| 小栗上野介の業績●●中小坂鉱山の開発 |
中小坂鉄山
(なかおさか てつざん)
中小坂鉄山 (群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)
| 日本における製鉄は古来から砂鉄を原料としたタタラ製鉄でした。これは大量生産には向いていません。 ◇小栗上野介らがアメリカで見た日本との違いは、「鉄の国アメリカ」と「木の国日本」の違い。たとえば・・・町外れに捨てられた鉄製品を誰も拾わない/泊まったホテルの垣根が鉄でできている!/ワシントンの川にかかっている橋は鉄で、欄干も鉄。そういう橋があと4つ上流下流に見える!・・・と遣米使節一行の日記にあります。 横須賀造船所の名称は、「横須賀製鉄所」から始まって「横須賀造船所」そして「横須賀海軍工廠」と替わっている。製鉄所から始まったことは、まず鉄を基本とすることが認識されていたことを物語っている。 ◇鉄鉱石を原料とする近代的製鉄が行われたのが中小坂製鉄所です。良質な磁鉄鉱と周囲から得られる豊富な木炭を燃料として,明治期に入ると本格的な操業が行われました。 <幕末> ・幕末の弘化嘉永頃から採掘が始まった。 ・水戸藩では安政元年(1854)に反射炉を築造し、原料鉄として中小坂の鉄鉱石が運ばれた。 ・元治元年(1864)、小栗上野介は中小坂に溶鉱炉を建造する建議を行った。幕府から武田斐三郎、山崎代之進らが派遣されて検分の結果、「ここには岩鉄が露出、品位は良好、同所へ溶鉱炉を建造」と、報告している。
<明治以後> ・民間経営の時代・・・明治3年(1870)から本格的に採掘操業する者が現われ、明治7年に三条家の家令丹羽正庸は由利公正、三浦安らの経営参加を得、英人技師を雇って高炉、蒸気機関、熱風炉などを完成、スウェーデン人技師の技術指導で、トロッコによる水平移動により高炉炉頂へ運ぶ方式が取られた。 ・わが国最初の蒸気機関による熱風送風による木炭高炉の操業、として唯一最大の製鉄所であった。 また高炉のほかに錬鉄炉、裁鉄、鍛鉄、銑鉄鋳造設備もそなえ、銑鋼一貫作業の形態をとっていたことも、わが国の製鉄史上特筆すべきことであった。 ・しかし採算がとれず人手に渡り、明治9年、由利公正が引き継いだが、輸入製品との価格競争があってやはり収支採算が取れず、明治11年官営となる。 ・政府経営の時代・・・明治11年官営製鉄所となったのちもやはり採算が取れない。高炉の耐火煉瓦が溶解、破損を繰り返ししばしば作業中断という状態であった。操業・故障を繰り返して14年4月まで約1年9ヶ月に操業日数合計250日、銑鉄合計85トンだった。 ・明治15年、ついに廃業が決定。再び民間所有となり、経営者が何人か交替するも採算が取れず、明治41年に生産中止、大正7年に設備がすべて撤去された。 ・昭和10年代に再び採掘が行われたが、戦争終結で閉鎖となった。
『陸軍歴史』 「中小坂鉄山研究上における問題点」一倉喜好…『双文』1〜3号・群馬県立文書館発行 『近代遺跡調査報告書ー鉱山ー』文化庁文化財部記念物課・平成14年発行 『幕末明治製鉄論』大橋周治・アグネ・1991年2月刊 |
| 小坂村の特殊産業 製 鉄 業 (明治43年『小坂村郷土誌料』より) 上物…1トン 60円より70円 中物…1トン 50円より60円 下物…1トン 30円より40円 1、鉱石を粉砕するために元焼をする 2、元焼した鉱石の大塊をコブシ大に砕く 3、粉砕機にかけて五分四方大に粉砕 4、炉に入れ、硫黄などガス化する部分を除く 5、溶鉱炉に燃料(木炭)・石灰・鉱石の順に積み入れ、送風機で空気を入れながら熱する 6、残滓(ざんさい)は上部に、溶鉄は下部に集まるので、下部の穴から溶鉄を砂の型に取り出し、冷やす 銑鉄・・・こうして鉱石から鋳出したもの 鋳鉄・・・銑鉄を溶解して残滓を除いたもの。〈鋳物に〉 鍛鉄・・・鋳鉄から炭素の大部分を除いたもの。〈針金などに〉 鋼鉄・・・鍛鉄に適度の炭素を含ませたもの。〈刃物、機械器具、その他一般工業用〉 海軍省(上物) 高崎製鉄造所(中物) 東京鉄管製造所(中物) *海軍省とは横須賀製鉄所へ運んだ、ということ。ただし横須賀の初期の鉄はほとんど輸入物が加工されたという。 |
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