小栗上野介の言葉       幕府の運命、日本の運命

小栗上野介の言葉 3
 栗本鋤雲が伝えた  島田三郎が伝えた 渋沢栄一が伝えた

「幕府の運命に限りがあるとも、
  日本の運命には限りがない」
         ―幕府は終わっても、日本は続くーと語った小栗上野介

 土蔵付き売据え
幕末にある幕臣が「幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもそれが出来上がる時分には幕府はどうなっているかわからない」と言ったのに対して、小栗上野介が語った言葉。

ハクモクレンと小栗上野介胸像

 小栗はさらに様子を改めて、
「私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、結局日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据え(売家)にしても土蔵付売据の方がよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と語った。
(島田三郎「懐舊談」・『同方会報告』明治28年6月・第1号・17P/のち1977昭和52年立体社より復刻)

小栗上野介研究家の大坪指方はこの幕臣を鈴木兵庫頭(重嶺・佐渡奉行・歌人)としている。(『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会発行・昭和50年)

 土蔵付売家 
小栗上野介の言葉としては、横須賀造船所が出来上がれば、いずれ「土蔵つき売家」の栄誉が残せる、と栗本鋤雲に語った言葉が知られている。(栗本鋤雲『匏庵遺稿』)

 しかし、学者や作家の中には「これは早くに殺されてしまった小栗上野介を悼んで栗本鋤雲が創作した言葉だろう」「幕府崩壊の4年前にそれを予見する先見性はないだろう」とするむきもあった。

 だが、この島田三郎の談話で紹介された「幕府の運命、日本の運命…」「土蔵付売り据」という言葉には、とても後世の創作と言えない臨場感があり、「土蔵付き売家」と合わせると、小栗上野介の心情が痛いほどよく出ている。
   真の武士の言葉といえよう。
島田三郎・(国立国会図書館)
    < 原 文 >
・・・大抵の軍艦が横須賀で出来るのも是も幕府の末に計画したのが発達したのである。是について感ずべき話もある。幕府の亡びたのは専制に対する反動が其一原因であるけれども太平の世に冗費が殖えて臨時に応ずることができないときに突然外交が起きたのである。この繁忙の際に当たって造船所を取立てるなどは随分金のいったことであった。当時これを主張したるものは小栗上野君であった。此の人は勘定奉行で財政の権を握って非常に倹約をして当時の俗吏に悪く言われたけれども、全体英邁の人であった、今健在している栗本鋤雲翁も当時安芸守と云って小栗の片腕であった。翁は早くから洋学もし、洋行もした人である。此の人に造船の事を託して横須賀に造船所を造った。
 
然るに或人が幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもその成功する時分には幕府はどうなるか分からないと云ったら、小栗君は容を改めて之に答えた。幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない我は幕府の臣であるから幕府の為に盡くす身分ではあるけれども、結局日本のためであって幕府のしたことが長く日本の為となって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据にしても土蔵付売据の方がよい。跡は野となれ山となれと云って退散するのは宜しくない。と云ったが誠に其通りであって…
   (島田三郎「懐舊談」・『同方会報告』明治28年6月・第1号・17P/1977昭和52年立体社より復刻)

*「売り据え」…建築物を造作(建具・家具など)付きでそっくり売ること。いま「居抜き」という。

この言葉のやり取りから推測できること

1、幕末期には、徳川幕府の国家経営はすでに組織と運営が行き詰まり、欧米への開国による新しい国家経営戦略を展開しようにも幕府の政治体制に限界があって、このまま長続きさせることはできない、という共通認識が幕臣の間にあった。

2、そういう認識のもとに、「○年後には幕府がどうなっているか分からない」といった会話が普通に交わされ、それを「不忠である」などと非難する雰囲気がなかったこと。何が何でも幕府を存続させる、という認識ではなかった、ということがわかる.

3,この言葉の背景に、「いずれ政権交代はある」とする、政治権力を絶対視しない儒学・陽明学がある。

 補助史料   『青淵先生演説及談話』より
    渋沢栄一の談話の一節

 
【渋沢栄一は慶応3年徳川昭武に随行してパリ万博へ出かける前に、たまたま横浜で小栗上野介に会い挨拶した】

渋沢「今度民部様(昭武)御渡仏に付きまして、主として会計、俗事の係を仰付けられました渋沢篤太夫で御座います。将来共よろしく御願申上げます。民部様の目前の御用は仏蘭西大博覧会に御列席なさるといふ事で御座いますが、之が済みますと大約五年の御予定で御留学の筈で御座います。其間の事に付て彼是心配致して居りますが、最も心にかかるのは会計の事で御座います。其辺の事は申す迄も御座いませぬがよろしく御指導御高配願ひます」

小栗「いや鄭重の御挨拶で痛み入る。然し一体足下は五年も後のことを心配する柄でもあるまい。第一足下は討幕を企てた程の男ではないか、そんなことを心配するのは可笑おかしい」

 突然で流石の(渋沢)子爵も聊いささか面食らったが、何食わぬ顔で
渋沢「然しそれは昔の話で御座います」

小栗「左様昔には相違ないが、未だものの1年か2年しか経過して居らぬではないか…」
鋭鋒は隙すかさず迫る。
渋沢「では御座いますが、只今では左様も考へて居りませぬ」
何所までも子爵が生真面目で居るので小栗も追及の鋒をおさめた。

小栗「いやそれは戯談である。兎に角今度の民部様御奮発は眞に結構の事である。自分も衷心より喜んで居る。足下の事も承知致し居る。足下の如き為すあるの士が御補佐申上げることは重畳ちょうじょう至極と思はれる。何卒十分御精励あるやう希望する。会計のことに付ては5年は愚か三年でも二年でも将来のことは全然分らぬが、然し病に倒れるか、身を退くかすれば分らぬこと、苟いやしくも不肖小栗が職に在る間は決して心配はかけぬから安心して行くがよい。然し呉々も幕府が何時いつ如何どうになるかは全然分らぬから―此点は敢て小栗が斯く憂慮するばかりでなく、皆人の斉ひとしく感ずる所であるが―或は生きて再び民部様御健勝の御様子を拝することは出来ぬかも知れぬが、其時は其時で如何にかならう。決して心配することはいらぬ。然し幕府の運命に付ての覚悟だけは聢しっかりきめて置くことが必要であらう」

 斯くて袂を分ったのが、小栗の斯言悲しくも事実となって一年ならずして彼の如き悲惨極まる末路を見たのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下略……………

 昭和5年3月7日 飛鳥山邸に病後の子爵を訪ひ閑談中に聞き得たる所を
                                   ―白石喜太郎憶記―
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