小栗上野介随想 (東善寺)   幕末の構造改革―ネジをお土産にした小栗上野介―

幕末の構造改革
―ネジをお土産にした小栗上野介―

 「日本を欧米のような近代国家にするには、こういう造船所を造ることが第一歩だ」、一八六〇(万延元)年ワシントン海軍造船所を見学した遣米使節小栗上野介はこう確信した。

 チョンマゲ姿で訪れたアメリカは、映画『風とともに去りぬ』の世界。汽車が走り、ガス燈がともり、電信機が情報を伝え、フェリーが汽車を載せて河を渡った。ホテルの柵は鉄棒、川には鉄の橋が五つも見える。町外れに使われなくなった鉄製品が捨てられ、誰も拾う者がいない。「この国は鉄があふれている!」。痛切な実感だった。 

フェリー 「蒸気車を蒸気船にて渡す」
フィラデルフィア近くで河を渡った遣米使節一行
(佐藤藤七『小栗忠順従者の記録』上毛新聞社刊より)

では木の国日本を鉄の国に変えるには何から手をつけたらスタートラインに立てるか、それを模索しているとき案内されたのが造船所だった。そこは製鉄を基盤として、あらゆる鉄製品を作り、出来た部品をつなぐネジも作る。黒船はまだ木造船体だから木工場もある、それら工場の向こうで「船も」作っている、要するに総合工場だった。

 帰国五年後に小栗が提案して建設されたのが横須賀造船所。ワシントンで見たのと同じ総合工場で、製綱(ロープ)所、製帆所、旋盤所などたくさんの工場で作られた工業製品が日本の近代工業の先進地横須賀から産み出されていった。「横須賀は日本近代重工学の源泉」(『三浦半島記』)と司馬遼太郎がたたえるゆえんである。

 小栗の帰国後八年間はさらに忙しい。日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立して外国商人の大資本に対抗できる商社活動を展開させ、小布施の豪商高井鴻山を説いて新潟港に船会社設立をうながし、清水喜助(清水建設二代目)に民間資本の株式会社の手法で洋式ホテル「築地ホテル」を慶応四年夏に完成させる。洋式陸軍制度を取り入れ横浜に仏人教師の指導で歩、騎、砲兵の三兵訓練所を設け訓練する。それらのために設けた仏語伝習所(横浜)で学んだ若者を、横須賀や陸軍に派遣し通訳させる。

 さらには兵庫商社の利益でガス燈設置や郵便制度の設立、横浜―江戸間に鉄道の建設、などを提案、「日本近代化のレールは小栗上野介が敷いた」と言われるのもうなずける。

 慶応四年春、幕府崩壊で家族とともに知行地の上州権田村に移住し、学校設立を考えていた小栗を捕らえ、無実の罪を着せて殺害したのは明治新政府軍。明治五年から始めた学校教育で現在も小栗の業績を教えないのは、小栗主従八人を殺したあと家財を奪って西軍の軍資金にしたため。

 いま、小栗上野介がワシントン造船所から持ち帰って配ったネジくぎが菩提寺東善寺に残る。「こういうものをどんどん作れる国にしたい」という意味の土産であった。

(元陸軍士官学校61期生会第34回総会群馬大会『プログラム』寄稿・2005年10月)

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