小栗上野介随想 横須賀造船所日本の産業革命の地
日本の将来を見据えて建設した横須賀造船所
「土蔵付き売家」または
「土蔵付売り据え」


日本産業革命の地

 

横須賀造船所は
「蒸気機関を原動力とした日本最初の総合工場」  だった
 従来、日本の工業の原動力は人力・牛馬・水車までだった。横須賀製鉄所ははじめから蒸気機関を原動力としていたから「蒸気機関を原動力とする日本最初の総合工場」といえる。まさに日本の産業革命の地である。司馬遼太郎が「日本の近代工学のいっさいの源泉」(「三浦半島記」)と書いたのは、このことを指す。

 横須賀造船所建設で現場を指揮した栗本鋤雲(じょうん)は、「小栗は、これができあがれば土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」と回想している。
 
また、明治になって旧幕臣島田三郎は幕末を回顧し「小栗上野介はこれが出来上がればいずれ土蔵付売り据えの栄誉が残せる。後は野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない、と語った」と述べている。
 


 一枚の写真が残っている。140年前に遣米使節が、ワシントン海軍造船所を見学したときの記念写真だ。使節の小栗上野介も写っている。


ワシントン海軍造船所見学 1860萬延元年4月5日
(前列右から2番目が小栗上野介)

  この時案内されて造船所に入ると、そこは造船だけの施設ではなかった。建ち並ぶ工場では、蒸気機関の仕掛けにより大砲をくりぬき、ライフル銃、砲弾、弾丸が次々に造られ、船体は木造だから木工所も備えた総合工場だった。「日本人は熱心に見学している」と書いたニューヨークタイムズは続けて「とくに小栗は近い将来日本にこういう施設をぜひ造りたい、と熱心に語った」と報じている。

 帰国後、上野介は対外問題と国内の攘夷(じょうい)討幕問題に追われ、目まぐるしい活動を要求される。財政もひっぱくしている中で勘定奉行に就任すると、懸案の造船所建設を提案する。当然、反対論が起きる。それは時期尚早だ、不要不急だ、金がない、金があるなら陸軍を強化しろ、といったものだった。勝海舟も「日本で軍艦を造るなど数年でできる。でも艦隊を動かす人材育成に五百年かかる。そっちを先にするほうがいい」と反対した。

 
 上野介が造りたかったのはたんなる造船所ではない。アメリカで見た重工業の総合工場である。ここから日本の近代化が進んでゆくという確信をもって、金は何とかするから、と幕閣を説得する。フランス人技師と共に江戸湾を見まわって、絶好の場所を見つけた。横須賀である。帰国五年後の1865(慶応元)年11月、着工にこぎつけた。

 造船所は、はじめ横須賀製鉄所という名で始まった。遣米使節一行はアメリカで、街のあちこちに使われなくなった鉄製品が放り出されているのを見て「この国は鉄があふれている!」と驚いた。当時、江戸では火事が消えると、焼け跡を掘り返して釘を拾い、叩き直してまた使っていたくらい鉄が少なかった。鉄があってはじめて造船に入れるから、まず製鉄所なのだ。下仁田町中小坂の鉄山採掘はこの関連で行なわれた。


▲クレーン 30トンクレーンが初めに設置された
 
          
 
 さて大勢のフランス人技師が指図しても、日本人の大工、石工、鍛冶屋はフランス語がわからない。横浜に設けた日本最初の仏語伝習所で学んだ若者が現地で仏人技師の言葉を伝え、鱟舎で学んだ職工がゆくゆくは出来上がった造船所の幹部に育ってゆくシステムも作った。養子小栗又一もここで学んだ。明治維新後、工事は明治政府に引き継がれ、明治二年ごろから本格稼働、同四年から本格的な造船を開始して、海運国日本の原動力となった。

 こうした彼の業績を、のちの歴史家は「徳川幕府強化のために横須賀造船所を造った」と逆賊視する根拠としてきた。しかし、フランス語が出来ることから日本側責任者となって、現地を指揮した栗本鋤雲(じょうん)は明治中ごろに当時を思い出し「小栗は、これが出来上がれば、土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」と書いている。
 母屋(政権)が売りに出てもこの土蔵(造船所)が新しい家主の役に立つ、ということで、明治維新の三年前、すでに幕府政治の行き詰まりを見通し、のちの時代のために造っていたことがわかる。栗本は「その場の冗談と思ったが、今彼のいったとおりになっている。あの時の彼の心中を思うと、胸が痛む」と書いている。私たちも胸が痛む。

(2000・平成12年3月11日・上毛新聞オピニオンに加筆)

   ○小栗上野介の名言「土蔵付き売家」
          を栗本鋤雲の創作とする説
  
 小栗上野介が「土蔵付き売家の栄誉」と語ったと書いた栗本鋤雲の文章は疑わしい、栗本鋤雲の創作だろうという説が発表されました。その説によると、
          

 「小栗上野介が3年半後の幕府瓦解を予見する「土蔵付き売家」というセリフを口にするのは疑わしい」
として

 「栗本鋤雲は、非業の死を遂げた小栗上野介をいたんで花を持たせるべく事実を並べ替え、創作を挟んだに違いない」(安達裕之「横須賀造船所と小栗忠順」『小栗忠順のすべて』P122・新人物往来社・2008平成20年刊)

というもので、小栗上野介のそのような先見性は考えられない、という先入観を前提とするもの。この説がそのまま受け入れられれば、それを前提として安達氏が次のように言うのも受け入れることになる。

 「(小栗上野介は1864元治元年)八月十三日の勘定奉行就任後、初めて製鉄所の設立計画が進行中であることを知ったはずである」(『同 書』P136)

 はたして小栗上野介にそのような先見性はない、だから横須賀製鉄所の建設を提案したのは小栗上野介以外の人物である、といえるのだろうか。
 もう少し詳しく検討したい方は次のページを参照してください。

  →→小栗上野介の言葉「幕府の運命、日本の運命・土蔵付売り据え」 

【このページでは島田三郎が明治28年の講演で、小栗上野介の言葉を思い出して紹介しています。小栗上野介はその時「土蔵付売り据え」という言葉で横須賀造船所の建設を主張しています。栗本鋤雲の創作説をとる人は、この島田三郎の証言も創作だ、と立証する責任があります。】
  

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