| 小栗上野介の顕彰●●小栗上野介の顕彰活動 |
| 小栗上野介の顕彰活動 |
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| 小栗上野介の顕彰活動は、権田の村人が小栗道子夫人らの会津脱出を護衛し、無事に守り通したことに始まる。その後のお墓建立、お首級(くび)迎え、明治から続いた墓前供養、顕彰慰霊碑建立、胸像建立や、現在の小栗まつりなどはその延長線上の顕彰事業といえます。 |
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顕彰の始まり 会津脱出行の護衛 小栗上野介は殺される3日前、形勢不穏を感じて権田村中島三左衛門ら村人に、家族を会津へ避難させることを託した。道子夫人・母堂邦子・養女鉞子(よきこ)らは30名ほどの村人に護られ、権田ー吾妻郡坂上村ー六合(くに)村ー地蔵峠ー秋山郷ー十日町ー新潟、と千辛万苦の苦難の旅を続け、ようやく会津若松に入った。道子は会津戦争さなかに女児を出産し、クニと名づけた。敗戦の翌明治2年早春に会津を発ち、東京ー静岡まで送り届けて村人は、村へ戻った。戻ったとき「乞食同然の姿だった」と言い伝える。これが、権田村の小栗上野介顕彰の始まりである。 |
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| ヤマニ(中央の家) 道子夫人らは三日滞在して、旅支度を整え秋山郷への山道に分け入った |
小栗清水 野反池(いま湖)の手前で飲んだ清水が、大事に保存されている |
小栗清水 近年、六合村のボランティアによってきれいに整備された |
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| 野反湖 昔は湿地帯の池だった。右手の山に入って秋山郷へ向かった |
トウゴクミツバ きれいな山ツツジを楽しむゆとりもなく、道子夫人らは急いだことだろう |
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会津戦争で二人戦死 |
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小栗忠高の墓 新潟市法音寺に上野介の父忠高の墓があり、道子夫人らはお参りした後、新潟に迫った西軍に追われるように会津へ急いだ。 大正2年9月に大隈重信夫妻(左)が墓参した。大隈綾子夫人が上野介の従兄妹に当たる縁である。 |
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| 熊倉(喜多方市)の墓地 東側正面の桜の下に佐藤銀十郎の墓石がある はるかに残雪の飯豊連峰を望むきれいなところ |
佐藤銀十郎の墓 喜多方市熊倉の戦いで戦死し、熊倉に墓がある 正面:佐藤銀十郎信一墓 右:本国上野(こうづけ・群馬県) |
会津で 小栗上野介展と講演会 ◆2005(平成17)年8月17日〜21日 ◆会津若松市文化センターホール ◆講演 17日午後6時30分〜 |
| お首級(くび)迎え
会津から戻った中島三左衛門らは、小栗上野介父子の首級が館林へ運ばれ首実検の後埋められたままになっているのを奪い返しに行く。法輪寺境内から盗み出し、東善寺裏山の胴体と一緒にした。これを「お首級(くび)迎え」と言い伝える。 |
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小栗まつり <明治以後 > 権田の村人は小栗主従が殺された明治以後、墓を立て、毎年の供養を続けてきた。 <戦 前> 大正6年 小栗上野介50年祭 <戦 後j> 昭和22年 小栗上州公80年祭 <近年の小栗まつり> |
小栗まつり2005(平17) 小栗まつり2004(平16) 小栗まつり2003(平15) 小栗まつり2002(平14) 小栗まつり2001(平13) 小栗まつり2000(平12)(リンク) |
群馬マンドリン楽団の演奏で「維新無情」を朗読する
| 関連ページ ■「会津へ逃れた小栗上野介夫人」 ■小栗上野介顕彰会機関誌『たつなみ』 ■「歴史の道」秋山郷への山旅 ■「会津で初の小栗上野介資料パネル展」 ■「戊辰戦争と喜多方」(リンク) ■野反湖周辺の情報:野反峠休憩舎/野反湖ロッジ(村営)・・・野反湖〜秋山郷コースは入るときはここから情報を得てください。 |