小栗上野介随想 (東善寺)   和暦と西暦の読み違いで小栗上野介の濡れ衣

小栗の濡れ衣
和暦と西暦の読み違いから


濡れ衣の内容・・・「小栗上野介は退職後も抗戦準備をしていた」

 勝部真長(かつべみたけ)著『勝海舟』p183(PHP出版・平成4年)に

「小栗上野介は慶応四年一月十五日に勘定奉行を退職後も武器購入に奔走していた。フランス人ビグエーの明治元年2月6日付けの小栗上野介宛書簡に≪小銃千挺と弾薬八万発≫の請求書が残っている」
(要旨)

とある。勝部氏はお茶の水女子大学名誉教授で勝海舟研究家として著名だから読んだ方も多いことでしょう。
 小栗上野介は勘定奉行を免職後もまだ主戦論者として武器の購入に奔走していたのだから、西軍に殺されるのは当然、ということになる。

 はたして本当にそんなことがあったのでしょうか。

不審

 このころの小栗上野介の行動を見ると・・・
慶応四年一月十五日に勘定奉行及び陸軍奉行・海軍奉行などを免職となると、
一月二十八日には権田村への「帰農願」を幕府に提出して
翌二十九日に許可を得ました。
問題の2月6日ごろは、権田村への移住の準備に入っていた時期です。

 これから家族を連れて上州の山村に移住し、江戸からお茶の木や庭の植木を運び、農業をするつもりで準備し、用人塚本真彦も幼児を含めた家族を連れて移住しようとしている時期の言動に照らしすと、上記の勝部氏の話を加えれば
「家族連れで庭の植木まで運んで、いくさに出かける」
という、つじつまが合わないことになる。


 しかも幕府の公職を解かれた後に、「小銃千丁弾薬八万発購入」のような裁量をする権限や資金があるものだろうか。

▼屋敷を建て始めた観音山は杉木立のあたり(倉渕村権田)・背景は榛名山

    西暦と和暦の読み違いで着せられた濡れ衣
        
・・・と判明

 勝部氏の文章は、次の本の史料を元にして書いています。

法学博士尾佐竹猛著『国際法より観たる 幕末外交物語』(大正15年)、および
同『幕末外交秘史考』(昭和19年)…にある史料(フランス人書簡) ▼

■フランス人から小栗上野介宛の書簡 
          横浜 1868年2月6日
   小栗上野介閣下
               江戸
   大 臣 殿
小生は三浦敬之助氏により小生に届けられたる手紙を受け取るの光栄を有す。小生はこの役人にすでに述べたるごとく貴下ご要求のシャスポー式小銃千挺弾薬の引渡しは八万ドルの額に対して引き換えにあらざれば、なすことを得ず。小生は貴下の望みを容るることあたわざるを悲しむ。しかれども小生が貴下に渡したる仕切り書は、小生が貴下に前もって指示せられたる送金なくして貴下のお話ありし交付の責任をとるために非常に重要なり。
            敬意を以って   F.ビグエー
(尾佐竹猛著『国際法より観たる 幕末外交物語』(大正15年)より引用。口絵写真にこの手紙もあり)
 
 この史料を根拠として書いているわけだが、ここで書簡の「1868年2月6日」という日付に注意されたい。

 当時日本では和暦(太陰暦・旧暦)、西洋では西暦(太陽暦・新暦)を用いていたことはご存知のとおり。そのために日本在住歴の長い外国人は手紙に日付を書くとき
「1868年○月○日日本○月○日」
と、
西暦のあとに和暦の日付けを並べて書く人もいた。(1860年○月○日イコール日本では◯月○日、という意味になる。尾佐竹氏の上記の著にもその例がいくつか見られる。)

 ここで問題にしているビグエー氏の手紙のように、西暦だけが書いてある場合は、もちろん西暦の日付である。

 ではこの日(西暦の
1868年2月6日)は和暦では何日か、調べると「慶応四年一月十三日」である。

 この十三日は小栗上野介は勘定奉行・陸軍奉行・海軍奉行在職中で、鳥羽伏見の戦いから逃げ帰った将軍慶喜を含め西軍と戦うか恭順するか幕府として決めかねていた最中のこと。新しい政府の青写真は示さないまま攘夷と討幕を主張する西軍との戦いに備え、武器を調達していたのは在職中の幕府責任者の職務として当然のこと。
 しかも上記の書簡は武器引き渡しの条件を伝えるものだから、銃器の発注は当時の交通運輸事情から見てこれよりも最低数ヶ月以前と考えられる。銃器の発注も受取り条件提示もすべて在職中のことであるのに、勝部氏が
「退職後も武器購入に奔走していた」  
と書くのは和暦と西暦の差を無視して小栗上野介にマイナスイメージを植え付けた乱暴な話といえよう。
 繰り返しになるが、小栗上野介が勘定奉行その他役職を免職になったのはその翌々日の一月十五日である。


    年号の使用に不自然な策意
 こまかく言えば、年号が慶応から明治元年になったのは慶応四年九月八日からだから「明治元年2月6日」という月日は存在せず、勝部氏の書き方は、こういう文章の場合は正確を欠く。もしすべてさかのぼって「明治」で統一するなら、退職月日も明治元年一月十五日とすべきであろう。

 それなのに冒頭に引用した『勝海舟』文中で
小栗上野介は慶応四年一月十五日に勘定奉行を退職後……明治元年2月6日付けの小栗上野介宛書簡に≪小銃千挺と弾薬八万発≫の請求書
と書いたのは、慶応四年一月十五日〜明治元年2月6日の間は実質わずか三週間足らずだが、慶応〜明治と書くことで
「退職後たいそうな日にちが経過してもなお銃器の購入に奔走していた小栗上野介」
という錯覚イメージを読者に抱かせるためではなかろうか、と疑ぐりたくなる。

小栗上野介を矮小化

 歴史家の勝部氏は、尾佐竹博士が西暦と和暦の差を無視しているのをそのまま鵜呑みにして、
1868年=明治元年とし、西暦の日付をそのままくっつけて「明治元年2月6日」 
と論じていることが判明した。わかってみれば単純かつお粗末な間違いだが、勝部氏がこの間違いを元に、小栗上野介を評して

「組織(幕府とか藩とか○○隊とか)を守るために国家を忘れて」(『勝海舟』p154)
しまった人物の例とし、

さらに次のように書いているのを見ると、ただの間違いではすまなくなる。 (*下記の太字は史実無根・根拠不明の箇所である*)

「上野介は・・・権田村に帰って土地の博徒をいじめたりしたので、官軍に密告され…つまらぬことで処刑されてしまった」(『勝海舟』p183)

「勘定所で不用となった千両箱の払い下げを受け、これに銃器・弾薬を入れ…大砲まで持って権田村へ移った。・・・会津藩からの密書を奪われて…大音竜太郎の手で斬首された。養子又一と二人…二分金百五、六十両づつ肌身に付けていた。・・・金時計も身につけていた。…夫人は信州に逃れ…」
(『勝海舟』p124)

別の本でも

「観音山に陣地を作り…博徒を酷使し…密告され、大音竜太郎
だいおん → おおとりょうたろう)の手で斬られた。」(『歴史群像徳川慶喜』p114・学研)

*上記の太字は史実無根・根拠不明の箇所である*

陣地や博徒の話は史実無根であり、大砲は後日川船で倉賀野河岸に着いたのを運んだが弾のない飾り物であることは周知のこと。密書や千両箱、二分金、金時計、信州などの話は聞いたことのない新説である。斬首した人物は大音竜太郎ではない。

 問題はこのあとに続けて
「勝は江戸育ちで博徒の扱いに慣れ人の気持を見抜くのがうまい」(『歴史群像徳川慶喜』p114)

とあるから、勝海舟が優れていることを示すため、小栗上野介という人物像の矮小(わいしょう・つまらない人物)化をはかっていることがわかる。

 天皇の政府に反対したから幕府側は逆賊、明治維新が近代国家を造り、幕府政治は暗黒時代、とする歴史観が明治以降130年間続いた。小栗上野介も濡れ衣を着せられ、誤解され、学者もその歴史観で現地を歩かないまま小栗上野介を語る時代がまだ続いている。   (2000平成12年10月「上毛新聞」オピニオン・に加筆)

太字部分の間違いの出典が判明

 上記の太字部分の史実無根の話の出典が『旧幕府』(第4巻七号・明治33年7月)に拠ったものであることがわかりました。雑誌『旧幕府』の小栗上野介論は、江戸にいただけの旧幕臣による後世の虚実取り混ぜの回顧談で無責任なものですから、これをもとに文章を書く場合は取捨吟味し、現地やほかの史料にあたることが大切です。
(2003平成15年1月追記)

ビグエーは何者?

 ビグエーは「ヴァンリード」
・当時横浜にあった「仏国合同会社の代理人」…『横須賀海軍船廠史』
・ソシエテ・ゼネラール商会の代理人。…高村直助『明治の経済』
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