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横須賀製鉄所(造船所) 
三つの特徴
横須賀造船所(明治四年まで製鉄所と言った)の特徴として次の三つをあげておこう
1,何でも造る総合工場  だった
2,
慶応年間から蒸気機関による工業生産  をしていた
3,
教育機関で人づくり   をしていた
 
以上を総合して考えると、
横須賀製鉄所は日本産業革命の地と言えよう。

*工業史を研究している学者がこのことをなぜ言わないのか、不思議である。米軍基地内だから世界遺産にできないという言い訳は別として、世界遺産になろうがなるまいが「日本産業革命の地」であることは変わらないのに―。

1,何でも造る総合工場
 造船所は船だけ造るところではない、以下のように何でも造らなければ船は完成しない。造船所とは「船」造る所だった。
 横須賀製鉄所では蒸気機関、大炮、銃、砲弾や弾丸、鍋・釜・スプーンフォークからドアノブまであらゆる鉄製品のほか、船を造るためのたくさんの工業製品を造っていた。

例えば:、製帆所ー蒸気船が主流になりつつある幕末だが、蒸気船でもふだんは石炭を節約して風で航海していた(機帆船という)から、製帆所で帆布を織って、切って、縫って、帆を製作していた。

例えば、製綱所ー帆を開いたり閉じたりするロープを製綱所で造っていた。右の写真の長い建物が製綱所(ロープ工場)である。

例えば木工所ー当時は黒船といっても船体は木造だったから、構内の木工所で材木をアク抜きし、乾かして加工し船体、船室、床、天井、壁、階段などすべて木で作っていた。

もちろん鉄工所が構内の主流だった。蒸気機関を造るだけでなく、構造・機能・効率が研究され、船体工学と合わせて船舶工学が当時最高の工学の位置を占めていた。

 ほかにネジはもちろん、あらゆる工具・部品・工業製品をここで造って「船も造った」から、造船所の周辺に下請け工場がない。下請けの必要がなかったのだ。

以上の作業の原動力はすべて蒸気機関を用いていた。


▲製帆所・鉄工所    ▼製綱所
 
2,慶応年間から蒸気機関による工業生産
 
 慶応元年1865に横須賀製鉄所の建設が始まった。構内のどの工場も完成すればすぐにそれぞれの蒸気機関を稼働して部品の生産を行ったから、慶応年間にはたくさんの工場が生産体制に入っている。

 従来の日本の工業の原動力は、人力ー牛馬ー水車の力までだった。横須賀には大きな川がないから水力をアテにしていない、造船所ははじめから蒸気機関を原動力として設計されていたので「蒸気機関を原動力とする日本最初の総合工場」と言える。司馬遼太郎が「かつてここは日本の近代工学のいっさいの源泉であった」(「三浦半島記」)と書くゆえんである。

 学校で「蒸気機関の使用から産業革命が始まった」と教えながら、横須賀製鉄所の史実を無視して教科書で「日本近代化の例」として富岡製糸場から教えているのは不思議でならない。

 2015平成27年に「明治日本の産業革命遺産ー製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業ー」として世界遺産となった施設を見ると、蒸気機関の使用は小菅修船場跡1868明治元年だけで、その他の蒸気機関を用いている施設はほとんどが明治30~40年代。その他は原動力が水力であり、大阪山たたら製鉄遺跡(山口県萩市)のごとき足踏みフイゴを原動力とする施設さえ入っている。「努力遺産」としては認められようがこの程度のものがどうして産業革命遺産に入るのだろう。

 ▲製綱所(ロープ工場) どの工場も工場ごとの小型の蒸気機関で生産をしていた。ここが日本最初の近代ロープ製造の地である。
3,教育機関で人づくり
 モノづくりの原点は人づくり。正確な作業が継続して行われることが必要である。横須賀には慶応年間から職工・技師を育てる学校「黌舎」が設置され、明治初年には更に高度な造船工学を学ぶ「海軍機関学校」が設けられた。
 フランス人技師長ヴェルニーがいずれ日本人だけで運営できるよう計らった措置が基点となっている。誠意と熱意を持って製鉄所建設にあたったフランス人たちの志の高さが最も感じられる施設がこの黌舎と機関学校であろう。結果論になるが、フランスに建設指導を仰いだことは正解だった。ちなみに、生野銀山の近代化を指導したフランス人技師コワニエも生野に鉱山学校を開設して若者の育成を図っている。
 
      黌舎  
 「黌舎・こうしゃ」と呼ばれる職工学校を設け優秀な職工や技師を育てて現場に送った。慶応2年開校で授業料は無料、小遣いまで支給された。初めは近在農漁村の子弟中心だったが、卒業すれば間違いなく造船所で雇ってもらえ、家族を養えるほどの給料をもらえることから人気が高まり、全国から優秀な若者が殺到するようになった。後にはここに入るための予備校までできたという。
 
 定員60名。フランス語、数学、物理、船舶工学を学び大学理工学部または高等工業専門学校卒業程度の知識と技術を身に着けた若者が、優秀な職工や技術者となって巣立っていった。高等技術者と職工を同じ場所で育成したのは珍しい方式といわれる。

 例えば辰巳一少年は石川県金沢から歩いて横須賀の黌舎に入学、努力の末フランスに留学派遣されるまでの力をつけ後に造船大監となった。

 すべての建設作業、製造作業がフランス式にメートル法で行われ、日本人がそれに慣れていったことは、画期的なことと言えよう。
  
 

      機関学校
  黌舎より上級クラスの学校として「機関学校」を設けて船の設計もできる幹部養成を図った。
 明治初年に開校。やはり授業料は無料、小遣いまでもらえたので、全国から優秀な若者が集まり、最高の船舶工学を学び船の設計までできる技術将校が育成された。

 東京大学工学部学生はここで学んで現場実習をしないと卒業単位が認められなかった。
 芥川龍之介はここで英語を教え、中島知久平(群馬県尾島村)はこの機関学校を卒業して海軍技術将校となり、のちに中島飛行機(戦後の財閥解体で、いまスバル自動車・群馬県太田市や、マキタ・沼津市など)を興した。
 
 
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