HP東善寺>小栗忠高墓  ●    新潟奉行小栗忠高(小栗上野介の父)の墓・大隈夫妻が墓参                   


             
 新潟奉行 小栗忠高の墓
(小栗上野介の父)
 小栗上野介の父小栗忠高は新潟奉行として赴任中に病死し、墓は新潟市法音寺にある。
新潟市中央区西堀通3番町804
墓誌の原文 墓誌の訓読 墓誌の現代語訳 大隈重信夫妻の墓参
 

墓石 表
「安政二年歳次乙卯」
正面小栗源忠高君之墓
「七月二十八日」
 
 
墓石 裏の「墓誌」 
部下であった杉浦吉陽の撰文で忠高の業績と人となりが彫られている。

                      墓誌の原文

君諱忠高、江都人。小栗忠清君之義子而故御留守居飛騨守中川忠英君之第四子也。忠清君与忠英君交厚、以故養君為嗣。文化十年忠清君。君嗣家称又一。小栗氏始祖忠政君仕神祖大君、毎戦輒有先登之功。乃賜又一之称以褒之。子孫欽慕其英武、世以此為通称云。

文政九年君為御小性組御番衆。天保十四年擢御使番、尋進西城御目付。弘化二年移御留守居番。四年転御持筒頭。安政元年閏七月為新潟奉行、十月至新潟。視事僅十月、二年七月二十八日病卒。距生文化六年正月三日、享年四十七、葬新潟法音寺。

君性仁厚而恭敬、好学善武技。其治新潟、待吏属以公平、教庶民以礼義。嘗欲卜曠平之地而為隊伍操練之場。蓋新潟港口信水所入而海舶輻湊之地、故将修海防之備。事未及設施而。嗚呼天仮之以年、則必将見士勇敢而守義、民淳樸而勧業、海防亦脩整也。豈不惜哉。

君幼游雪堂黒沢先生之門、与吉陽同師。及君為新潟尹、吉陽為其属吏。而非公事未嘗召見。其操心之公可知耳。

君配乃忠清君之女。有一男曰忠順。今為御書院御番衆兼進物番。忠順君具其行実、属文于余、以其有同門之交也。吉陽義不可以不文辞、故恭表於其墓。

             安政三年丙辰二月杉浦吉陽文并書孝子忠順建

 
 

          墓誌の訓読(読み下し)         

君は諱は忠高、こうとの人。小栗忠清君の義子にして故御留守居飛騨守中川忠英君の第四子なり。忠清君と忠英君と交はり厚く、故を以て君を養ひて嗣と為す。文化十年忠清君ぼつす。君は家を嗣ぎて又一と称す。小栗氏の始祖忠政君は神祖大君に仕へ、戦ふ毎に輒ち先登の功有り。乃ち又一の称を賜ひて以て之れを褒む。子孫は其の英武を欽慕し、よよ此れを以て通称と為すと云ふ。

文政九年君は御小性組御番衆と為る。天保十四年御使番にぬきんでられ、いで西城御目付に進む。

弘化二年御留守居番に移る。四年御持筒頭に転ず。安政元年閏七月新潟奉行と為り十月新潟に至る。事を視ること僅かに十月のみ、二年七月二十八日病みてしゅっす。生を距つること文化六年正月三日、年を享くること四十七、新潟の法音寺に葬らる。

君は性仁厚にして恭敬、学を好み武技を善くす。其の新潟を治むるや、吏属を待つに公平を以てし、庶民を教ふるに礼義を以てす。嘗て曠平の地を卜して隊伍操練の場と為さんと欲す。蓋し新潟港口は信水の入る所にして海舶輻湊の地なり、故に将に海防の備へを修めんとす。事未だ設施するに及ばずしてぼっす。嗚呼、天之れにすに年を以てすれば、則ち必ず将に士は勇敢にして義を守り、民は淳樸にして業を勧め、海防も亦た脩整するを見んとす。豈に惜しからざるや。

君は幼にして雪堂黒澤先生の門に游び、吉陽と師を同じくす。君新潟のおさと為るに及びて、吉陽を其の属吏と為す。しかれども公事に非ずんば未だ嘗て召見せず。其の心をるの公なる、知るべきのみ。

君の配は乃ち忠清君の女なり、一男有りて忠順と曰ふ。今、御書院御番衆兼進物番り。忠順君其のこうじつそなへ、文をわれしょくするは、其の同門の交はり有るを以てなり。吉陽義として不文を以て辞すべからず、故にうやうやしくして其の墓に表す。

安政三年丙辰二月、杉浦吉陽文ならびに書。孝子忠順建つ

 
                           
                      墓誌の現代語訳

君はいみなは忠高、江戸の人。小栗忠清君の義理の子息で、故御留守居飛騨守中川忠英君の四男である。忠清君と忠英君とは友情が厚く、ゆえに忠高君を養って後嗣とした。文化十年、忠清君が没した。忠高君は家を嗣いで又一と称した。小栗氏の始祖忠政君は、徳川家康公に仕え、戦うたびごとに、そのときはいつも一番槍の手柄を立てた。そこで、又一の称を与えて彼を褒めた。子孫はその英武を欽慕きんぼし、代々これを通称としたという。  

文政九年、忠高君は御小姓組御番衆となった。天保十四年、御使番にぬきんでられ、まもなく西城御目付に進んだ。弘化二年、御留守居番に移った。四年御持筒頭に転じた。安政元年閏七月新潟奉行となり、十月新潟に着いた。わずかに十ヶ月のみ政務を執り行い、二年七月二十八日病没した。文化六年正月三日の生まれ、享年四十七歳、新潟の法音寺に葬られた。

忠高君は性格が仁厚で恭敬、学を好み武技に長じた。彼が新潟を治めたとき、属吏を公平に扱い、庶民に礼法と道義を教えた。かつて広く平らな地を選んで軍隊の訓練の場にしようとした。およそ新潟の港口は信濃川が入る所で海舶が集まる地である、それで、まさに海防の備えを整えようとした。事がまだ計画施行するに及ばないうちに没した。ああ、天が彼によわいを貸してくれたならば、きっと士は勇敢にして義を守り、民は素直にして業を勧め、海防もまた整ったさまを見たであろう。どうして惜しくなかろうか。

忠高君は幼いとき黒澤雪堂先生の門に学び、吉陽(私)と師が同じである。君が新潟奉行となったとき、吉陽をその属吏とした。けれども、公事でなければ、一度も引見したことがなかった。彼が一部にかたよらないように心を引きしめたことがわかるのだ。

忠高君の妻は忠清君の娘であり、一人子息がいて忠順と言う。今、御書院御番衆兼進物番である。忠順君が忠高君の行跡をそろえ、文を私に依頼したのは、同門の交わりがあるからだ。吉陽は文章が下手だからといって、道義上から辞退できず、ゆえに恭しくして、この墓にあらわす。

安政三年丙辰二月、杉浦吉陽文また書。孝子忠順が建てた。 

     
 
訓読・現代語訳は安積国造神社宮司安藤智重氏
 大隈重信綾子夫妻の墓参

1913大正二年九月十四日、
新潟遊説中の大隈重信(左)は綾子夫人(隣)とともに法音寺を訪れ、
小栗忠高の墓参をした。
 

 
 
 大隈綾子夫人は小栗忠順の従兄妹に当たる。
 忠高はもと
旗本中川忠英ただてるの四男で、男子がいなかった小栗忠清の養嗣子となって小栗邦子と結婚し小栗家を継いだ。忠高の妹(名前不詳  )が中川家から旗本三枝さいぐさ七四郎頼永に嫁いで守富・綾子兄妹を生んだ。従って、綾子は小栗上野介忠順と従兄妹となる。

 もう一つ大事な縁があった。

三枝守富・綾子兄妹は幼少時に両親が亡くなったため、六~七年間、伯父小栗忠高家で育てられているから、忠順と兄妹同様に育ったことだろう。大隈綾子にとって忠高は馴染み深い伯父であり、小栗家はふつうの親戚以上に、深い恩のある家であった。

◆参考:
 大隈と結婚する前綾子は「料理屋に奉公」(朝比奈知泉『老記者の思ひ出』昭和13年)とか「誰々の妾めかけ」だったという噂を明確に否定したのが彫刻家高村光太郎の父光雲著『幕末維新回顧談』岩波文庫。光雲の父東雲が彫物師で旗本三枝家に出入りして信用を得ていたので、光雲よりひとつ年上の綾子についても詳しく書いている。


 

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