小栗上野介随想(東善寺) ●● 童門冬二著『小説小栗上野介』を読む |
童門冬二著『小説小栗上野介』を読む 構造改革を仕掛けた男 村上 泰賢 |
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小栗上野介を通して幕末・維新前後の歴史を見ると、たしかに歴史は勝者の側に都合よく伝えられているとわかる。 |
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たとえば、「海なし県」群馬の私どもの山寺に、帆船模型があるのを不思議に思う人が多い。小栗上野介ら遣米使節一行をサンフランシスコ経由、パナマまで運んだ米国軍艦ポウハタン号である。明治以来ほとんどの日本人は、咸臨丸の勝海舟が使節だと誤解していて、正式な使節も、乗艦名も教わらないから「ポウハタン号で渡米……」と説明しても、山寺の坊主を疑わしそうに見るので、模型が必要と痛感して、製作した。
このとき批准した日米修好通商条約は不平等条約で、明治政府はその改正に苦労したという幕府政治否定教育の一環で、国威発揚には使節より咸臨丸がいいと焦点をずらせた意図がうかがえる。 |
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さらに最近、北信州小布施の豪農商高井鴻山が「小栗上野介の示唆を受けて新潟に船会社を興し、地域の物産振興を図る」ことを松代藩に提案していることを知った。残念ながら兵庫商社はまもなく維新で解散し、小布施の船会社も計画で終り、小栗と高井鴻山のつながりを、北斎の鳳凰の天井絵で知られる岩松院境内の「高井鴻山頌徳碑」でわずかにしのべるだけである。
ところが日本最初の本格的ホテル「築地ホテル」も、やはり小栗の指導で「幕府が土地を提供し、民間資本でホテル組合を作り、完成したら運営の利益は出資者で分配してよい」という、いまのPFI法案を先取りした株式会社の手法により、清水建設の二代目清水喜助が建設し経営していたことがわかった。慶応三年に着工して慶応四年に完成。和洋折衷の総二階建て、部屋数一〇二室、水洗トイレ、シャワー、バー、ビリヤード室に三層の展望台が外国人に評判となった。小栗に関連した三つめの株式会社である。 |
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横須賀造船所の建設を推進したのも小栗であるが、ワシントン海軍造船所の見学がヒントとなっている。 米国で使節一行は、鉄がふんだんに使われているのに驚き、ホテルの外柵、橋や欄干まで鉄で…、と日記に書く。欧米先進国に追いつくために何から手をつけたらいいか模索していた小栗にとって、製鉄を基礎として、造船だけでなくあらゆる鉄製品を生み出す総合的重工業の施設見学は「小栗は米国の文明の利器を日本に導入することに大賛成だといわれている」(NYタイムズ)と報道されるほどのもので、この施設から日本を「木の国から鉄の国へ構造改革できる」と確信し、帰国五年後に建設着工にこぎつけた。ボルト一本も日本製がない時代に日本の近代化の主役を担った造船所は、いまも米軍横須賀基地としてそのまま稼動している。 だからといって米軍基地やかつての軍港都市だけで横須賀を見るべきではない。ここから流れ出た技術や産業がどれほどの枝葉となっているかを検証すると、たしかに「日本の重工学のいっさいの源泉」(司馬遼太郎『三浦半島記』)だったのだ。その日本近代化のレールを敷いた人物は、自己宣伝も言訳もせず黙々と当事者責任を果たし、西軍に無実の罪で殺され歴史から抹殺され、逆賊扱いすら受けてきた。 彼の死後一三〇余年経ち、近年群馬や横須賀でシンポジウムや企画展示による小栗の再評価がされ、来年のNHK正月時代劇でのドラマ放映も予定されている。 |
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神奈川・上毛両新聞に連載された、童門冬二氏の『小説小栗上野介』で小栗の実像に魅了された読者は、本書の刊行を待ちかねている。いま生きているがごとく登場人物がいきいきと描写される童門ワールドではとくに小栗の家族像が温かい。そして「江戸の町づくりで形成された江戸っ子気質の原型は、じつは上州気質そのままで、混濁した世の中で人間としての潔さと誠意を貫いた小栗の生き方に通じる」となると、小栗夫人道子・母堂邦子・養女鉞子らを護って会津へ逃れ、会津戦争に加担して若者二人が戦死してまでも守り抜いた権田村民の無償の行動には、たしかにうなずけるものがあり、誇りに思えてくるのである。 (「青春と読書」誌2002平成14年12月号集英社) |
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■横須賀明細一覧図を読む…図から読み取れる産業革命の地横須賀 |
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