HP東善寺>小栗忠高墓 ●    新潟奉行小栗忠高(小栗上野介の父)の墓・大隈夫妻が墓参  
 Tozenji Temple > Grave of Tadataka Oguri (father of Kozukenosuke Oguri) Shigenobu Okuma and his wife Ayako visited the grave of Tadataka Oguri, a magistrate of Niigata.
             
 新潟奉行 小栗忠高の墓
(小栗上野介の父)

Grave of Tadataka Oguri, Niigata Magistrate
(Tadataka is the father of Kozukenosuke Tadamasa Oguri.)

 小栗上野介の父小栗忠高は新潟奉行として赴任中に病死し、墓は新潟市法音寺にある。
新潟市中央区西堀通3番町804
墓誌の原文 墓誌の訓読 墓誌の現代語訳 
忠高の命日のナゾ 息子忠順の人柄  大隈重信夫妻の墓参

Tadataka Oguri, father of Kozukenosuke Tadamasa Oguri, died of illness while serving as a magistrate of Niigata, and his grave is in Ho-onji Temple at 804 Nishiboridori 3-bancho, Chuo-ku, Niigata City.
Original text of the epitaph  Reading of the epitaph
Translation of the epitaph into modern Japanese  Shigenobu Okuma and his wife Ayako's visit to the grave

 

墓石 表
右「安政二年歳次乙卯」
正面小栗源忠高君之墓
左「七月二十八日」
 
Gravestone - Front side
Right: "The second year of the Ansei era, Saiji-Kinoto"
Center: "Grave of Minamotono Tadataka Oguri"
Left: "July 28th"
 
墓石 裏の「墓誌」 
部下であった杉浦吉陽の撰文で忠高の業績と人となりが彫られている。

"Epitaph" on the back of the gravestone
The inscription, compiled by his subordinate Kichiyo
Sugiura, depicts Tadataka's accomplishments and personality.

 

墓誌の原文
Original Text of the Epitaph

 

君諱忠高、江都人。小栗忠清君之義子而故御留守居飛騨守中川忠英君之第四子也。忠清君与忠英君交厚、以故養君為嗣。文化十年忠清君。君嗣家称又一。小栗氏始祖忠政君仕神祖大君、毎戦輒有先登之功。乃賜又一之称以褒之。子孫欽慕其英武、世以此為通称云。

文政九年君為御小性組御番衆。天保十四年擢御使番、尋進西城御目付。弘化二年移御留守居番。四年転御持筒頭。安政元年閏七月為新潟奉行、十月至新潟。視事僅十月、二年七月二十八日病卒。距生文化六年正月三日、享年四十七、葬新潟法音寺。

君性仁厚而恭敬、好学善武技。其治新潟、待吏属以公平、教庶民以礼義。嘗欲卜曠平之地而為隊伍操練之場。蓋新潟港口信水所入而海舶輻湊之地、故将修海防之備。事未及設施而。嗚呼天仮之以年、則必将見士勇敢而守義、民淳樸而勧業、海防亦脩整也。豈不惜哉。

君幼游雪堂黒沢先生之門、与吉陽同師。及君為新潟尹、吉陽為其属吏。而非公事未嘗召見。其操心之公可知耳。

君配乃忠清君之女。有一男曰忠順。今為御書院御番衆兼進物番。忠順君具其行実、属文于余、以其有同門之交也。吉陽義不可以不文辞、故恭表於其墓。

             安政三年丙辰二月杉浦吉陽文并書孝子忠順建

 

 

墓誌の訓読(読み下し)
Tombstone kundoku-reading

▲焼失前の東善寺本堂 室中の間
床の間の軸・左が墓碑裏面の墓誌拓本

 

君は諱は忠高、こうとの人。小栗忠清君の義子にして故御留守居飛騨守中川忠英君の第四子なり。忠清君と忠英君と交はり厚く、故を以て君を養ひて嗣と為す。文化十年忠清君ぼつす。君は家を嗣ぎて又一と称す。小栗氏の始祖忠政君は神祖大君に仕へ、戦ふ毎に輒ち先登の功有り。乃ち又一の称を賜ひて以て之れを褒む。子孫は其の英武を欽慕し、よよ此れを以て通称と為すと云ふ。

文政九年君は御小性組御番衆と為る。天保十四年御使番にぬきんでられ、いで西城御目付に進む。

弘化二年御留守居番に移る。四年御持筒頭に転ず。安政元年閏七月新潟奉行と為り十月新潟に至る。事を視ること僅かに十月のみ、二年七月二十八日病みてしゅっす。生を距つること文化六年正月三日、年を享くること四十七、新潟の法音寺に葬らる。

君は性仁厚にして恭敬、学を好み武技を善くす。其の新潟を治むるや、吏属を待つに公平を以てし、庶民を教ふるに礼義を以てす。嘗て曠平の地を卜して隊伍操練の場と為さんと欲す。蓋し新潟港口は信水の入る所にして海舶輻湊の地なり、故に将に海防の備へを修めんとす。事未だ設施するに及ばずしてぼっす。嗚呼、天之れにすに年を以てすれば、則ち必ず将に士は勇敢にして義を守り、民は淳樸にして業を勧め、海防も亦た脩整するを見んとす。豈に惜しからざるや。

君は幼にして雪堂黒澤先生の門に游び、吉陽と師を同じくす。君新潟のおさと為るに及びて、吉陽を其の属吏と為す。しかれども公事に非ずんば未だ嘗て召見せず。其の心をるの公なる、知るべきのみ。

君の配は乃ち忠清君の女なり、一男有りて忠順と曰ふ。今、御書院御番衆兼進物番り。忠順君其のこうじつそなへ、文をわれしょくするは、其の同門の交はり有るを以てなり。吉陽義として不文を以て辞すべからず、故にうやうやしくして其の墓に表す。

安政三年丙辰二月、杉浦吉陽文ならびに書。孝子忠順建つ

 
                           
墓誌の現代語訳
Contemporary Translation of the Epitaph

 

君はいみなは忠高、江戸の人。小栗忠清君の義理の子息で、故御留守居飛騨守中川忠英君の四男である。忠清君と忠英君とは友情が厚く、ゆえに忠高君を養って後嗣とした。文化十年、忠清君が没した。忠高君は家を嗣いで又一と称した。小栗氏の始祖忠政君は、徳川家康公に仕え、戦うたびごとに、そのときはいつも一番槍の手柄を立てた。そこで、又一の称を与えて彼を褒めた。子孫はその英武を欽慕きんぼし、代々これを通称としたという。  

文政九年、忠高君は御小姓組御番衆となった。天保十四年、御使番にぬきんでられ、まもなく西城御目付に進んだ。弘化二年、御留守居番に移った。四年御持筒頭に転じた。安政元年閏七月新潟奉行となり、十月新潟に着いた。わずかに十ヶ月のみ政務を執り行い、二年七月二十八日病没した。文化六年正月三日の生まれ、享年四十七歳、新潟の法音寺に葬られた。

Your name is Tadataka and you are a native of Edo. You were the son-in-law of Tadakiyo Oguri, and the fourth son of the late Hidanokami Tadateru Nakagawa, who was in charge of Orusuiban in the Shogunate, taking care of the Edo Castle while the Shogun was out of the office. The friendship between Tadakiyo and Tadateru was so strong that Tadakiyo nurtured you and made you his successor. After Tadakiyo died in 1813 (the 10th year of Bunka), you succeeded to the family and assumed the name of Mataichi. Tadamasa (4th family head of the Oguri Family), the founder of the Oguri clan, served Ieyasu Tokugawa and always took credit for the best spear in every battle. He was praised with the title of "Mataichi" derived from "Mata Ichiban (He did it first agein)." His descendants admired him for his bravery and valor, and this became their common name from generation to generation.
In 1826 (Bunsei 9), Tadataka-kun became a member of the Okoshogumi-Gobanshu (Guards at the palace or mansion of the shogunate, the Imperial Court, or a feudal lord's family, and was in charge of security and miscellaneous duties). In 1843, Tadataka-kun was selected as a Goshiban, and was soon promoted to the post of Saijo-Ometsuke. In 1845 (Koka 2), Tadataka-kun was transferred to the post of Orusuiban. In 1847 (Koka 4), Tadataka-kun was transferred to the position of Omochizutsugashira. In leap July of 1854 (Ansei 1), Tadataka-kun was appointed magistrate of Niigata, and arrived in Niigata in October. He served only for ten months, and died of illness on July 28, 1855 (Ansei 2). He was born on February 16, 1809 (January 3, Bunka 6). Tadataka-kun died at the age of 47 and was buried at Ho-onji Temple in Niigata.

忠高君は性格が仁厚で恭敬、学を好み武技に長じた。彼が新潟を治めたとき、属吏を公平に扱い、庶民に礼法と道義を教えた。かつて広く平らな地を選んで軍隊の訓練の場にしようとした。およそ新潟の港口は信濃川が入る所で海舶が集まる地である、それで、まさに海防の備えを整えようとした。事がまだ計画施行するに及ばないうちに没した。ああ、天が彼によわいを貸してくれたならば、きっと士は勇敢にして義を守り、民は素直にして業を勧め、海防もまた整ったさまを見たであろう。どうして惜しくなかろうか。

忠高君は幼いとき黒澤雪堂先生の門に学び、吉陽(私)と師が同じである。君が新潟奉行となったとき、吉陽をその属吏とした。けれども、公事でなければ、一度も引見したことがなかった。彼が一部にかたよらないように心を引きしめたことがわかるのだ。

忠高君の妻は忠清君の娘であり、一人子息がいて忠順と言う。今、御書院御番衆兼進物番である。忠順君が忠高君の行跡をそろえ、文を私に依頼したのは、同門の交わりがあるからだ。吉陽は文章が下手だからといって、道義上から辞退できず、ゆえに恭しくして、この墓にあらわす。

安政三年丙辰二月、杉浦吉陽文また書。孝子忠順が建てた。  

Tadataka-kun was a man of kind and respectful character, fond of learning, and skilled in the martial arts. When he ruled Niigata, he treated the local officials fairly and taught the common people manners and ethics. He once selected a large, flat area of land to train his army. The harbor entrance of Niigata was where the Shinano River entered the city and where vessels gathered, so he wanted to prepare for the defense of the sea. But he died before he could even begin to implement his plan. Ah, if only the heavens had lent him their blessings, he would have seen his men being brave and righteous, his people being honest and encouraging in their work, and his sea defenses being in place. How can we not spare a thought for that?
Tadataka studied under Setsudo Kurosawa when he was a young boy, and he and Kichiyo (myself) shared the same teacher. When Tadataka became the magistrate of Niigata, Kichiyo was appointed as his official. However, I never once saw him unless it was an official matter. It is evident that he was determined not to be partial.
Tadataka's wife was the daughter of Tadakiyo, and they had one son, Tadamasa (12th family head of the Oguri Family who is different from Tadamasa, the 4th family head), who is now at the post of Goshoin-Gobanshu-ken-Shinmotsuban. It is because of our friendship in the same department that Tadamasa-kun asked me to summarize the personal history and accomplishments of Tadataka-kun and write about him. Kichiyo (myself), from a moral standpoint, could not decline the offer because of my poor writing, so I reverently wrote about Tadataka in this tomb.
Written and inscribed by Kichiyo Sugiura in March, 1856 (February, Ansei 2). Erected by Tadataka's son Tadamasa.

訓読・現代語訳は安積国造神社宮司安藤智重氏
(Translated into modern Japanese by Mr. Tomoshige Ando, Priest of Asaka-Kunitsuko Shrine)

 

 この墓碑の撰文者:杉浦吉陽について

  撰文者の杉浦吉陽を探ってみよう。吉陽は、書家・漢学者として知られた幕臣の杉浦吉統の子息である。吉統は、江戸幕府の昌平坂学問所で書物の清書に従事し、小栗忠高の実父である中川忠英【ただてる】が勘定奉行であった時に勘定所の役人に登用された。中川や同じく勘定所の役人である大田南畝(蜀山人)とは、学者・文人としても交流している。

 その子息である吉陽は、天保14(1843)に新潟が江戸幕府の直轄領となった際、新潟奉行の川村修就ながたかに抜擢されて奉行所の定役となって新潟に下向した。小栗忠高と同じく漢学者の黒沢惟直(;雪堂)に学んだ学者でもあった吉陽は、奉行所の役人として勤務する一方、川村が奉行所内に設けた学問所の観光館などで漢籍の講義を担当した。観光館の講義は、日を決めて町人らの聴講も許可し、また新潟奉行所の役人の子弟から昌平坂学問所が実施した学問吟味の試験で甲科及第(最高評価での合格者)となる者を輩出するなど、新潟の学問文化の興隆に寄与した。

 吉陽の後継者である杉浦大吉も新潟奉行所の定役見習となっていたが、慶応212月、吉陽の病のために辞職し、父子ともに江戸に戻った。                 


 東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖氏より寄稿いただきました 
  ○参考:HP新潟郷土史研究会 https://actros.sakura.ne.jp/wp/?m=202212
小栗忠高墓碑銘再考 -杉浦吉統・吉陽父子にみる江戸後期の学問世界-
2022令和4年12月18日例会での杉山巌氏講演
 
 
 
忠高の命日のナゾ  

7月10日・12日・28日 の3説あり
   
▲東善寺の位牌 七月十日とある      ▲法音寺(新潟)の位牌は 七月二十八日 
 
 忠高の命日について以下の3説がある
1 7月12日説・・・「七月十二日明け方に御死去」(『小泉蒼軒日録』)  しかし奉行所の『諸御用日記』には何も書かれていない。
2 7月28日説・・・菩提寺の法音寺の墓碑・位牌とも「七月二十八日」と命日が書かれている。
            奉行所の準公式日記『諸御用日記』には「・・・廿八日卯ノ上刻御死去」(午前五時四〇分頃死去)
3 
7月10日説・・・これが本当の命日と考えられる。
・・・慶応三年四年の『小栗日記』は七月十日を命日としている。東善寺に残る忠高の位牌にも「七月十日」とある。
・・・『小栗日記』慶応三年、四年を見ると、毎月十日に「忠高院様御忌日ニ付、保善寺へ代拝(武笠)祐左衛門罷出候」と武笠祐左衛門が代参している。
・・・慶応三年一月十日・二月十日は忠順が「年始で参拝」、三月十日・四月十日・五月十日・六月十日は「お母様が参詣」、七月九日は「忠高院様御祥              月御逮夜」、七月十日は「忠高院様十三回忌御法事」で忠順と「お母様春光院殿同道にて」参詣、八月十日・九月十日・十月十日は「(用人の吉田)              好三が代拝」・十一月は記載なし、十二月十日・慶応四年は一月十日・二月十日「好三が代拝」・三月と四月は権田村へ移ったので、関連の記述な
              し。
・・・以上から考察して実際の命日は七月十日が正しい、と考えられる。

   ・『小泉蒼軒日録」は聞き書きによって2,3ヶ月後に書かれていることから、細かいことでは信憑性に欠ける。
   ・奉行所の非公式記録『諸御用日記』は下記の事情を考慮して、七月十日に死去したことを伏せて忠順の到着を待ち、到着後に跡目相続願のための「看病ー死去ー
    葬儀」のストーリーに沿って命日を「七月二十八日」とし、翌二十九日に葬儀を実施した。

 七月十日に死去したのに、新潟の『諸御用日記』『法音寺墓碑と位牌』は七月二十八日とした
   
命日のズレは小栗家の跡目相続手続きのため
      
 江戸時代初期は嫡子がいない大名・旗本が急病になると、あわてて養子をとって跡継ぎにすることは「末期(
まつご)養子の禁」として認めなくなったので、御家断絶となった大名や旗本はたくさんあった。しかしそれでは仕官先を失った牢人が増え、社会不安の因となったことから、幕府はしだいに禁をゆるめ、場合に応じて条件付きで跡目相続を認めるようになった。  

 小栗忠高の場合、嫡子の忠順(数え29歳)はいたが、当主忠高がこの時47歳で「当主が五十歳未満」であったため条件に合わず、前もって跡目願いを提出できないまま、急病で七月十日に死去したので、とりあえず妻邦子はじめ奉行所全体で、忠高の死を隠したと思われる。そして嫡子の忠順が江戸から二十四日に到着、看病するうち「しだいに病が重くなった」ので二十七日に(忠高が書いたとする)跡目相続願いの手続きを済ませると、二十八日に死去したとして、二十九日(この年は七月二十九日が七月晦日だった=七月三〇日はなかった=西暦1855年9月10日)に葬儀を行ったと解釈できる。

◇東善寺蔵の『小栗氏先祖考』に関連する次の記述がある
 「・・・又一忠高儀新潟奉行相勤候節 同年七月父忠高病気付為看病御暇奉願候處 即日願之通酒井右京亮殿被仰渡候旨大岡豊後守申渡 翌日発足仕同月廿四日彼地罷越候處 追々病気差重候付 同廿七日跡目奉願置 翌廿八日病死仕候 同年十月廿二日又一忠高奉願置候通跡式無相違私被下置旨 於菊之間御老中御列座久世大和守殿被仰渡
 「(自分の父である)小栗又一忠高は新潟奉行を勤めておりましたところ、安政二年七月(十六日)父が病気になった(知らせが新潟から届いた)ので、看病のための御暇を願い即日に酒井右京亮様忠毗(ただます)・越前敦賀藩の第七代藩主・若年寄)からの許可を大岡豊後守から伝えられ、翌日(十七日)に出発し七月廿四日に新潟へ着きました。追々病状が重くなりましたので、廿七日に(父忠高から)跡目相続の願書を差し上げ、翌廿八日に病死いたしました。そして同年(安政二年)十月二二日(父)又一忠高が願い置きました通りに跡式(家督)が相違なく私へ下されることが城中菊之間にて御老中列座され久世大和守様(広周・下総関宿藩主)から仰せ渡せられました・意訳村上泰賢」

 ・跡目相続願書 は忠高本人が書かないと有効にならないことがわかる。命日をずらせた一番の理由であろう。
 ・この流れをまとめると、七月八日九日頃に急病重態となり、母邦子は江戸小栗家へ連絡の急便を発した。十日に忠高死去(奉行所は死去を伏せて重病とした)。十六日に父危篤の報せを受けた忠順は病気見舞いの休暇願を酒井右京亮忠へ提出し,即日に許可が大岡豊後守から伝えられた。翌日十七日に江戸を出立、七月二十一日三国峠を越えて
 (by『永井宿本陣文書』廿一日 小栗剛太郎様御通行御小休 新潟御奉行様若殿様御奉行小栗又一様新潟ニ而御死去被成候ニ付、御嫡子様御出之事、右奉行様替りニ相成候事 とあり、忠高死去の知らせはこの永井宿まで届いていたことがわかる)
二十四日に新潟に到着。(看病の後に忠高が死去したとして)二十八日に死去、と公表。二十九日に葬儀。八月二日に母とともに新潟を出立して江戸へ戻った。

◇新潟奉行所『諸御用日記』の、実際に死去したと思われる七月十日の記事を見ると

「このほど小栗又一(忠高)様が重病なので、十一日朝に検断・年寄・町代・普請方は一同袴羽織姿で役所玄関まで、ご機嫌伺いに来るように」

という沙汰を町役人に出している。町役人たちはすでに噂でお奉行様死去の事実を知りながら、奉行所の措置に合わせ羽織袴姿になって、武家の跡目相続手続きに同情しつつ玄関先で「ご機嫌伺い」という弔問をしたことだろう。葬儀の後に造られた法音寺の墓も位牌も、すべて七月二十八日死去のシナリオに沿って作製されたと見られる。

新潟奉行といえば地方長官であるから、二十四日に忠順が到着するとさっそく旅の疲れを取る間もなく忙しい打合せが待っていた。まず奉行所の父忠高の旧部下たちと葬儀の段取りとして、正式な死亡発表と葬儀の段取り打合せ、墓をどこに設けるか、穴掘り人足の依頼、葬列に動員する供の役柄と担当者・人数を決定、その衣装調達、
 例:「・・・葬儀埋葬の際の棺持人足廿人の紺看板白丁(はくちょう)衣裳、又(ちょう)(ちん)、香炉などを持った人夫十二人が着た浅葱色の看板白丁など『小泉蒼軒日録』
そのほか引出物手配、葬儀に参列してもらう然るべき人物への通知、など新潟奉行所が始まって以来初めての「現職奉行死去」という事態で前例がなく、つぎつぎに施主忠順の判断決定によって決まっていっただろう。

 さらにその裏で忠順は小栗家跡目相続の手続をしなければならない。「二十四日新潟到着ー看病ー(父が書いた体裁の)跡目相続願い提出ー死去」の報告書と跡目相続の申請書を何種類も書いて、次々に江戸へ向けて発送していたことであろう。

 
 葬儀で垣間見せた息子剛太郎忠順の人柄
 

『小泉蒼軒日録』(平成六年・新津市発行)  安政二年十月廿四日 より

現代語訳(訳 村上泰賢)(原文は省略・『たつなみ』46号を参照されたい)

 「ご子息の剛太郎(忠順)様が廿八日(廿四日が正しい)に新潟へお着きになった。廿九日に本葬を行ない、八月二日に新潟をお引払いになった。菩提寺の法音寺へ寄進された物は、永代供養料としてニ人扶持、百ヶ日までの供養料。一周忌から代参のつどの宿は医師中川良庵宅となる。
 又御身辺の品である裃、袴、羽織、南蛮銕の縁が入った立烏帽子、鎗一本、狩野某の描いた掛軸一本、馬の代金を始め御辺の品々代金の分として百二十七両を奉納。さらに黒塗りの膳椀百人分、畳五十畳。ほかに葬儀埋葬の際の棺持人足廿人の紺看板白丁はくちょう衣裳、又挑灯ちょうちん、香炉などを持った人夫十二人が着た浅葱色の看板白丁などもみなそのまま彼らに下さった。新潟をお引払いの際は召使いの者(の給料)や物売り女の借りまですっかり清算し、奥方がいろいろな道具類のうち新潟で調えられた品は、大概お持ち帰りになるだろうと思っていたところ、新潟で入手した程度の品は江戸でも手に入るから、とおっしゃってそのまま残した品が多い。
 きれいに始末されたので、立ち会った人々が感じ入り、「今はお若いから何とも申し上げようもないが、ゆくゆくこの御方は新潟奉行になられるのではないか」と人々が噂したという。知行地は上州にあって、内高が二万石もの収入があるから、たいそう裕福なのだと、すべてその真偽の程はわからないが、耳にしたまま書いておく。」
  
 
 大隈重信綾子夫妻の墓参
1913大正2年9月14日、
新潟遊説中の大隈重信(左)は綾子夫人(隣)とともに法音寺を訪れ、
小栗忠高の墓参をした。

Shigenobu Okuma and his wife Ayako's Visit to the Grave
On September 14, 1913 (Taisho 2), Shigenobu Okuma (2nd from left in the picture below), on a tour of Niigata, and his wife Ayako (next to him) visited the grave of Tadataka Oguri at Ho-onji Temple.


 
 
 大隈綾子夫人は小栗忠順の従兄妹に当たる。
 忠高はもと
旗本中川忠英ただてるの四男で、男子がいなかった小栗忠清の養嗣子となって小栗邦子と結婚し小栗家を継いだ。忠高の妹(名前不詳  )が中川家から旗本三枝さいぐさ七四郎頼永に嫁いで守富・綾子兄妹を生んだ。従って、綾子は小栗上野介忠順と従兄妹となる。

 もう一つ大事な縁があった。

三枝守富・綾子兄妹は幼少時に両親が亡くなったため、六~七年間、伯父小栗忠高家で育てられているから、忠順と兄妹同様に育ったことだろう。大隈綾子にとって忠高は馴染み深い伯父であり、小栗家はふつうの親戚以上に、深い恩のある家であった。

◆参考:
 大隈と結婚する前綾子は「料理屋に奉公」(朝比奈知泉『老記者の思ひ出』昭和13年)とか「誰々の妾めかけ」だったという噂を明確に否定したのが彫刻家高村光太郎の父光雲著『幕末維新回顧談』岩波文庫。光雲の父東雲が彫物師で旗本三枝家に出入りして信用を得ていたので、光雲よりひとつ年上の綾子についても詳しく書いている。

Mrs. Ayako Okuma is a cousin of Kozukenosuke Tadamasa Oguri. Tadataka was the fourth son of former Hatamoto Tadateru Nakagawa, and was adopted by Tadakiyo Oguri, who had no son. Tadataka later married Kuniko Oguri, who succeeded to the Oguri family. Tadataka's younger sister (name unknown) married Hatamoto Shichishiro Yorinaga Saigusa from the Nakagawa family and gave birth to Moritomi and Ayako. Ayako was therefore a cousin of Kozukenosuke Oguri Tadamasa.  

There was another important connection. Moritomi and Ayako Saegusa were raised by their uncle Tadataka Oguri for six to seven years after their parents died when they were young, so they must have been raised like Tadamasa's siblings. For Ayako Okuma, therefore, Tadataka was a particularly familiar uncle, and the Oguri family was a family to whom Ayako Okuma owed a deeper debt of gratitude than ordinary relatives.

<Reference> The rumor that Ayako was "a cook at a restaurant" (Chisen Asahina, "An Old Reporter's Memoirs," 1938 or Showa 13) or "she was a concubine of someone" before marrying Okuma is clearly denied in "Bakumatsu Ishin Kaikodan" by Koun Takamura, father of Kotaro Takamura, a sculptor, Iwanami Bunko. Koun's father, Toun Takamura, was an engraver who ofen visited the Hatamoto Saigusa family and gained their trust, so Koun wrote in detail about Ayako, who was one year older than him.

 

関連資料
◆小栗上野介顕彰会機関誌『たつなみ』46号「小栗忠高と大隈夫妻の墓参」/同47号「命日のナゾは跡目手続きの時間」
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関連ページ

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Mrs. Michiko Oguri who fled to Aizu

"Welcoming Kozukenosuke Oguri's head" by Sanzaemon Nakajima and others who recovered the heads of Kozukenosuke Oguri and his son from Tatebayashi after their return from Aizu.
The first "Kozukenosuke Oguri Data Panel Exhibition" in Aizu

Mountain trip to Akiyamago along the "Road of History"

Yoneshichi Nakane (Link)