HP東善寺>遣米使節  ●        サンフランシスコの遣米使節


  

  古い絵図(1854年)で見る 
遣米使節(1860年)
当時のサンフランシスコ
  
サンフランシスコ絵図 1854      東善寺蔵
   サンフランシスコの遣米使節 (9日間滞在)  漢数字は和暦

三月八日(3月28日・水) 
サンフランシスコ ヴァレホ埠頭の手前で停止。寄港せず咸臨丸を修理しているサンフランシスコ湾北北東のメーア島米国海軍造船所へ行く。
          咸臨丸一行に再会し感激の対面、そのまま滞在。

三月 十日(3月31日・土) 三使らはサンフランシスコ市街へ蒸気船「アクティヴ号」で行き、インターナショナルホテルに泊る
三月十一日(4月1日・日) サンフランシスコ滞在 
三月十二日(4月2日・月) 英・仏・露領事と面会 市役所へ行き幹部に挨拶、音楽学校で外国領事も列席の歓迎昼食会ののち、メーア島へ戻る
三月十五日(4月5日・木) 咸臨丸の修理にまだ時間がかかることと、米国の航海事情もわかってきたので、咸臨丸はパナマまで予定していた護衛を取りやめることとなる。ポウハタン号はまだ修理中の咸臨丸一行と別れ、メーア島からサンフランシスコへ移動。
三月十六日(4月6日・金) サンフランシスコ滞在

月十七日(4月7日・土) 夕方サンフランシスコ発 
(江戸では幕府が三月十八日萬延元年に改元) (18日間航海)

閏三月四日(4月24日・火) パナマ着(滞在なし・パナマ鉄道で大西洋側アスペンウォールへ)  
    下の絵図は1854年のサンフランシスコ  
遣米使節が着いた6年後の1860年にはもう少し発展していたろう。
     
 1図  2図  3図
  絵図の下部にある主な場所建物など 
 10 セントラルワーフ(中央埠頭) は2図の右端・3図では中央の波止場。
 
ポウハタン号はヴァレホ埠頭(いま9番埠頭)の手前で錨を下した。この埠頭は、この図の後に中央埠頭よりも西(左)に新しく造られたらしい。

 12日前に着いた咸臨丸は修理のためメーア島の海軍造船所に滞在していることがわかり、昼過ぎにポウハタン号はヴァレホ埠頭に着岸せず錨を挙げて、1、ノースベイの左奥に向かって進んだ。日本人一行を見ようとヴァレホ埠頭に集まったたくさんの市民はそのまま置き去りになった。 
 絵図につけた番号が細かすぎて照合困難
  
                         サンフランシスコ入港の様子

 万延元年(1860)三月八日(3月28日水)、ポウハタン号は朝を待って八時に海門に入りました。海門からそのまま進んで行くと広いサンフランシスコ湾が左右に広がります。南の海門の崖下に、海に面してレンガ造りのがっしりした砲台が見えます。

 
 艦首に日の丸を掲げたポウハタン号がサンフランシスコ湾に近づくと、水先案内船がやってきて案内人が乗り込みます。やはりポウハタン号に気づいた巡視船が到着を祝して歓迎の祝砲を11発放ちます。ポウハタン号が答礼砲を放つと、碇泊中の米国軍艦をはじめ英仏ロシアなどの艦船も気づいて歓迎の日の丸を掲げ祝砲を放ちました。港内はたちまち轟く砲声と立ち込める砲煙に包まれ、煙が晴れると日本からの遣米使節の到着を知った男女市民が、一目日本人を見ようと黒山のようにヴァレホ埠頭に詰め掛けていました。

 *日付変更・・・通詞の名村五八郎以外は日付変更線で(東へ向かう場合は)同日を繰り返す変更をしていないので、多くの日記で「三月日サンフランシスコ到着」と記述している。

  
▲サンフランシスコ図   小栗忠順従者佐藤藤七『渡海日記』より
     
サンフランシスコ港   
      小栗忠順従者木村鉄太『航米記』
ヒャクリメント河眺望   『渡海日記』  メールスアイランド(メーア島) 『渡海日記』
左咸臨丸 右ポウハタン号  手前がヴァレホ
     
砲台 当時はまだなかったブリッジの下に、ポウハタン号到着を歓迎して祝砲を放った砲台が保存されている。  
遣米使節  メーア島に滞在
メーア島の海軍造船所施設は廃止となり、たくさんの工場やドックなどがそのまま残され、わずかに記念館に人の気配があるのみとなっている。
     
 ▲記念館内部 米海軍最後の機帆軍艦としてポウハタン号の模型もある ▲カニンガム提督  記念館  ▲造船所建物
     
  メーア島海軍造船所跡 先に着いた咸臨丸はサンフランシスコ湾の奥のメーア島で嵐で傷んだ船体修理を行っていた。ポウハタン号もここへやってきて感激の再会を果たし、そのままここに滞泊。歓迎行事などは迎えのボートでSFへ出かけた。当時はこのような掘り込み式のドックはなく、大きな浮きドックが日本人一行に目撃されている。
 今は米海軍がサンディエゴに移転撤退し、人けのない場所となっていてどこに停泊していたのか訊ねようもない。
 
サンフランシスコ
     
 ▲当時の市庁舎  ▲サンフランシスコ街      『航米記』  ▲サンフランシスコ       『渡海日記』
     
 ピア9(9番埠頭) ポウハタン号はこの埠頭の先について咸臨丸を探し、メーア島にいるとわかって着岸しないで、錨を揚げ、メーア島へ向かった。いまは屋根付の埠頭だった。 ヴァレホ通りから見たピア9(ヴァレホ埠頭) valejo st.の坂の上から眼の下に9番埠頭のゲートが見える。かつては桟橋が直接見え、その先に停泊したポウハタン号に周囲のたくさんの船が祝砲を撃ったから、砲煙とすごい音に包まれたはずだ。  中華街の公園 
たくさんの中国人が幾組も固まってトランプなどの賭けごとに夢中になっている 
     
   オールドタウン ところどころに往時をしのばせるようなレンガ造りの建物があって、地域全体に落ち着いた歴史を漂わせている。いま西海岸の表玄関はロサンゼルスに移り、港町サンフランシスコは歴史と観光の町の感がある。横浜に似て町のあちこちで歴史的な建物や由緒・風格ある建物にぶつかり、歩いていて楽しい。 
 

  

  見つかった! 遣米使節団の歓迎会場
 
タッカー音楽学校跡地

遣米使節団は咸臨丸一行も含めてサンフランシスコ湾の北のメーア島に滞在していて、
用事があるとサンフランシスコの街へ蒸気船(ボート)で出かけて来ていた。
このほど、市主催の歓迎会が行われたタッカー音楽学校跡地が最近特定された。

資料提供:椎名映夫氏(SF在住)
2012平成24年6月
     
    タッカー音楽学校跡地   
「現在オフィスビルとなっており保険会社の事務所があります。福沢諭吉がサンフランシスコの女性と一緒に写真をとった写真館の隣でした」
という報告をサンフランシスコ在住の椎名氏が送ってくれました。
 咸臨丸水夫の墓
     
  咸臨丸水夫の墓 サンフランシスコの南のコルマ・地域全体が墓地で「墓の街」。その一角イタリア人墓地の隣が「日本人墓地」で、入るとすぐに水夫3人の墓があった。咸臨丸滞泊中に二人死亡、帰国に際し看病人も含めて10人が病院に残り、一人死亡して、計3人がここに葬られている。
  サンフランシスコでのあわただしい見学と講演を終え、市内ガイドをしてくれた椎名氏、カナダへ帰る弟と別れ、ロサンゼルスへ向かった。
ロサンゼルス編はこちらをクリック→講演の旅―2ロサンゼルス(画像)
  
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JEWL・Japanese Executive Women's Legue…ロスでの講演主催団体(リンク)
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YOSHI's ジャズクラブとレストラン…東の「ブルーノート」に匹敵する、アメリカ西海岸有数のジャズクラブとして知られ、レストランもおいしい料理を食べられる。ヨシさんのご招待で、たっぷり聴かせていただいた。OAKLANDにも元の店がある。

「アメリカ・カリフォルニアで講演」
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大統領の記念メダル:使節と従者全員に金・銀・銅のメダルが贈られた
世界一周をした名主・佐藤藤七:権田村名主が従者として世界一周
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遣米使節の業績・・・1本のネジくぎを持ち帰った小栗
遣米使節三船…咸臨丸ではない
リーフレット『遣米使節三船』・・・教科書から咸臨丸をはずすため
「ポウハタン号の町・伊豆下田」
遣米使節一行一覧表(リンク)