| 墓は熊本県玉名市大倉字亀頭迫(きとさこ)の大倉団地の東斜面にあった |
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木村鉄太の墓
以前は草ヤブにたくさんの木村家の墓石があった。最近きれいに整理されわずか三基になってしまったのが惜しい、と高野さんは言う。 |
看板
地元大倉の人たちが看板を作り、周囲の清掃をしているとのこと。こうして子供たちが郷土の歴史を誇りをもって語れるようにはからうことは、大人の責任、ですばらしいことだと思う。 |
墓参
権田のモナカ「小栗公」を供え、寺から汲んでいった清水をかけて読経する。 |
高野和人さんと
帰国2年後に亡くなったので、地元でも知る人が少ない木村鉄太だが、高野さんの『航米記』刊行で少しずつ知られてきている。 |
木村家あと
墓の下に木村家の跡が見える。廻船問屋で裕福だったことを背景に江戸で学ぶうちに遣米使節従者に抜擢されたらしい。
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青潮社を訪問
原本の『航米記』をはじめ熊本や九州各地の歴史資料を発掘刊行を続け、知る人ぞ知る出版社 |
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青潮社
九州学院の裏門のすぐそばにある。
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書斎
壁いっぱいの史料・書籍が日ごろの研鑽を物語る |
高野さんの受賞
これまでの地域文化再発見、発掘の功績に贈られたのは・・・・・・
第1回熊日出版文化賞・サントリー地域文化賞・熊本県文化財功労者賞・西日本文化賞・栗原荒野賞などたくさん |
高野和人さん
奥様の看病と高齢のお母様の介護をしながら、研究活動を精力的に続けられる姿に敬服しました |
魚料理
熊本市内の店でおいしい魚料理のお昼をご馳走になった。これはサヨリの刺身だという。 |
| 玉名市の歴史あれこれ |
玉名市歴史博物館
前方後円墳を模したというユニークなデザインの建物だった ▼ ▼ |
補陀落渡海(ふだらくとかい)の碑 南へ南へと海を渡って行くと南方の観音浄土『補陀落・ふだらく』へ行き着く、という信仰が平安時代からさかんとなって、この地からも渡海した人々がいたことを示す石碑がある。▼ |
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歴史博物館
周囲の盛り上がった芝生の上に建物がある |
廻船
菊池川から大阪まで米を運んだ船が再現されていた |
補陀落渡海の碑
玉名市文化センターとなりのお稲荷様の境内にある |
永禄11年(1568)11月十八日 下野(しもつけ・栃木県)の弘円上人が渡海した姿を阿弥陀如来になぞらえた姿に線彫りし、同行した者たちを観音・勢至の脇侍にしたてた石碑。下野の日光はもと「二荒・フタラ」、補陀落浄土の意味であるから、信仰の行き着くところの渡海であろう。 |
| 補陀落渡海の碑−2 玉名市伊倉の山上にも下野の僧たちの補陀落渡海の石碑があって、平田さんの案内で見ることができた |
田原坂(たばるざか) ♪雨は降る降る〜 人馬は濡れる〜 越すに越されぬ田原坂〜♪ 玉名市と熊本市の間の峠が西南戦争の激戦地となった田原坂。 |
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| はからずもこの地で補陀落渡海の碑にぶつかって、以前に補陀落渡海の話から派生したと思われる「足摺」説話をまとめたことを思い出した。 |
一の坂
西の玉名からは二の坂、三の坂と続く。かなりの峠道だった |
西南戦役の戦没者慰霊塔が道端にある |
権田村出身の小栗家家臣池田伝三郎は小栗夫人を護って会津へ行き、箱館五稜郭まで転戦した。のち巡査となって明治10年にこの地でも戦った |
田原坂(たばるざか)−2
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| 池田は、佐川官兵衛らの会津出身巡査で編成された抜刀隊に所属した可能性が高い。 |
池田は田原坂の戦いで頬を撃たれ、その傷跡を隠すため生涯ほおひげを生やしていた
子孫の消息は現在不明 |
西南戦争では会津の元武士による抜刀隊は、「会津のかたき」と叫んで斬り込んだ。 |
戊辰戦争後、会津出身者の就職は採用が少なかったので、武術を生かし巡査や軍人になる者が多かった。 |
その巡査や軍人でもまた「会津差別」を受けたという
田原坂の激戦にはそういう背景もあった |