小栗上野介の足跡 遣米使節 世界一周の旅 

遣米使節 世界一周の旅


■地球一周の旅 遣米使節の行程
万延元年(1860),使節一行は9ヶ月かけて日本人初の世界一周をし、帰国した
世界一周した小栗上野介(東善寺)
■明治以後の歴史教育では、遣米使節の業績は隠され、「咸臨丸の太平洋横断」にすり替えて教えられてきた。
遣米使節  
正使新見豊前守・副使村垣淡路守・監察小栗豊後守(のち上野介)
の3人が使節で、それぞれ9人の従者を連れて10万石の大名の格式で出かけた。小栗の従者の一人佐藤藤七は権田村の名主で、農民としても初の世界一周を果たした。

コース  
横浜出港 萬延元年1月22日ーハワイー3月9日サンフランシスコーパナマー閏(うるう)3月25日ワシントンーニューヨーク5月13日ーロアンダ(アンゴラ)−バタビア(インドネシア)ー香港ー8月28日 横浜帰着 (東回り世界一周でした)

パナマで株式会社を理解
パナマにはまだ運河はなかったので、パナマ鉄道の汽車で地峡を越えて大西洋側のアスペンウオールへ向かう。鉄道建設の費用とその調達方法を質問した小栗上野介は、「総経費は700万ドル。国内の富裕の者から資本を提供してもらって組合(コンパニー)を作り、出来上がると利用者からの利益を分配してゆく」というアメリカ側の説明を聞いて、民間資本の株式会社で新しい事業をおこせることを理解した。

1867年(慶応三)、日本で最初の株式会社「兵庫商社」を設立するヒントはこのときの経験にあった。

アスペンウオール(現在のコロン)から、迎えの船ロアノウク号(3400トン)に乗ってカリブ海を渡りワシントンに上陸した。

     パナマで乗った汽車(東善寺・小栗上野介)


この汽車の絵は佐藤藤七の『渡海日記』による。



パナマ鉄道のレール
1869年廃止にあたり、切断してブックエンドの記念品とした。中空になった珍しいレールとビス(横須賀市自然人文博物館蔵・平成15年6月27日、この品が博物館に入った日に見せていただいた)。


アメリカで
閏3月28日、ホワイトハウスで大統領ブキャナンに謁見し、日米修好通商条約批准書を渡す。


ホワイトハウスで大統領に謁見する使節

ブキャナン大統領 
President James Buchanan
第15代大統領 (1857〜61)




写真提供:
水口まみ氏(ロスアンゼルス)

注:これまで掲載していた写真の人物は間違いでした。訂正いたします。上の画像「ホワイトハウスで謁見する…」をクリックして確認してください。2008平成20年3月

4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。記念写真を撮る。ここはたんなる造船だけの設備ではなかった。造船のほかに、大砲、小銃、砲弾や弾丸が次々に作られる一大軍事工場であった。
*この見学が後の横須賀造船所建設に活かされる。*


■ワシントン海軍造船所見学 1860萬延元年4月5日
前列右から2人目が目付小栗上野介、3人目が正使新見豊前守、4人目が副使村垣淡路守。

4月25日、フィラデルフィアの造幣局に行きドルと小判の交換比率の不公平を指摘して、分析実験に立ち会う。「ノーといった最初の日本人」といわれるゆえん。


帰路につく   ニューヨークから最新鋭の軍艦ナイアガラ号で帰国の途についた。

ロアンダで見たもの
6月22日、ロアンダ港(アンゴラ)で数人の黒人が首鎖でつながれて荷物を運ばされるのを見る。鎖のはじはポルトガル人が握り、右手にムチを持っている。人間を家畜のように扱う姿にショックを受けた。
       
奴隷(東善寺・小栗上野介)

荷物を運ばされる奴隷。
(小栗忠順従者・木村鉄太『航米記』より)



香港で見たもの
20年前のアヘン戦争でイギリスに敗れて借り上げられ、中国の土地でありながら白人が来ると中国人は道の端によける島だった。日本人を見ようと群がる中国人をどかすため、英人警護がいきなり鉄のこん棒で中国人を殴りつけるのを見た仙台藩士玉蟲左太夫は「胸が痛む」と書いている。

随行した権田村名主・佐藤藤七
小栗忠順の従者9人のうちに権田村の名主佐藤藤七が含まれていた。通称「渡海日記」および「諸用留」を残し、とくにパナマで乗った汽車の絵はいきいきと描かれている。


帰国した日本は

攘夷の国
サンフランシスコ到着の6日前の3月3日桜田門において、一行を派遣した責任者井伊直弼が暗殺され、開国を非とする攘夷鎖国のテロ行為が横行、攘夷熱に浮かれ、はやり病も火事や地震もすべて外国人のせい、毛唐かぶれは打ち殺せ、とする狂気が渦巻く国になっていた。
 作家司馬遼太郎は『明治という国家』で、遣米使節一行77人と咸臨丸の一行99人合わせて176人がアメリカの最新の文化を見ていながら、ほとんどの者が帰国後にそれを積極的に語ることなく口を閉ざしていたなかで、小栗上野介、福沢諭吉、勝海舟の3人が後の日本の近代化に生かす仕事を残した。「小栗上野介は明治の父といえる」と書いている。
 

咸臨丸は

船酔いでダウンした勝海舟
咸臨丸はポウハタン号の使節一行の護衛船 という名目で派遣され、軍艦奉行木村攝津守喜毅が責任者。勝海舟は教授方取扱という艦長 より下の役。その他にアメリカのブルック大尉以下10人の米人船員が頼まれて乗り組んで いた。横浜付近を測量中に台風で船が壊れ、帰国しようとしていたので木村が頼んだ。「俺たちだ けで大丈夫」と反対した勝海舟は「航海中船酔いが激しく、ほとんど船室で寝たきりだった 」とブルック大尉の「咸臨丸日記」に、そのときの様子が詳しく書かれ、ニューヨークタイムズ(4月17日号)にも報じられている。
ブルックはしかし「勝海舟はよくやった」とだけ使節らに報告している。海の男らしいいい男、と言える。

大暴風雨で米人船員が操船
北太平洋の嵐に遭遇しほとんどの日本人は船酔いでダウンしたた め、米人船員が操船して航海を続けた。動けた日本人はジョン万次郎ほか2,3人だけ。
帰国 にあたって木村は「心配だから」とまた米人船員4人を頼みコック1人で計5人に乗ってもらっ てサンフランシスコから帰途についた。
帰国後、勝海舟は「外国人の手はすこしも借らな いでアメリカへ行った」(『氷川清話』)として、ブルック大尉に世話になったことはいっさい語っていない。 氷川清話には「アメリカ人が・・・船底の掃除やペンキの塗り替えなどをすっかりしてくれた」と、いかにも初の太平洋横断に感激したアメリカ人がやってくれたように語っているが、船の修理の手配やさらに費用をすべてアメリカ政府の負担とすることまで、計らってくれたのはブルック大尉である。
いまでも「アメリカ人が帰国を希望したので乗せてやった」と書く学者がいる。日本人はいい気になりすぎると思う。

サンフランシスコ往復だけ
サンフランシスコで使節一行と別れハワイ経由で帰国した。
浦賀発1月12 日ー2月26日着サンフランシスコ閏3月18日発−ハワイー5月5日浦賀着

初の太平洋横断は別の船
1610(慶長15)年、家康の命により京都の商人田中勝介はメキシコへ渡る。
1613(慶長18)年、伊達政宗の正使として支倉常長が サン・ファン・バウティスタ号で太平洋を横断し、メキシコからイスパニア・ローマに至り再び太平洋を横断して帰 国している。咸臨丸より247年前のこと。
勝海舟は「軍艦として初の太平洋横断」と 語っているが、明治以後日本人の国威発揚意識から、軍艦としての文字を抜いて教えられている。「咸臨丸病の日本人」参照

「岩倉具視使節団の米欧回覧」(明治4〜6年)が「日本人初の世界一周旅行記」、とうたう本が慶応義塾大学出版会からでました。明治以来、遣米使節の業績を隠し、幕府政治をなるべく否定してきた歴史教育のマイナスの成果、がこういう形で現れているといえましょう。
『岩倉使節団の米欧回覧』(リンク)をご覧下さい。
(2006・平成18年10月) 

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