小栗上野介の顕彰 (東善寺)  ●  道子夫人の会津脱出行

会津へ逃れた道子夫人
播州林田藩主建部家の出身・苦難の脱出行―



播州林田藩主建部政醇の娘
道 子

◇小栗上野介の妻道子夫人は、播州(兵庫県)林田藩主建部政醇(たけべまさあつ)の娘。

     見つかった「馬の鞍」

◇2014平成26年5月、東善寺の古くなって使っていなかった土蔵を解体したところ、馬の鞍と鐙(あぶみ)が見つかり、鞍には建部家の家紋「三ツ蝶」がついていた。

◇小栗家の用人塚本真彦は、道子夫人が小栗家へ嫁ぐに際して建部家から移った家臣であるから、この鞍は塚本が使っていたものと思われる。

◇塚本一家は主君小栗忠順の移住に従って、真彦・母マキ・妻・娘シサ・娘◯・娘◯・男児◯、と計7人家族(幼男女4人・と大人3人)で権田へ移住し、東善寺に仮住まいしていた。

◇小栗忠順主従の災難に際して、塚本一家も悲劇に見舞われている。詳しくはコチラ

▲中央が鞍で家紋が付いている。左右が鐙 鞍のあて布類はボロボロだった。裏側に「延宝八年(1680)二月」と製作者の花押が彫られている。 ▲建部家の家紋「建部蝶」(上)と
「三ツ蝶」(下)

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建部家下屋敷(染井霊園)(ンク)


権田村を脱出

 1868(慶応四)年閏四月三日、いったん高崎へ引き上げた西軍がもう一度やってくるという情報を得て、小栗上野介は東善寺を出て、道子夫人をともない権田村字亀沢の大井彦八方に身を寄せていた。
 翌四日に、権田村名主の佐藤藤七がかけつけ「お戻りいただかないと、村の者が難儀いたします。西軍は引き揚げましたし、よくお話になればわかってもらえましょうから」と語るので、養嗣子の又一を高崎藩へ申し開きのためにつけてやったこともあって、道子とわかれ東善寺へ引き返した。道子夫人は村役人の中島三左衛門に託し、会津へ逃れるよう頼んだ。三左衛門は村人たちで護衛隊を作り、会津をめざし決死の脱出行に入る。亀沢で主人上野介との別れを悲しむ道子夫人の悲嘆は、居合わせた人々の涙を誘ったと言い伝えている。

会津へ脱出した小栗家の女性たち

権田の村人による護衛隊は小栗家の三人の女性を護って会津へ向かった。

夫人道子(30)=播州林田(姫路市林田町)藩主建部政醇(たてべまさあつ)の娘。
・上野介の母くに・邦子(63)=元新潟奉行小栗忠高の妻。小栗忠清の実娘でしばらく男子がなかったので忠高を婿として迎える。のちに弟数馬が生まれたので、数馬を旗本日下
(くさか)家へ養子に出す。
・又一の許婚鉞子(よきこ・15)=旗本日下数馬(小栗邦子夫人の実弟・日下家へ婿入り)の娘。6歳で小栗家の養女となる。

ヤマニ山田家 六合村和光原(中之条町)

会津脱出のコース

権田ー六合村ー地蔵峠ー秋山郷ー十日町ー六日町ー新潟(法音寺墓参)ー水原ー津川ー会津若松

・六合村和光原のヤマニ・山田家で三日ほど滞在休養して旅支度を整え、今でも車の通れない地蔵峠を越え秋山郷を目指す深い山道に分け入った。和光原ー野反池ー地蔵峠ー佐武流山の中腹ー和山、のコースである。
・くに、鉞子らは善光寺参りを装って、草津白根山の北、渋峠を越え信州回りで越後を目指した。
・二つの隊は、越後堀之内村で合流することが出来た。

金策に戻った二人

中沢兼五郎、塚越房吉は三左衛門に村へ戻って金を工面してくるよう命じられ、中条村から権田へ戻る。途中、白根山の中腹芳ケ平で警戒中の松代藩兵につかまり、牢屋へ入れられて取調べを受けたのち、許されてほうほうの態で権田へ着いた。しかし、すでに上野介が殺されたあとのことで、思うように金は用意できず、わずかな金をもって二人は再び会津へと向かった。松代に留められていたから越後回りでは追いつけないと考え、沼田ー片品ー尾瀬ー桧枝岐ー会津の「会津街道」をたどって会津若松に着き、一行と落ち合うことが出来た。

後を追った二人 

中沢兼五郎らが道子夫人を追って再び会津へ向かうと、その兄大井伝兵衛は、渡辺筆吉と共にその後を追って村を出た。いくらかのお金でも用意できたのであろうか。沼田ー川場村ー花咲(片品村)−戸倉は西軍が入っていて通れないのでー小川へ回り、小川の湯で2日滞在して様子をうかがった後、ー5月13日夜中に山を越えて(四郎峠と思われる)大清水ー尾瀬沼ー桧枝岐から会津へ入っている。このとき尾瀬沼付近で警戒していた会津藩士河原田信盛らに尋問を受けた記録が残っている。(『たつなみ』28号参照

忠高の墓参り

新潟は上野介の父小栗忠高が、新潟奉行として1854安政元年十月着任、翌1855安政二年七月二十八日病気のため47歳(1809文化6年1月3日生)で死んだ土地。翌安政三年三月二日、息子小栗忠順によって法音寺(新潟市西堀通り)の墓地に墓が建てられた。くににとっては、13年目にして初めて亡き夫の墓参をして会津へ向った。墓はいまも法音寺にある。
□村上泰賢編『小栗忠順のすべて』新人物往来社・正誤表
・P44-12行目 17歳で養子 →→ 5歳で
・P45−2   58歳で没   →→ 47歳で没

大隈重信(東善寺・小栗上野介)
大正2年9月、墓参する大隈重信夫妻。となりの綾子夫人は旗本三枝家の人で上野介の従妹にあたり、幼時に兄守富とともに小栗家で6,7年育てられた縁による。

会津戦争に加勢

護衛の村人は越後や会津で会津軍に加わってともに戦った。
そして三国峠・越後各地から会津へ入って転戦し、佐藤銀十郎(21)、塚越冨五郎(23)の二人の若者が戦死した。

佐藤銀十郎

権田出身。小栗歩兵の一人で築地講武所でフランス式陸軍の訓練を受ける。小栗上野介が権田へ移って三日目に暴徒に襲われたとき、機敏な活躍をして中小姓格に取り立てられる。夫人護衛の途中から会津軍町野源之助(主水)隊に加わって三国峠戦争や小出島の戦いに参加。喜多方市熊倉の戦いで戦死、21歳。熊倉の杉の下墓地(熊倉小の北の農道沿い)に墓がある。
喜多方市熊倉 杉の下墓地(東側入口から入って、正面の桜の左下)
正面の桜の大木の下に「佐藤銀十郎の墓」がある。遠くに飯豊山(いいでさん)の山波が白く光っていた。

佐藤銀十郎の墓
佐藤銀十郎の墓(東善寺・小栗上野介)
  正面右肩に「本国 上野」、
  中央に「佐藤銀十郎信一墓」、
  右側面「明治元戊辰年」、
  左側面「九月十一日行年二十一」  
と刻まれている。会津軍で共に戦った町野主水が建ててくれたのではないか、という推測があるが、もしかしたら下記の人物中根米七かもしれない。
<この墓は、昭和62年秋、小栗研究家の小板橋良平氏が所在を確認した。>


中根米七の墓
銀十郎の右隣は「中根米七の墓」 中根は戊辰戦争を銀十郎と共に戦ったえにしがあり、のち思案橋事件で追われる身となり、明治11年銀十郎の墓の前で割腹自害した。
墓修理 墓がだいぶ傾いたので、桜の根を切り、土台を据え直して真っすぐに直した。会津歴史研究会、喜多方史談会のメンバーも駆け付けて協力してくれた。2007平成19年11月6日
塚越冨五郎

権田出身 道子夫人の護衛隊に加わって会津へ行き、会津藩朱雀誠志隊に入って転戦、西会津の耶麻郡一竿(ひとさお・喜多方市高郷町萩野)の戦いで、対岸の西軍と撃ち合いになり胸を撃たれて戦死した。


塚越冨五郎慰霊碑建立 
平成元年11月5日

地元の協力を得て、縁故者塚越幸枝氏と小栗上野介顕彰会・東善寺が慰霊碑と看板を立てた。
塚越冨五郎慰霊碑 

遺体を埋葬した場所が不明なので、戦死した一竿の渡し場近くの墓地の一隅を借りて慰霊碑を建立した。かつて一竿漕いだだけで阿賀野川を対岸に渡れ、崖下に道があって、西軍はその道をやってきて撃ち合いになったという。(「会津戊辰戦史」参照)
地元の高郷史談会の皆さんが毎年秋に慰霊碑を掃除して大事に守ってくれている。

夫人ら、会津に入る

会津に入った夫人らの護衛隊は、横山主税常忠の家族に迎えられて保護された。主税は慶応3年のパリ万博の使節徳川昭武に会津藩士海老名郡治とともに同行し、フランスに遊学する。この前後に小栗上野介との交友が生まれたと思われる。閏4月29日に夫人らが到着したとき主税は、若年寄として白河表に進軍、5月1日に戦死する。会津城下も戦火が迫ってきたため夫人らは横山家を出て、南原の野戦病院に当てられていた農家へ避難する。

国子を出産

道子夫人は会津戦争さなかに南原の避難所で女児を出産、国子と名づけた。小栗上野介の唯一の遺児である。出産後、難を避けるためかさらに南へ行き松川村で冬を迎えた。
*南原、松川ともどこにいたのか詳細は判明していない。

静岡へ送る

 会津戊辰戦争は会津軍の降伏で終わった。そのまま冬を越した護衛隊一行は翌明治2年春会津をたって東京へ出、さらに静岡まで夫人らを送り届けて村へ戻った。そのころ静岡には徳川家達に従って、旗本日下家へ婿に入った忠順の母邦子の弟(忠順の叔父)日下数馬やその息子寿之助、小栗又一の実家の旗本駒井家や、道子夫人の妹はつがとついだ蜷川家が神田から移り住んでいた。

 乞食同然の姿で静岡から村へ戻った中島らは、何の報酬も受けることのない、無償のおこないだった。

 道子夫人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭・三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年55歳で死んだ後は大隈重信夫妻が保護して、遺児国子は育てられた。

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中根米七(リンク)

(2001・平成13年10月)