小栗上野介の足跡・(東善寺) 遣米使節 世界一周の旅 

遣米使節 世界一周の旅


地球一周の旅 遣米使節の行程
万延元年(1860),使節一行は9ヶ月かけて日本人初の世界一周をし、帰国した

(画像提供:月刊「NEWTON」2008.3月号)
                         地球一周の航海図 
中央の青線―は……日付変更線
赤線―(往路)と緑線―(帰路)が……遣米使節の世界一周の行程図
黒線―は……サンフランシスコまで随行した咸臨丸の航路

コース  米国軍艦3隻「遣米使節三船」で世界一周した遣米使節
品川沖出港 安政7年(3月19日から万延元)1月18日ー【パウハタン号で】太平洋―ハワイー3月9日サンフランシスコーパナマー【ロアノウク号で】カリブ海―閏(うるう)3月25日ワシントン着ーニューヨーク5月13日ー【ナイアガラ号で】大西洋―ロアンダ(アンゴラ)−バタビア(インドネシア)ー香港ー万延元年9月28日 横浜帰着 (東回り世界一周でした)


■明治以後の歴史教育では、遣米使節の行程や業績は隠され、「咸臨丸の太平洋横断」にすり替えて教えられてきました。
■「
ウハタン号」・・・これまで「ポウハタン号」としてきましたが、「ウハタン」が現地発音に近いので、順次パウハタン号に切り替えます。(2010平成22年10月)
遣米使節  
正使新見豊前守・副使村垣淡路守・監察小栗豊後守(のち上野介)
の3人が使節で、それぞれ9人の従者を連れ、ほかに随員や従者で計77人が出かけた。小栗の従者の一人佐藤藤七は権田村の名主で、農民としても初の世界一周を果たした。

パナマで株式会社を理解
パナマにはまだ運河はなかったので、パナマ鉄道の汽車で地峡を越えて大西洋側のアスペンウオールへ向かう。列車の中で鉄道建設の費用とその調達方法を質問した小栗上野介は、「総経費は700万ドル。国内の富裕の者から資本を提供してもらって組合(コンパニー)を作り、出来上がると利用者からの利益を分配してゆく」というアメリカ側の説明を聞いて、民間資本の株式会社で新しい事業をおこせることを理解した。

1867年(慶応三)、日本で最初の株式会社「兵庫商社」を設立するヒントはこのときの経験にあった。

アスペンウオール(現在のコロン)から、迎えの船ロアノウク号(3400トン)に乗ってカリブ海を渡りワシントンに上陸した。



パナマ鉄道  この汽車の絵は佐藤藤七の『渡海日記』による。
パナマ鉄道建設の関連小説『黄金の馬』が刊行された(2014年三冬社)。


パナマ鉄道のレール
運河の建設に関連して一部を迂回線としたため不要となったレールを切断してブックエンドの記念品とした。中空になった珍しいレールとビス(横須賀市自然人文博物館蔵・平成15年6月27日、この品が博物館に入った日に見せていただいた)
◇関連情報:ロマンの海に漕ぎ出そう(東京海洋大学・リンク)

アメリカで
閏3月28日、ホワイトハウスで大統領ブキャナンに謁見し、日米修好通商条約批准書を渡す。


ホワイトハウスで大統領に謁見する使節

ブキャナン大統領 
President James Buchanan
第15代大統領 (1857〜61)






関連ページ:みやま文庫「小栗上野介」の正誤表

4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。記念写真を撮る。ここはたんなる造船だけの設備ではなかった。鉄の塊を溶かして蒸気機関や歯車などさまざまな部品を作り、造船のほかに、大砲、小銃、砲弾や弾丸、ロープも帆布も次々に作られる総合工場であり、それらの工作の原動力はすべて蒸気機関であった。
*この見学が後の日本の産業革命の地横須賀造船所の建設に活かされる。*


■ワシントン海軍造船所見学 1860萬延元年4月4日(西暦5月24日)
        森田岡太郎清行
目付・小栗豊後守忠順
正使・新見豊前守正興
副使・村垣淡路守範正
成瀬善四郎正典
塚原重五郎昌義
 前列左から
不明(アメリカ人)
ワトソン事務長
松本三之丞
モーリ大尉
栗島彦八郎重全
立石得十郎
ブキャナン提督
 不明(日本人)
 不明(日本人)
デュポン大佐(シルクハット)
 不明(日本人)
 不明(日本人)
 不明(日本人)
 不明(日本人)
マクブレア大佐
シム氏
ポーター大佐
 不明(アメリカ人)
ルイス中尉
ニコルソン大尉
 後列左から


   
上記人物説明は「フランレスリーイラスト新聞」1860年6月9日 による

4月25日、フィラデルフィアの造幣局に行きドルと小判の交換比率の不公平を指摘して、分析実験に立ち会う。「ノーといった最初の日本人」といわれるゆえん。


帰路につく   ニューヨークから最新鋭の軍艦ナイアガラ号で帰国の途についた。

ロアンダで見たもの
6月22日、ロアンダ港(アンゴラ)で数人の黒人が首鎖でつながれて荷物を運ばされるのを見る。鎖のはじはポルトガル人が握り、右手にムチを持っている。人間を家畜のように扱う姿にショックを受けた。
       
奴隷(東善寺・小栗上野介)

荷物を運ばされる奴隷。
(小栗忠順従者・木村鉄太『航米記』より)



香港で見たもの
20年前のアヘン戦争でイギリスに敗れて借り上げられ、中国の土地でありながら白人が来ると中国人は道の端によける島だった。日本人を見ようと群がる中国人をどかすため、英人警護がいきなり鉄のこん棒で中国人を殴りつけるのを見た仙台藩士玉蟲左太夫は「胸が痛む」と書いている。

随行した権田村名主・佐藤藤七
小栗忠順の従者9人のうちに権田村の名主佐藤藤七が含まれていた。通称「渡海日記」および「諸用留」を残し、とくにパナマで乗った汽車の絵はいきいきと描かれている。

帰国した日本は

攘夷の国
サンフランシスコ到着の6日前の3月3日桜田門において、一行を派遣した責任者井伊直弼が暗殺され、開国を非とする攘夷鎖国のテロ行為が横行、攘夷熱に浮かれ、はやり病も火事や地震もすべて外国人のせい、毛唐かぶれは打ち殺せ、とする狂気が渦巻く国になっていた。
 作家司馬遼太郎は『明治という国家』で、遣米使節一行77人と咸臨丸の一行99人合わせて176人がアメリカの最新の文化を見ていながら、ほとんどの者が帰国後にそれを積極的に語ることなく口を閉ざしていたなかで、小栗上野介、福沢諭吉、勝海舟の3人が後の日本の近代化に生かす仕事を残した。「小栗上野介は明治の父といえる」と書いている。
 
咸臨丸は   三つの虚構

虚構1、
「日本人初の太平洋横断」…じつは初の太平洋横断は別の船
1610(慶長15)年、家康の命により京都の商人田中勝介はメキシコへ渡る。その3年後、
1613(慶長18)年、伊達政宗の正使として支倉常長が サン・ファン・バウティスタ号で太平洋を横断し、メキシコからイスパニア・ローマに至り再び太平洋を横断して帰 国している。咸臨丸より247年前のこと。
勝海舟は「軍艦として初の太平洋横断」と 語っているが、明治以後日本人の国威発揚意識から、軍艦としての文字を抜いて教えられている。「咸臨丸病の日本人」参照


虚構2、
「日本人だけで航海」…じつは大暴風雨で米人船員が操船
北太平洋の嵐に遭遇しほとんどの日本人は船酔いでダウンしたた め、米人船員が操船して航海を続けた。動けた日本人はジョン万次郎ほか2,3人だけ。
帰国 にあたって木村は「心配だから」とまた米人船員4人を頼みコック1人で計5人に乗ってもらっ てサンフランシスコから帰途についた。
帰国後、勝海舟は「外国人の手はすこしも借らな いでアメリカへ行った」(『氷川清話』)として、ブルック大尉に世話になったことはいっさい語っていない。 氷川清話には「アメリカ人が・・・船底の掃除やペンキの塗り替えなどをすっかりしてくれた」と、いかにも初の太平洋横断に感激したアメリカ人がやってくれたように語っているが、船の修理の手配やさらに費用をすべてアメリカ政府の負担とすることまで、計らってくれたのはブルック大尉である。
いまでも「アメリカ人が帰国を希望したので乗せてやった」と書く学者がいる。日本人はいい気になりすぎると思う。

虚構3、勝海舟は遣米使節ではない…じつはサンフランシスコ往復だけ
咸臨丸はサンフランシスコで使節一行と別れハワイ経由で帰国した。
浦賀発1月12 日ー2月26日着サンフランシスコ閏3月18日発−ハワイー5月5日浦賀着

じつは船酔いでダウンした勝海舟
 咸臨丸はパウハタン号の使節一行の護衛船 という名目で派遣され、軍艦奉行木村攝津守喜毅が責任者。勝海舟は教授方取扱という艦長 より下の役。その他にアメリカのブルック大尉以下10人の米人船員が頼まれて乗り組んで いた。
 ブルックらは横浜付近を測量中に台風で測量船フェニモア・クーパー号が壊れ、帰国しようと横浜に滞在していたので木村が頼んだ。「俺たち日本人だ けで大丈夫」と反対した勝海舟は「航海中船酔いが激しく、ほとんど船室で寝たきりだった 」とブルック大尉の「咸臨丸日記」に、そのときの様子が詳しく書かれ、ニューヨークタイムズ(4月17日号)にも報じられている。
 ブルックはしかし、12日後にサンフランシスコに到着した使節に「勝海舟はよくやった」とだけ報告している。海の男らしいいい男、と言える。

 *この史実は遣米使節100年記念「遣米使節史料集成」(風間書房)にブルックのなまなましい日記が公刊されて、初めて世に出ることになった(それまではNYタイムズなどに少し書かれている程度だったから、広まらなかった)。以来半世紀経過して、この話はすっかり定着した。ささやかな歴史が正されるのに半世紀かかったということです。

ではなぜ咸臨丸・勝海舟が有名になったのかこちらをご覧下さい。「咸臨丸神話」

「岩倉具視使節団の米欧回覧」(明治4〜6年)が「日本人初の世界一周旅行記」、とうたう本が慶応義塾大学出版会からでました。明治以来、遣米使節の業績を隠し、幕府政治を否定してきた歴史教育のマイナスの成果、がこういう形で現れているといえましょう。
『岩倉使節団の米欧回覧』(リンク)をご覧下さい。
(2006・平成18年10月) 
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