり、最盛期はすばらしいことだろう。 境内の了仙寺宝物舘は幕末開国の歴史を伝える品がたくさん展示されている。 玉泉寺は曹洞宗の寺
日米和親条約によってタウンゼントハリスが約3年間滞在した、日本最初の米国領事館。
安政三年七月下田に着いたハリスは、国旗を立て町の人々と交流し、江戸に通って交渉を進めた。
入口看板
玉泉寺には「ハリス記念舘」があって、たくさんの貴重な史料が展示されている。「あまり宣伝もしませんが…」と寺の奥さんが言うが、参観者が絶えない。
ロシア艦ディアナ号乗組員の墓
嘉永七年下田に入港して日露和親条約の交渉中に大地震の津波で死亡したり、戸田村で病死した水兵の墓。玉泉寺
アメリカ水兵の墓
下田港停泊中のポウハタン号船員が事故死したのを玉泉寺に埋葬して以後、死亡した外国人の埋葬所に指定され、現在5名のアメリカ人の墓石が並ぶ。
歴代住職の墓石
領事館になったとき、住職は本尊、仏具を別屋に移して本堂を明け、住職・檀家とも不便に耐えた。
安直楼
お吉が晩年に下田に戻って開いた小料理屋。ナマコ壁は下田の建物を特長づけている。
下田公園
ペリー、ハリスのレリーフが飾られ、広場から下田港が見下ろせる。
下岡蓮杖 幕末の写真師は下田の出身。長崎の上野彦馬ほど知られていないのは、横浜、江戸で幕府側の人物を写したから。 ペリー像
下田港のそばに立つ銅像

ポウハタン号の史蹟  下田市に乗組員の子孫が住んでいた
ヴァン・ビューレンさん
ポウハタン号の乗組員(小栗上野介が渡米の時は退役)の曾孫にあたることが、つい最近わかったと、本人も驚いていました。群馬大学で英語を教えたこともある。
ポウハタン号
(米国軍艦2,400トン)
嘉永七年ぺりー、二度目の来日の旗艦であり、日米和親条約はこの船上で調印され、その六年後に小栗上野介が渡米する船。

◇関連のホームページ
了仙寺
玉泉寺