小栗上野介随想(東善寺)     お首級(くび)迎え    


小栗上野介の首騒動
お殿様のお首級迎え
            おくびむかえ


首級は館林へ送られる

慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉朝、小栗上野介は家臣3名とともに烏川の水沼河原で、西軍によって斬首された。処刑が終わると主従の首は青竹に刺して道端の土手の上にさらされ、「朝廷に対し大逆を企て・・」という無実の罪状を書いた高札が建てられた。

一時さらされた小栗上野介の首級は、すぐに高崎に送られ、翌7日高崎城内で家臣3名とともに斬首された養子の小栗又一〈駒井甲斐守の次男忠道、21歳〉の首とともに館林に来ていた東山道総督府に届けられた。このことは、太政官日誌の「小栗父子ならびに武器類等は御総督府へ護送仕り候」という、高崎藩からの「届書き」が裏付けている。

閏4月9日、館林城内で東山道総督岩倉具定の首実検を受けたあと、いったん泰安寺〈現在廃寺〉に下げ渡される。ところが泰安寺は城主秋元公の位牌寺で墓地を持たないため、困った住職は親しくしていた法輪寺住職に頼んで、同寺本堂西の墓地に埋めてもらった。


▲法輪寺・館林市朝日町

お首級(くび)迎え

翌明治2年春、会津へ小栗上野介夫人を護衛して行き、東京まで送り届けて権田村へ戻った農民中島三左衛門は塚越房吉とともに、殿様の首がないままなのを憂えて、館林へ出かけてゆく。かつて冗談交じりに「自分もいつか、井伊大老のように殺されるかもしれないが、死んでも首と胴体は一緒にいたいものだ」と、語った上野介のことばが耳にあった。

小栗家の旧領地高橋村〈佐野市〉の名主・人見宗兵衛、その叔父で細内〈館林市〉の渡部忠七らの協力を得て、法輪寺へ至り「殿様の1周忌が近いので墓を建てたい」という触れ込みで場所を確認。盗掘に一度は失敗し、二度目に成功して権田村へ持ち帰り、ごく数人の村人に拝ませ、東善寺裏山の墓に葬った。又一の首は、胴体を引き取った小栗家旧領地・下斉田村〈高崎市〉の名主・田口を呼んで渡し、下斉田村の墓地に葬ってもらった。

「館林市史・歴史篇」によると、盗掘の手引きをしたかどで捕らえられた渡部忠七が「始末書」を書いて放免されている。同書には「権田の村人二人が墓を建てたいとやって来た」など、始末書の全文が掲載されている。村人はこの一件を「お首級(くび)迎え」とひそかに語り伝えてきた。

中島らは、小栗道子夫人や母堂邦子らを守って会津へ逃れ、会津戦争さなかに生まれた遺児国子も護って、会津戦争後の明治二年そうそうに、会津から東京〜静岡まで送り届けて帰郷したあとの義挙であった。
国子は後に母道子とともに東京へ出て、三野村利左衛門に保護され、三野村が亡くなると大隈重信の保護のもとに成人し、前島密の媒酌で矢野貞雄〈作家龍渓の弟〉を婿に迎えて小栗家を継いだ。

あちこちで「首はここに・・・」

村人は明治新政府の管理下にあるものを盗んできたわけだから、やたら口外せずに,子から孫にのみ言い伝えて供養を続けてきた。私が子供のころ、毎年4月6日になると「お殿様のご命日だからこれをお供えしてほしい…」と、塚越太源治さん(源忠の孫)が重箱に赤飯をつめて、お参りにきた。

昭和のはじめ、水沼河原にさらされた首を家来が盗んできてここに埋めたと称して「首塚」なるものを昭和9年に作り上げ、戦前に大々的に宣伝した近県の某寺院や、館林から盗んだのはこっちの者たち、という話を伝えるところもある。

いずれも共通するのは、「河原からさらし首になっているのを盗んできた」と言っていたのが、昭和12年、『太政官日誌』に「父子の首級は館林に送った」と記述されているのが発見され、食い違いが出てくるとこんどは「館林からぬすんだ」などと、語る人や時代で内容が変わって一貫性に乏しく、裏付ける史料がないこと、また関係者といわれる人の子孫に何も具体的な語り伝えや、供養の行動がないこと、である。

恩義ある人の首を運んで埋めた場合、他人に口外しなくも子孫にだけは供養を絶やさないようかたく言い伝えるのが、運んで埋めた人の誠意であろう。作られた伝承と史実の違いである。

〈「歴史読本」平成8年11月号・村上泰賢「小栗様のお首級迎え」より抄出・加筆〉


小栗父子及び家臣の墓の脇に咲く名花・小栗椿