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              小栗まつりを創る

                        ◆明治以来の供養祭のページはこちらを参照
     

         昔は 10年に一度の「○◯年祭式典」だった
平成8年春のことだった。東京から「来年は小栗上野介の130回忌になるが、特別な行事があるならみんなを誘ってでかけたい」という電話があった。

 前回の120年祭の例で言えば、参加者は村議や区長など村の主だった役職や組織の充て職の小栗上野介顕彰会役員と横須賀市関係者数人で、総数40~50人の招待者だけ。当日は顕彰会役員も招待者(=お客様)で、式典の準備進行運営は顕彰会事務局が置かれた教育委員会の職員が、10年に一回の慣れない式典に汗を流している。

 境内の胸像前のテントとイスで式典の挨拶・祝辞を聞き、墓前で献香が終わるとバスではまゆう山荘へ移動してレセプションという流れだった。レセプションには住職(父)が参加し、副住職の私は役員ではないので、ひとり残って後片付けをしていた。門前の看板を外していると通りがかりの近所のおばさんから「今日は何かあったの?人が大ぜい来たようだけど」と声をかけられた。地元民が知らない式典、招待者でない参加者がやってくると対応に困る式典を10年に一度やっていたことになる。これでは東京からのせっかくの電話に応こたえられない。

地元の人が知らない昔通りの式典をこのまま続けていては、10年に一度だから100年で10回しか出来ない。クルマで気軽に参拝に来る時代になっているのに、小栗上野介顕彰の基本となる式典が昔ながらのままでは顕彰にならない。この式典から見直さなければ小栗上野介の業績をもっと知ってもらうことは難しい、と痛感した。

 毎年開催してもっと広く知ってもらい、招待状がなくても全国から小栗上野介や幕末の歴史ファン、子供からお年寄りまで、誰でも自由に参加できるまつり、お店もあって関心のある人が楽しく交流する中で、小栗上野介の業績を振り返り、認識するまつりに出来ないだろうか。次の130回忌には多くの人に門戸を広げた「小栗まつり」にしたいという思いが強くなった。

 
▲模型船ポウハタン号の除幕 1999平成11年5月23日

      従来の「小栗上野介〇〇年祭」を変えたい
住職を継いで顕彰会理事となった私は、1996平成8年の顕彰会会議で
  ・来年の「小栗まつり」を以後毎年開催する
  ・お金をかけず、来た人が楽しめるおまつりにする
  ・村内に出店を募集して、手作りのお店を出してもらう
  ・子供からお年寄りまで誰でも参加できるおまつりとする
ことを提案した。

 しかし提案は受け入れられなかった。顕彰会ではこれまで「小栗上野介〇〇年祭」として実施してきて、それは
  ・「満○◯年祭」(神葬祭式の名称と数え方)だから130年祭は来年(平成9年)ではなく再来年(平成10年)実施になる。
  ・村からの補助金があって実施できるので、それは10年に一度のこと。毎年実施するには予算がない。
というもの。

お金に関して言えば、業者にテント・イスをセットし終了後に撤去してもらうだけで数十万円かかる。参加しそうもない近隣市町村長、議長や県議全員、他に関心のありそうな関係者に招待状を出すから、郵送料と返信ハガキ代もばかにならない。招待者には特別用意した記念品を渡し、レセプションで参加者全員に食事を提供していた。10年に一度村の補助金でやっている式典だから、毎年実施は出来ないという。顕彰会事務局を教育委員会が担当しているから、小栗まつりを地域振興につなげる発想は生まれにくい。

 従来の式典しかイメージのない人たちに新しいやり方を提案しても、提案した自分自身がやり通せる実績も自信も予算もない。提案は引っ込めざるを得なかった。
  
 
▲ボランティアが活躍してくれる        勝手に前夜祭も活気の元
       「小栗まつり」を創る
しかし、再来年(平成10年)の「130年祭式典」の前年(平成9年)に新しいやり方の「小栗まつり」を実行しておけば、それをモデルに再来年の式典で同じにできる。来年やらなかったらずっと改革のチャンスはない。

 会議の結果を受けて、、顕彰会が出来ないなら東善寺として130回忌供養の「小栗まつり」を新しい方式で実施してみるしかないと考え、会議の終わりに「私なりに東善寺主催で来年130回忌のまつりをしますから」と提案して了解を得ておいた。

そして新しい「小栗まつり」の骨組みは経費節約も含め次のように考えて1997平成9年に実行した。

 1、招待状と広報 招待状を一切出さない。東善寺主催は従来の顕彰会ー教育委員会の線から外れるから村の回覧板での広報は依頼できないので、村内は新聞に折込みチラシを入れ、各新聞社には広報依頼状を送った。招待状を出すと「祝い金が欲しくて招待状をよこした」という陰口の元となりかねない。参加したい人が来てくれればいい。

 その代わりに広報として、これまでに把握している小栗ファンやマスコミにプリント版『小栗上野介情報』を送って参加を呼びかけた。これは今でも継続して毎年700~800通、東善寺から発送している。

 2、ボランティア  経費節約のカギはボランティアにある。前日の昼市用テント・テーブル設営と当日の運営・撤収はボランティアを募って行うことにした。

 ところがあいにく前日は雨が降る中でのテント設営となった。しかも途中で公民館から借りたテントの器具が一部違っていて、雨の中を再度借り出しにでかけてゆくはめになった。その時のボランティアのやりきれなさそうな顔を思い出すと申し訳なくて、以後の「小栗まつり」を簡単に投げ出すわけにゆかなくなった。続けられた要因の一つ。最初が苦難で始まったからあとの苦難は気にならない。

 ボランティアが来てくれても、一人ひとりが効率よく動いてくれるスケジュールは自分が作らなければならない。設営の手順と、用具の事前借り出し、数量点検、任務割当と一覧表づくり、駐車場の確保と係の割当表、講演会講師の依頼、送迎係、時間打ち合わせ、レジュメの作成、昼市券づくり、その袋詰め、…仕事は山のようにあった。

 3、「昼 市」     境内に昼市を設けて村内有志や小栗上野介ゆかりの地の人に店を出してもらう。初めの頃に小栗上野介と高井鴻山の縁で長野県小布施の熱心な小栗ファンがリンゴをたくさん広げて出店してくれたのが嬉しかった。お店があれば遠来の参加者が簡単な昼食を取れるし、お土産も買える。「昼市」という名称は今あちこちで使われているが、よそで開かれていた「朝市」から連想して私が「昼市」と命名したもの。でもどこかでも同じに造語した人がいるかも知れないから、こだわらないが。
 
 ふだんこういう商売をしていない地元出店者は慣れないから一生懸命に応対する。それが新鮮で、シロウトっぽいから、参加者が気軽に立ち寄ってくれる。こんな田舎に人が来てくれることがうれしくて「どちらから?」という声かけが歓迎の声となり、参加者との会話が弾み、たのしい昼市風景が展開した。
  
 4、テントとテーブル   村の人は店を出したくても、テーブルもテントもない。寺がテント・テーブルを用意し、設営・撤収をボランティアにしてもらう方式を考えた。ボランティアにテントを張ってもらうのだから、出店料は無料とした。

 テントは寺のテント3張りのほかに、本堂屋根や、庫裡の軒端から架け出す大きなタープを考えて設計し、知り合いの登山道具屋に注文して軽い防水布で縫ってもらった。しだいに増えて現在は本堂正面から東の庫裡の内玄関までタープを架けて重宝している。タープは柱がないから数人で張れて、広い空間を作り出せる。  テーブルはデコラ張りの事務机では傷がつきやすく値も高い。ちょうど庫裡改築中の大工さんの作業台からヒントを得て、短いコンパネ板に切込みを入れて十文字に組むとテーブルの脚となる。2つの脚の上に大きなコンパネ板を乗せれば簡単にテーブルとなり、傷つきを気にすることもない。解体・収納も簡単にできる。5月の連休に切り込み作業をボランティアにしてもらって用意した。

 5、受付は横に置く  招待客がいないから受付は不用として、当初は受付を置かなかった。参加者から質問などがあるので、しだいに置くことにしたが、入り口の正面ではなく横に引っ込んだ位置とした。有料のイベントは入ってゆく正面に受付を置くが、誰にでも来てもらいたいまつりでは正面の受付=関所になって、招待状などのない一般の人は躊躇する。受付に用事のある人だけ受付を探してもらえばいい。


    
コンパネテーブルの脚▲ この上に大きなコンパネ一枚を載せる。 ▲雨、軒端から張ったタープが役立つ
 
       はじめての新しい小栗まつり 
こうして平成9年5月に現在のスタイルとして初めての「小栗まつり」を「墓前祭」という名前で実施した。ちょうどその頃曾孫の小栗忠人氏から「うちに置いても仕方がない。寺で皆さんに見てもらってくれ」と東郷平八郎が小栗家に送った書額「仁義禮智信」が寄進された。「これを見てもらえば、曽祖父の名誉回復になるだろうから」という言葉が添えられていた。曽祖父小栗忠順は明治政府軍に殺されて以来いまだに名誉回復がされていない、と曽孫が受け止めている言葉である。
 
 記念講演を小板橋良平氏にお願いして、小栗道子夫人の会津逃避行とそれを守った権田村人護衛隊の経路をたどる調査の報告を語ってもらった。はじめに電話をくれた方も東京からバスで仲間を大勢連れて参加してくれた。

 東郷の書額を新聞社に連絡したら記事にしてくれ、それが小栗まつりの予告記事となって、当日はたくさんの方が参加してくれ、ボランティアもやりがいを感じる一日であった。

翌年平成10年は顕彰会主催の「130年祭式典」が境内の胸像前で行われ、小栗上野介の顕彰に熱心な小寺弘之群馬県知事が「先輩の横須賀市長澤田さんがおいでになるから」と、ともにご夫人同伴で参列してくれ、前年の新しい「小栗まつり」方式を踏襲したので昼市もにぎやかに展開しお客さんもにぎやかに参加して、これで軌道に乗ったと思われた。

       
しかし、次の平成11年の顕彰会会議ではやはり予算がない、10年に一回やってきたからという前例から抜け出せず、毎年実行しようという提案は通らない。仕方がないので「実行委員会」名義で東善寺が主催することで了解を得て、元に戻ってしまった。

 以後平成14年まで4年間、顕彰会はタッチせず「実行委員会」名義の東善寺主体で新しいやり方の小栗まつりを行った。しだいに新聞報道などでだいぶ知られるようになると「倉渕村のカレンダーに載っていない。言ったほうがいいよ」という村人の声も届くようになった。しかし小栗まつりが認知され、理解が進めば自然に載るだろうから、係が載せたくなるまで、載せないわけにはゆかなくなるまで努力するバロメーターと考え、こちらから要請しなかった。今では当たり前のように掲載している。

東善寺主催の小栗まつり
平成9年・・11・1213・14年  計5年

顕彰会主催でないから当時の『たつなみ』に載っていないので、ここに記録 
 
 年月日  内容 会場 
 1997平成9年5月25日  10時墓前供養/講演小板橋良平「小栗夫人会津脱出路の踏査」/14時墓前供養/解説:住職「小栗上野介の首のゆくえ」  東善寺
 (1998平成10年5月17日) 顕彰会主催 献花・式辞・法語・祝辞・墓参・記念植樹・午後ーコンサート(雅楽・オカリナ・古筝)*前日、はまゆう山荘10周年記念シンポジウム「小栗上野介と幕末」〈はまゆう山荘〉  東善寺
 1999平成11年5月23日  墓参/模型船ポウハタン号除幕/演奏ー群馬マンドリン楽団「維新無情」ほか/胡弓  東善寺
 2000平成12年5月21日  墓参/記念講演赤塚行雄「君はトミーポルカを聴いたか」/演奏ー群馬マンドリン楽団/午後:落語/テンテンくんのお絵描き教室 東善寺 
 2001平成13年5月27日  墓参/記念講演童門冬二「小栗上野介に学ぶ日本の心」/発表市川八十夫「小栗上野介の有罪説をただす」/演奏:群馬マンドリン楽団「維新無情」「トミーポルカ」・見友会「横須賀海軍工廠歌」  東善寺
2002 平成14年5月26日 墓参/小栗上野介レリーフ除幕/講演濤川栄太「小栗上野介に学ぶ人生訓」/発表村上泰賢「『小栗忠順従者の記録』を読む/演奏:群馬マンドリン楽団   東善寺
 (2003平成15年5月18日) 顕彰会主催 小栗上野介135年祭 顕彰会主催 講演木田幸紀「ドラマの中の小栗上野介」・演奏群馬マンドリン楽団・午後墓前祭 墓参・ 社会体育館
と東善寺
 これ以後、顕彰会主催 東善寺共催で毎年実施することにつながった  
 
▲2001年童門冬二氏の講演 足元まで詰めかけて聞き入っていた


   効果と陰口
こうして小栗まつりを続けるうち知名度が上がり、まつりが終わっても「ここで毎年お祭りをしているから」と通りがかりに立ち寄る人が増えてきた。イベントを続ける効果は、来てくれる人が大事な情報を運んできてくれることで、探しても見つからない貴重な情報が届けられたりすることと、こうしてイベントの終わった後にも「」あの時来られなかったから」と関心を持って立ち寄る人が増えるということ。

 いい話ばかりではない。「顕彰会に相談せず住職が勝手にやっている」という陰口も聞こえてきた。たぶんそういう話が出ると予想して「実行委員会」名義で続ける了解を得ておいたのだが、陰口は遠慮なくどこからでも出る。「あれは村おこしではなく寺おこしだ」「だから手伝うことはない」とボランティアの足を引っ張る声もあった。気にしないようにして続けていると、陰口が少なくなって、最後に「金儲けでやっている」という声になった。「金儲け…」はほかに悪く言う材料がなくなった時の根拠のない究極の陰口だから放っておけばしだいに消える。もしやめれば「ほら、儲からないからやめた…」と言われる。歯を食いしばって続けるしかなかった。

 その名残りか、今でも「午前中が顕彰会の式典、午後の東善寺の墓前祭は小栗まつりに便乗してお寺で勝手にやっていると誤解している職員がいる」と教えてくれる人がいる。参加した人が楽しく過ごせて、来年もまた来ようと思ってくれればいいから、細かいことにこだわらず放っておきましょう、と答えている。


   
▲ボランティアのマイケルワート氏はいまアメリカで大学准教授となって『明治維新の敗者たち』(みすず書房)を出版 
 
▲本堂前のタープ
 
    手作りの「昼市」
初めての年、昼市に出店を引き受けてくれたグループから「仕込みをするけれど、お客が何人くらい来るの?」と聞かれて困った。
 「マスの塩焼き」の例で言えば、養魚場から仕入れて腹を割いてワタを抜き、竹を切って手作りの串に刺して準備する。では何百匹仕入れて串を何本作ればいいか・・・、私だって初めてのまつりはフタを開けてみなければどうなるかわからない。手作りまんじゅうだって、どれくらい小豆を用意して煮込んだらいいかー私も答えようがない。

 せっかくたくさん用意して一日出店したけど参加者が少なくてたくさん売れ残ったら、来年から出店してもらえなくなる。かといって参加者の予想を少なく言えば「それくらいなら田植えで忙しい日曜日にもったいない」と出店取りやめを言い出されかねない。どうしたらいいだろう。

 思いついたのは昼市の「品物券」システムだった。ボランティアには前日からテント張りやテーブル・看板をセットしてもらい、当日は駐車場整理、最後の撤収までしてもらう。そのボランティアの昼食やおやつ用に「ソバ券」や「マスの塩焼き券」などのセットを渡して店で交換して食べてもらい、夕方に店から券を買い取る方式を考えた。これならボランティアの数だけは品物の最低保証になるから、安心して仕込みができる。最初の難題はこれでようやく解決した。

プロの露天商は売れないといい顔をしないが、村人はよそから人が来てくれればそれだけでうれしくて「どちらから?」と声をかけ、それがもてなしの声かけになる。遠来の客は村人との語り合いが楽しくて、「知り合いができた」気分でリピーターになっている。


     狭いから活気
 東善寺は山寺だから境内は狭い。初め昼市はもっと広い場所がいい、と思っていた。ところが実施するうち狭いから活気が生まれていると気がついた。狭いと隣の店の客と売り手のやりとりが楽しく聞こえて会話に加わる。知り合いや、よく来る人に出会う確率も高くなり、自然ににぎやかな活気が生まれる。広い会場だと店が散在し、活気が分散して盛り上がりに欠け、客も「だいたい見たから、さあ草津温泉にゆこうか」となってしまう。狭いところにごった返す雰囲気がまつり気分を盛り上げる。


     午後のプログラムで滞在型に
 午前中の式典・講演だけでなく午後も演奏や講演、発表などきちんとしたプログラムを用意することで参加者は滞在型になり、店にも活気が生まれる。熱心な参加者は少しでも長い時間小栗上野介の場所に浸っていたいのだ。


     雨で撤収不能
 当日雨天になると、濡れたテントは撤収出来ない。翌日からはボランティアは仕事があるから手を貸してもらえない。翌日晴れてせっかく乾いたと思ったのに午後また雨で片付けられない、ということもあった。2,3日後に夕方一人で重いテントを畳み、小学校から借りたテントを担いで片付けるとヘトヘトになる。そういう時「今日は片付けられそうだから」と気を利かせて駆けつけてくれる人もいて、本当にありがたかった。


     合併で毎年開催が定着
 平成15年に顕彰会主催で135年祭を行ったことをきっかけにこれからは毎年実行しようという機運が強まり、毎年開催されるようになった。歯を食いしばって続けたことが無駄ではなかったと実感した。
 平成18年、高崎市と合併することになり、村で小栗まつりを「市の公的補助を受けるべき大事な地域の行事」と位置づけたので、そのころ顕彰会事務局が地域振興課に移されたことと相まって毎年実施が継続され、以後の運営をスムーズに行えるようになった。

 顕彰会の役員組織も充て職だけでなく、関心が高く熱心に動いてくれる人を会長委嘱で企画委員や編集委員に入ってもらい、基本的な活動の中心としたので、企画運営がスムーズに動くようになった。合併後は役所の職員数が減って一人の職員がいくつもの組織の事務局を受け持っているから、職員に頼りすぎないよう会員が責任を持って動く顕彰会の組織運営をすることが大事になる。

 組織は動かないと停滞する。小栗まつりを毎年開催するから顕彰会の会議や準備で役員と職員の顔のつながりも深くなる。しだいに顕彰会活動に活気が出てきて、県庁や明治大学博物館での「小栗企画展」開催などにつながった。 



     役員は船の漕ぎ手 
 高崎市に合併後は小栗上野介顕彰会主催東善寺共催で毎年実施され、しだいに軌道に乗ってきた。ある年、小学校体育館の式典で顕彰会役員の席が会場の前方に指定されていて、招待状のないフリーの客はその後ろになっていることに気がついた。役員をお客様扱する昔のやり方が残っていたらしい。
 本来、役員は駐車場手配から受付接待など運営の中心、船でいえば漕ぎ手のはず。漕ぎ手が客になってはいけない。指定席があるのは招待客と、役員は会長だけとし、あとは座席フリーで遠来の客がなるべく前に座れるように提案し、方式を変えるよう提案した。あの人の講演は聴きたい、と思いながらまつりの仕事に責任を果たしているボランティアがたくさんいる。ありがたい陰の力だ。

                                        以上文責:村上泰賢

  
▲横須賀市から来たオグリンは大人気       ▲子供もお年寄りもにぎやかに集まってくる