小栗上野介の顕彰(東善寺HP)     お首級(くび)迎え/「小栗上野介正伝」の錯誤    


小栗上野介の顕彰
お殿様のお首級迎え
                おくびむかえ


館林で首実検のあと寺院境内に埋められた小栗上野介父子の首級は、
明治2年春に権田村の農民が盗掘して取り返し、東善寺へ運んで胴体と
一緒にした。関係した村人はこれを「お首級迎え」と言った。


お首級(くび)は館林へ送られる

◇慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉朝、小栗上野介は家臣3名とともに烏川の水沼河原で、東山道総督府の西軍によって斬首された。処刑が終わると主従の首は青竹に刺して道端の土手の上にさらされ、「朝廷に対し大逆を企て・・」という無実の罪状を書いた高札が建てられた。

◇一時さらされた小栗上野介の首級は、すぐに高崎に送られ、翌7日高崎城内で家臣3名とともに斬首された養子の小栗又一
〈駒井甲斐守の次男忠道、21歳〉の首とともに館林に移っていた東山道総督府に届けられた。このことは、「太政官日誌」(慶応4年5月)の「小栗父子ならびに武器類等は御総督府へ護送仕り候」という、高崎藩からの「届書き」が裏付けている。

◇閏4月9日、館林城内で東山道総督岩倉具定の首実検を受けたあと、いったん泰安寺
〈現在廃寺〉に下げ渡される。ところが泰安寺は城主秋元公の位牌寺で墓地を持たないため、困った住職は親しくしていた法輪寺奥田明山(みょうざん)住職に頼んで、同寺本堂西の墓地に埋めてもらった。


▲法輪寺・館林市朝日町

お首級(くび)迎え

中島三左衛門  翌明治2年春、会津へ小栗上野介夫人を護衛して行き、静岡まで送り届けて権田村へ戻った農民中島三左衛門は村人の塚越房吉とともに、殿様の首がないままなのを憂えて、館林へ出かけてゆく。かつて冗談交じりに「自分もいつか、井伊大老のように殺されるかもしれないが、死んでも首と胴体は一緒にいたいものだ」と、語った上野介のことばが耳にあった。

人見宗兵衛  小栗家の旧領地高橋村
〈佐野市〉の名主・人見宗兵衛、その伯父で細内〈館林市〉の渡部忠七らの協力を得て、法輪寺へ至り「殿様の1周忌が近いので墓を建てたい」という触れ込みで場所を確認。盗掘に一度は失敗し、二度目に成功して権田村へ持ち帰り、ごく数人の村人に拝ませ、東善寺裏山の胴体を埋めた墓に葬った。又一の首は、胴体を引き取った小栗家旧知行地・下斉田村〈高崎市〉の名主・田口十七蔵を呼んで渡し、下斉田村の墓地の胴体にあわせて葬ってもらった。

渡辺忠七  「館林市誌・歴史篇」
(昭和44年)によると、盗掘の手引きをしたかどで館林藩に捕らえられた渡辺忠七が「始末書」を書いて放免されている。同書には「権田の村人二人が墓を建てたいとやって来た」など、始末書の全文が掲載されている。村人はこの一件を「お首級(くび)迎え」とひそかに語り伝えてきた。

小栗国子  中島らは、小栗道子夫人や母堂邦子らを守って会津へ逃れ、会津戦争さなかに生まれた遺児国子も護って、会津戦争後の明治二年そうそうに、会津から東京〜静岡まで送り届けて帰郷したあとの義挙であった。
国子は後に母道子とともに東京へ出て、三野村利左衛門に保護され、三野村が亡くなると大隈重信の保護のもとに成人し、前島密の媒酌で矢野貞雄
〈作家矢野龍渓の弟〉を婿に迎えて小栗家を継いだ。


小栗上野介の首級を埋めた本墓(東善寺)
小栗上野介父子主従の墓より3分ほど上った寺山にあり

あちこちで「首はここに・・・」

供養  村人は明治新政府の管理下にあるものを盗んできたわけだから、やたら口外せずに,関係した子から孫にのみ言い伝えて供養を続けてきた。私(村上泰賢)が子供のころ、毎年4月6日になると「お殿様のご命日だからこれをお供えして…」と、塚越太源治(石塔を作った塚越源忠の孫・権田字押平住)が重箱に赤飯をつめて、お参りにきた。

 太源治は昭和30年代後半になって、「祖父や親から堅く口止めされていたけれど、もう大丈夫でしょうから…」と、盗んで来た首を源忠が中島三左衛門・塚越房吉とともに東善寺の墓に埋め戻したとき、「胴塚を掘るとそれまでつけてあった木の首が傾いて肩のところにあった。それを取り出して本当の首を継ぎ、ご無念でございましょうがこれでひとまず安らかにお眠り下さい、と泣いた」と、源忠が語った話を住職村上照賢に打ち明けた。
 先師照賢は、後で「太源治さんは全く人柄の固い人だ。」と戦後20年近く経ってようやく重い口を開いたことにつくづく感じ入っていた。

首塚 
 昭和のはじめ、水沼河原にさらされた首を家来が盗んできてここに埋めたと称して昭和9年に「首塚」なるものを作り上げ、著書(阿部道山『海軍の先駆者ー小栗上野介正伝』)を著わして戦前に大々的に宣伝した埼玉県の某寺院や、館林から盗んだのはこっちの者たち、という話を伝えるところもある。

太政官日誌 
いずれも共通するのは、「水沼河原からさらし首になっているのを盗んできた」と言っていたのが、昭和12年、『太政官日誌』に「父子の首級は高崎藩が館林に送った」と記述されているのが館林の歴史家によって確認され、しだいにそれが広まって話のつじつまが合わなくなると、こんどは「館林から盗んだ」(普門院のパンフレット・平成25年)となったり、あるいは「館林へ運ぶ前に高崎で髪を切って某寺院に届けた。…だからあれは首塚でなく遺髪塚」(河野正男『小栗上野介をめぐる秘話』)など、語る人や時代で内容が変わるご都合主義で一貫性に欠け、単独行動で裏付ける史料がないこと。また関係者といわれる人の子孫に具体的な語り伝えや、供養の行動がないこと、である。

史実と伝承の違い  恩義ある人の首を運んでこっそり埋めた場合、他人に口外しなくても子孫にだけは供養を絶やさないようかたく言い伝えるのが、運んで埋めた人の誠意であろう。お赤飯を供え続けた太源治の行動はまさにその姿である。史実と作られた伝承の違いがここにある。

〈「歴史読本」平成8年11月号・村上泰賢「小栗様のお首級迎え」より抄出・加筆〉




上記のようなてんまつで小栗父子の首級は無事に胴体のもとに埋葬されたわけだが、その史実に反することが記載されている書が1941(昭和16)年に刊行され、現在でも一部でそれを信じて書かれた文章を散見するので、以下に史実との不整合をまとめます。

1941昭和16年発行  阿部道山著
海軍の先駆者―小栗上野介正傳』の錯誤 について

 この本は、明治以来の小栗上野介を逆賊視する風潮が色濃く残る昭和16年に、「海軍の先覚者」としての小栗忠順の業績を確認し顕彰しようと発刊されたもの。先学の関連書籍をよく渉猟吟味し縦横に加減調和した力作で、当時としては小栗忠順に関する画期的かつ勇気ある出版であったといえよう。

 しかし、遺憾ながら本書には「小栗家の菩提寺が普門院」、あるいは「小栗上野介の首級を普門院に埋葬」など、根本的事項に珠にキズとも言うべき誤謬錯誤が見られて価値を減殺し、さらに本書の錯誤に基づいて書かれたと思われる記事やホームページを現在も散見するのは残念なことである。以下に錯誤の部分を指摘しておくので、小栗忠順について発表するときは参考にしていただきたい。        以下の文責は村上泰賢

復刻『小栗上野介正傳』 が刊行されました 
山口県マツノ書店 2013平成25年7月・販売終了
 
 本書がマツノ書店から限定300部の予約印刷で復刻刊行されました。依頼があって村上泰賢が
「解説」を書き、その中で以下のような
本書の錯誤(青文字で引用)を指摘しておきました。
*文中のページは復刻版のページを示す

     ●小栗上野介家の菩提寺
文中約20ヶ所に「小栗家の菩提寺(菩提所)の普門院」
とあるが、
 普門院には小栗家四代目小栗忠の墓はあるが、その他「小栗○○の墓」は忠政の二男で分家した小栗仁右衛門信由家の累代の墓である。
 小栗家の菩提寺は『寛政重修諸家譜』に五代目小栗政信以降について「保善寺を葬地とす」とある通り、曹洞宗保善寺
(中野区・もと牛込)である。
              

              ▲普門院門頭「小栗忠
一族の墓」


 明治以降小栗家は神葬祭に移ったので保善寺から雑司ヶ谷霊園に墓地を設けている。
 東善寺は五代目小栗政信を中興開基とするゆかりはあるが「小栗家の菩提寺」ではない。たまたま当地で斬首された小栗上野介主従を埋葬したので「小栗上野介の菩提寺」となった。


     ●
小栗家系図の省略 
 
小栗上野介家家系図  P22
 
文中22ページには小栗上野介家の家系図が
初代松平太郎左衛門信吉
二代松平忠吉
三代小栗吉忠
四代小栗忠政    までが掲載されているが、保善寺に葬られた五代目小栗政信以降が記載されず省略されている。
 
 阿部はこの記述は「寛政重修諸家譜に依る」と書いているから、『寛政重修諸家譜』には五代目小栗政信以降について「保善寺
(元牛込、いま中野区)を葬地とす」とあるのを承知の上で、記載を省略してしまったことになる。その理由は何か。

 本書の文中随所約20ヶ所に「
(普門院は)小栗家の菩提寺」と書き、それに対応してこのページの系図で四代忠政の説明に「普門院に葬る」と書いて五代目政信以降を省略すれば、ふつうの読者は『寛政重修諸家譜』で確認などしないから五代目以降もとうぜん普門院に葬られているものと錯覚する。意図をもった省略と見られても仕方あるまい。

     

     
首級の埋葬場所 
「小栗上野介の首級は家来武笠銀介が水沼河原にさらされていた首級を盗んで普門院に運び、墓地に埋葬した」P6、162、185、360、363
 
としているが、史実は次の通り。
 武笠銀介は養子小栗又一に従って高崎へ行き、小栗忠順主従が斬首された翌7日に城内で他の家臣3名とともに斬首される所を、若年
(16歳)をもって赦免され、そのまま江戸の父武笠祐左衛門に主従の急を知らせている。もしまだ西軍が小栗家から奪った家財処理をしている権田村へ戻っても、首級は前日に高崎藩が高崎城内へ運んだ後だから、斬首を免れたばかりの銀介が介入する余地はない。

 昭和12年、館林の福田啓介図書館長が『太政官日誌』に「高崎藩からの届書」…「小栗父子の首級は首実検のため館林へ送りました」・・・という記載を発見し、普門院説は完全に否定された。

     
普門院の「首塚」について
 
現在も普門院にある首塚は阿部道山の勧めで小栗貞雄(小栗国子の婿)が昭和9年に建立したものであるが、専修大学白柳夏男教授は「小栗上野介遺聞」(専修大学論集第43号1987)で、
「昭和9年以前は土饅頭であり(P358)、その土饅頭も昭和7年5月以降〜8年5月までの間に造られ、それ以前は何もなかった」

ことを検証している。

             
                ▲首塚
と称する石(普門院境内)


 館林から小栗父子の首級を盗掘奪取した権田の村人は明治政府の管理下にあるものを盗んだのだから、「戻りさえすればいい」と口外せず、子から孫にのみ言い伝えて供養を続けてきた。

 私
(住職)が子どもの頃毎年4月6日に「お殿様のご命日だからこれをお供えしてほしい」と塚越太源治(小栗主従の墓石を造った塚越源忠の孫・源忠は会津から戻った後身体不調で館林へ同行できなかった人物)が重箱にお赤飯を詰めてお参りにきた。
 
 その太源治は、昭和30年代後半になって、「祖父や親から堅く口止めされていたけれど、もう大丈夫でしょうから…」と、盗んだ首を源忠が中島三左衛門・塚越房吉
(妹が源忠の妻)と東善寺の小栗上野介の墓に戻した時、「胴塚(忠順の胴体を埋めた墓)を掘るとそれまでつけてあった木の首が傾いて肩のところにあった。それを取り出して本当の首を継ぎ、ご無念のでございましょうがこれでひとまず安らかにお眠り下さい、と泣いた」「確かにお首級(くび)はお寺にある」と、房吉が語った話を前住職村上照賢に打ち明けた。
 
 先師照賢は他の村人からの話でお首級を奪ってきて胴体と共にしたことは知っていたが、あとで「太源治さんは全く
(人柄の)固い人だ」と、直接関わった者の子孫が戦後も20年近く経過してようやく重い口を開いたことにつくづく感じ入っていた。


「高崎には豊國氏と云ふりっぱな郷土史家がをられ二十数年来偉人小栗上野介の顕揚に尽力してをられる。群馬の人々はかうした篤志家に依って、上野介にとって忘れ難き怨讐の地で遺徳顕揚に努めつつあるは感謝に堪えない」P188

 阿部がこうほめる豊國氏は戦前の群馬県における貴重な郷土誌『上毛及び上毛人』の編集発行人豊國覚堂(がくどう・大胡町長善寺住職)のことで、上記引用文のように阿部に小栗上野介研究の努力を称賛されている。              
 ところが、 逆に豊國は普門院説によって岡田啓介首相が普門院に参拝したことに疑問を呈し
『上毛及び上毛人』220号・昭和10年)
 さらに昭和12年、「小栗父子の首級を館林へ送った」という『太政官日誌』の記述を福田啓介         
        ▲「上毛及び上毛人」昭和12年8月号

図書館長が発見したことを紹介し、
「之が為例のインチキ者流の化けの皮が忽ち剥ぎ取らるるは痛快の至りと謂ふの外なし」
「小栗上野介の首級問題」『上毛及び上毛人』244号・昭和12年8月)
と、首級の普門院埋葬説を「インチキ」と一蹴している。

     ●
采地について  
本書では小栗家の采地は
「武州大成村(普門院所在地)、上野国邑楽(おうら)、多胡(たご)の三個所…」 P1
としているがすべて誤り。

 小栗上野介のころの主な知行地は次の通り

上総国武射郡稲葉村
(千葉県芝山町)     152石
下総国香取郡五反田村
(多古町)       117石
 同  堀内村、大川村、田部村
(香取市ほか) 156石
下野国高橋村、大沼田村
(栃木県佐野市)   1354石
上野国群馬郡権田村
(高崎市)        375石
  同  下斉田村
(高崎市)          170石
  同  与六部(よろくぶ)村
(玉村町)    88石

遣米使節から帰国後の加増地として
  同 多野郡森村
(藤岡市)         56石
  同   小林村
(藤岡市)        100石

その他細かいところもあって合計2700石で幕末を迎えている。
*普門院所在地の武州大成村は入っていない。

     
小栗上野介を斬首した人物  
「これで小栗を斬ったのですか、と私は問ふた。(原)はうむと、一言云ったきりだ…」 P171

 
小栗上野介を斬った人物は従来原保太郎と言われていた(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介の死』)が、それは正確ではなく、東山道軍軍監として全体を指揮している者が直接首斬り役をすることはあり得ない。小栗研究家小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』によれば安中藩の徒(かち)目付浅田五郎作が命じられて斬ったというのが真相である。

     
「村民が盗賊化」について 
・「小栗上野介が……権田に退耕中、村民が盗賊化し襲撃した……」P50
・「権田の村民が上野介を囲み掠奪したとあるが……」 P173


 
幕末維新期の無政府状態に乗じて博徒らの扇動で「ぶち壊し騒動」と呼ばれる暴動一揆が発生し、「借金を棒引きにする」「世直し」を唱えて、秩父方面から上州へ入ってきた。小栗一家が隠棲帰農をはかって江戸から慶応4年3月1日権田村に到着すると、後を追うように2日には隣村三ノ倉村に入った。小栗の家臣が出かけて交渉したが多額の金品を要求するため交渉は決裂し、4日に近隣の村々を威嚇扇動して、およそ2000人が権田村を襲撃した。小栗忠順は家臣と権田村農民を指揮してこれを撃退している(『小栗日記』群馬県史料集)。暴徒化したのは権田村民ではなく、博徒らに威迫扇動された近隣村民であった。

 『小栗上野介正伝』という書名にふさわしくない、重大な錯誤といえよう。そして以下の記述はこの錯誤を基に展開されていると考えられる。

     
「忘恩な村人」「非道の人」という記述  
・「権田の人々のとった旧主を思はざる忘恩的態度が、いたく小栗家の遺族の胸を打ったらしい。上野介の一子国子さんのごときも、一生権田の東善寺には行かないと云はれたさうである」 P32

「群馬の権田村は(小栗)道子夫人は最も嫌ってをられた。それは愚妻の国子から(小栗貞雄が)聞いたことだが、なる程権田は上野介の終焉の地ではあるが、主人(上野介)があアなったのは忘恩な村民が高崎藩に向って彼が反逆者でもあるかの如き密告をしたからだと道子夫人は信じてゐたからだ」P187

・「蜷川博士からその後丁寧なお礼の書翰に接した。やはり権田の人々の忘恩的徒輩を憎んでをられる旨を記してあった」 P188

・「群馬で小栗の顕揚運動をもくろむと何か不吉なことがあるのでこころにかかる。第一烏川の碑が流される。最近では権田村の東善寺が突如焼失してしまった。それやこれやで一切止めると云ふ意味の文書でした、と中将は云はれた…」 P343

・「道子夫人は…群馬の権田の人々は実に旧主の恩を知らざる非道の人であると歎かれ、再び権田には行かないと云はれ生涯権田には行かなかったそうである。又東善寺、上野介の蟄居
(ちっきょ)した寺院に対しても好感が持てないと歎じてゐたと云はれる」 P386

 
以上、小栗上野介顕彰に熱を入れるあまり、「ぶち壊し騒動」の誤解をもとに筆がすべった、ということかもしれないが、権田村へのマイナスイメージの創出を図っているとしか考えられないほど執拗な害意すら感じて不思議な感を抱かざるを得ない。
 
 よく読むと、どの文も他人の言葉の伝聞体で書かれている所に特徴がある。伝聞体は「こう言ったのは私ではありません、○○さんから聞いた話…」と責任を逃がれる時に便利なスタイルであるが、たとえ聞いた話でも選択して証拠も示さずに記述した責任は逃れられない。

 権田の村人は、小栗主従が西軍に殺される三日前に権田村から逃れる小栗道子夫人・母堂らを守って会津に到り、会津軍に加わって戦った。村人のうち若者二人が喜多方市
(熊倉と高郷)で戦死している。村人は戊辰戦後に会津―東京―静岡まで送り届けて権田に帰ると、今度は館林へ出かけ小栗父子の首級を盗掘して遺体とともにして埋葬している。

 この史実は昭和3年に発行されベストセラーとなった蜷川新著『維新前後の政争と小栗上野介の死』に記述され、蜷川は、「当時夫人に伴せし人々の忠誠…」と讃えていて、阿部もこの書を「参考書籍」にあげているから、とうぜん承知していることである。
 権田村や東善寺へのマイナスイメージを創出するのに都合の悪い話は読み飛ばして、「忘恩、非道」とそしるのは意図的な見当違い、といえよう。
 道子夫人らを会津に護衛していった先祖を持つ当地の地元民はこれまで70年間本書のこの根拠のない侮辱に耐え、「なんとかして本当の話でおかしな話を打ち消したい」と古老は願ってきた。

 権田村民と小栗家の交流
 実際、権田村民と小栗家の交流は明治以後も続いていて、大正6年
(1917)、東善寺での小栗公50年祭に出席した小栗又一(忠順の孫・19歳)は「権田の山川も村民の情けも昔に変わらず、祖父の法要を営むことに感謝…」と挨拶している。
 
 そして第二次大戦中、小栗菊子夫人
(又一の未亡人)は小学生の息子忠人、娘洋子(ともに忠順の曾孫)を連れて権田の村人を頼って疎開し、東善寺の門前に住んでいた。この疎開にあたって菊子夫人は地元の市川亭三郎(水沼河原の顕彰慰霊碑建碑責任者市川元吉は義父)に何度も手紙を送って、空襲下の汽車の切符入手の困難や家財の荷送りについての苦心を相談している。

 蜷川新が戦前戦後に参拝して権田村民にその労苦と顕彰活動に感謝の言葉「権田村民に敬意を捧ぐ」を残していることも、確認しておく。

 *これまでこのような土地の自慢めいた話を公表することは控えてきた。当たり前のことをしただけと思っている当時の村人の気持ちを思うと、書かざるを得ないことが恥ずかしい。

             
            ▲蜷川新の書に「捧敬意権田村民」とある

                     (東善寺蔵)

「小栗上野介のことをくどくど尋ねた、はきはきしてくれない……老僧に向って『あんたは聾(つんぼ)かね』と大声で云うた。老婆はたまらぬげに『いや聾(つんぼ)ではない、昭和12年5月10日に裏山を越えた家からでた山火事でこの本堂と庫裏が焼けてから、少し気が遠くなったのです』と云ふ。私は急に悪かったと思った。」P318
(注:文中「聾」という差別語に類する表現がありますが、当時の文章のまま引用しました)

 
阿部に「聾かね」となじられたこの時の東善寺住職駒形痴道(こまがたちどう・東善寺19世住職)は、私(村上泰賢)の師村上照賢の師匠である。昭和10年に利根郡の寺から転住してきて2年後の昭和12年5月に東善寺は類焼火災に遭い本堂庫裡を全焼した。その2年後の昭和14年正月に仮本堂兼庫裡の小さな仮住まいで阿部の訪問を受けている。

 「本堂を一つ建てると、住職は寿命が10年縮む」といわれる。駒形痴道は火災以来、病身を押して本堂の再建事業に取り組んでいたから、急な訪問を受けて質問されても、心ここにあらずで「気が遠かった」のだろう。

 阿部の訪問4年後の昭和18年9月に本堂の棟上げにこぎつけるとその上棟式の日の夕方に倒れ、翌日息を引き取ってしまった。知らせを受けて駆け付けた弟子村上照賢は葬儀を済ませると、住職をしていた利根郡の寺を人に譲って家族を連れ、東善寺に入って再建の事業を引き継ぐと、戦中戦後の資金不足かつ人手も建築資材も大工のお茶さえ入手困難な状況の中で、再建事業に苦心した。

・「駒形痴道は…小栗さんに対して村の人々の考え方が支離滅裂であることも語った」P319
 「支離滅裂」がどういう内容か具体的でないが、いいイメージを与えない。駒形痴道は果たしてこう語ったろうか。
 村人の顕彰活動は小栗夫人の会津への脱出護衛から始まっている。明治以後もずっと供養顕彰を続け、合併して倉田村〜倉渕村の時代を通じても小栗上野介の顕彰活動を継続し、年忌供養の法要を欠かさず続けてきた。
 駒形が昭和10年に東善寺住職に着任した前後でいえば、
 
 ・昭和7年、水沼河原に顕彰慰霊碑を建立。
(昭和10年、水害で流出―発見―)
 ・昭和12年、顕彰慰霊碑を再建するにあたり、70年忌を実施、小栗上野介遺跡保存会(顕彰会の前身)を創立
 ・昭和12年5月、権田の市川亭三郎はNHK前橋放送局から「小栗上野介公を憶ふ」と題して業績を放送 (放送の数日前に東善寺は類焼失していた)
 
(昭和12年、東善寺焼失。昭和18年、本堂再建上棟式・駒形倒れ―翌日死去)
 ・昭和20年、小栗上野介追悼座談会を開催

と東善寺の類焼失や戦中の困難な時代にも継続して実施していて、駒形が「支離滅裂」と語る状況はない。
 
 阿部がやはり駒形痴道の言葉として

(東善寺が)永らく無住であった」P319

と書くが、東善寺住職は代々継続しているからそのような発言をするはずがない。これも

「菩提所は大宮在の禅寺ださうで首もそこに埋めてあると云ふことですが…」p316
と、権田へのバスの中で、そのような虚構を知るはずもない兵隊が語ったことにしているのと同工の、伝聞体の創作であろう。

 
阿部はこうした根拠のない権田へのマイナスイメージ創出によって、「群馬・権田・東善寺へ行っても意味がない、埼玉・大宮・普門院へ来ればじゅうぶん」と、相対的に普門院へのイメージアップを狙ったのでしょう、と土地の古老はいう。

           
 
その他の錯誤など
扉写真「小栗上野介」像の説明「ジョンストン撮影」
 当時は一般人の持つカメラはなく、写真撮影・現像・焼付けは専門の写真師がするものだから、「ジョンストン撮影」は誤り。

 
 この写真はポウハタン号乗組みのジョンストン大尉の著『チャイナ アンド ジャパン』(1861)に掲載の「小栗忠順の絵」を再び写真撮影したもの
 
 絵の元になった写真▼は、ブキャナン大統領が三使の写真を欲しいということで、1860年6月2日朝に写真師がウィラードホテルに派遣され、ホテル内の礼拝堂で撮影した遣米使節三使が並んだ写真。
                  
                 ▲ウィラードホテルで撮影した遣米使節三使の写真
                左から村垣淡路守範正・新見豊前守正興・小栗豊後守忠順
 同著『チャイナ アンド ジャパン』はこの写真から使節三名を彩色の銅版画にし、一人ずつ分けて掲載している。

・「大音は金貳拾五両を以て東善寺内に上野介主従の墓を建立…」P163
 

 
史実では、原保太郎らが小栗忠順主従を殺害した後、やってきた巡察使大音(おおと)龍太郎(りょうたろう)は江戸から運ばれたたくさんの家財を高崎へ運び、嶋屋で入札にかけ売り払って軍資金とした。
・「(慶応四年閏四月)廿四日、小栗公の諸道具決所(闕所)に相成、町内嶋屋にて入札有之候」(「柴田日記」)

 大音はそのうち二十五両を「これで供養してやるように…」と名主の佐藤藤七に渡して去った。大音が供養墓を建てたのではない。強盗殺人で奪った金を少し残していったようなもので、もともと小栗家の財産である。村人はこの資金をもとに墓石を建立し、利息を毎年供養の祭典費とした。
 明治18年に資金を預かっていた佐藤家が破産してのちは、東善寺の住職が法要を営んできた。

「一、大音(おおと)龍太郎(りょうたろう)の上州(小栗上野介)弔祀金二十五両をもたらし自ら権田村に来りてこれを東善寺に寄せたるは、閏四月十五日(一説に二十八日)なり。この二十五両は権田村名主佐藤藤七これを預かり、年々利子三両をもって四月六、七両日上州弔祭の法会を開きたり。明治十八年秋,藤七の子勘十郎破産したる後は、年々東善寺住職上州の法会を営む」(『上毛及上毛人』大正6年11月号))
  小栗主従の墓はこちら

◇本書の価値は以上の錯誤を考慮しても低下するものではない。

◇冒頭に書いたとおり戦前のあの時代に信念を持って小栗上野介顕彰に邁進した著者の情熱は本書に満ち、引用されたたくさんの関連書籍史料と共に、後学の小栗忠順研究者にとって貴重な光明となっている。

◇しかし、これまで地元民は本書による故なき誹謗に刊行以来70年間耐えてきたのも事実である。今回の復刻『小栗上野介正傳』に書いた「解説」中の上記の指摘文を読んだ古老いわく「これではまだ生ぬるいです」とのこと。それくらい悔しい思いに耐えてきたことを付しておく。

◇もし今回の指摘に不審・反論・不満があったら、70年後にしっかりご指摘願います。(2013平成25年文責村上泰賢)




小栗父子及び家臣の墓の側に咲く名花・小栗椿
会津へ脱出した道子夫人…護衛した村人

参考書…「館林市誌・歴史篇」(昭和44年)/「太政官日誌・慶応四年」
のほか、みやま文庫「小栗上野介」に、この首級盗掘のてんまつが詳しく書か
れています。