小栗上野介の造船所 (東善寺)      勝海舟の海軍500年説
勝海舟の海軍500年説
『海舟日記』の信憑性ゆらぐ
                しんぴょうせい

海軍500年説 

 勝海舟は『海舟日記』の中で次のように書いています。

「文久二年八月二十日、閣老以下が列座する将軍様の前で軍艦は数年で造れるが、海軍を運用する人材育成に(イギリスの例では300年かかっている。日本では)500年かかるから、まずそれを先にすべきと申し上げた」 (意訳:『勝海舟全集』18より)

勝海舟の「海軍500年説」といわれるもので、こういう言い方で遠回しに小栗上野介の造船所建設提案に反対したことで知られています。

鉄の国への構造改革 

小栗上野介が造りたかったのは、船だけ造る造船所ではない。あらゆる工業製品を産み出す総合工場としての造船所で、それが日本の国の形を「木の国」から「鉄の国」へ構造改革することにつながると考えていました。そのモデルがワシントンの海軍造船所で、見学のあとアメリカ土産にたくさんのネジくぎを持ち帰って周囲に配ったのも、それが珍しいからではなく「こういうものをどんどん造れる国にしたい」という意味でした。

「日本の近代工学のいっさいの源泉」(司馬遼太郎『街道を行くー三浦半島記』)となった横須賀造船所

将軍の出座はなし

ところで、勝海舟が海軍500年説で造船所建設に反対したという日の「文久二年八月二十日」について調べた横須賀市自然人文博物館学芸員の安池尋幸氏は、この日の記事は信頼しがたいと発表しています(『同 博物館報』482004)。
 たとえば、そういう場合とうぜん列座するはずの老中水野忠精の日記ではその日将軍家茂の出座はなく、閣老も召し出されていない。「その他の日は将軍の動静についてこまかに記している現任老中の日記に、その日閣老以下誰も召出された様子がない事実は、海舟日記自体が誤記である証拠」と述べている。

日記の虚構

 日記の記事が誤記となると、書かれている「海軍500年説」は勝海舟の意見ではないのか、やはり彼の意見なのか、疑問になるところ。明治の元勲と呼ばれる人たちが残した日記が幕末維新当時の貴重な史料としてよく引用されますが、「いま自分は歴史の大事な仕事をしていて、自分の日記はのちに公開されるだろう」と自負し、誇張や自己主張、自己弁護を交えて書かれているものがある、といわれます。

 とかく演説が多い『海舟日記』にもそういう作為が施されているとしたら、じゅうぶん注意して読む必要があります。


                     2005(平成17)年10月


勝海舟の虚言 

 多くの歴史書に引用される勝海舟『氷川清話』は高齢になってからの放言録で自慢話がちりばめられ、史実との食い違いがたくさんある。

たとえば、

◆「万延年間におれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借りないで、亜米利加へ行ったのは・・・」(同『氷川清話』・日本海軍の基礎) 

おれが・・・自分が咸臨丸の中心と思わせる言い方だが、咸臨丸の責任者は海軍奉行木村摂津守で、勝海舟は木村に頼んで加えてもらった。ところが艦長ではなく「教授方取扱」という船の操縦コーチ主任程度の役名しかもらえなかったので、不満だらけであった。
木村の談話:
「咸臨丸の艦長にするのでも(勝海舟が)どうか行きたいということですから、お前さんが行ってくれればというので、私から計ったのですが、なにぶん身分を上げる事もせず、まだあの頃は切迫していないものですから、そう格式を破るという具合にゆかないので、それが第一不平で、八つ当たりです。
 始終部屋にばかし引っ込んでるのですが、艦長のことですから、相談しないわけにも行かず、相談すると「どうでもしろ」という調子で、それからまた色々反対もされるので、実に困りました。はなはだしいのは、太平洋の真ん中で、おれはこれから帰るから、バッテーラ(ボート)を卸(おろ)してくれなどど、水夫に命じたくらいです。それで゙福沢の伝にあるように、ただ船に酔ったというのではない、つまり不平だったのです。」(土居良三『軍艦奉行木村攝津守』中公新書)
 温厚な木村が談話の中で二度も「困った」と語るのは、本当に手を焼いたのだろう。

外国人の手は少しも借りないで・・・咸臨丸に同乗していたブルック大尉以下11名の米人の手によって嵐の北太平洋を乗り切ることが出来た。そのとき勝海舟は船酔いで寝たきりだったから、これはまったくのハッタリ発言。

◆「日本人が独りで軍艦に乗ってここへ来たのはこれが初めてだといって、アメリカの貴紳らもたいそうほめて・・・」(同『氷川清話』・咸臨丸で渡米

独りで・・・上記参照。他人(ここではアメリカの貴紳)の口を借りて(自分の責任を逃れて)ハッタリをそのまま流している。

◆「小栗や栗本などが仏蘭西へ制度視察のために派遣せられる時など・・・」(同『氷川清話』・向山黄村)
仏蘭西へ…小栗はフランスへ行っていない。

◆「おれは機転をきかして一同を築地のホテルへ連れて来て、酒肴料を千両くれてやった」(同『氷川清話』・三国干渉くらい朝飯前)
築地ホテル…は慶応三年八月着工〜四年八月完成だから、この話の慶応三年四,五月頃はまだ着工もしていない。

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