小栗上野介(東善寺HP)                小栗「徳川絶対主義者」は誤り  



小栗上野介への不当なレッテル
「徳川絶対主義」説は誤り



 ●「徳川・幕府絶対主義」は勝海舟の放言から
 
明治になって生き残った勝海舟が
「誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。一口にいふと、あれは、三河武士の長所と短所を両方具へて居ったのサ。しかし度量の狭かったのはあの人のためには惜しかった」     
(勝海舟「氷川清話」
と小栗上野介の人物矮小化を図った言葉が、「徳川絶対主義者」説の始まりとなる。 

 
経済人小栗上野介を評するに、会ったこともない260年も前の小栗家先祖によく似ている、などハッタリをきかせた無責任な放言に後世の学者や物書きが惑わされ、安易に乗せられ単純に「徳川(幕府)絶対主義者」と決めつけているのは、そろそろ改めるべきであろう。

 小栗忠順は慶応4年1月13日14日の江戸城における大評定に於いて強硬な主戦論を唱えて西軍に抗戦することを主張し、将軍慶喜にその策を容れるよう迫った。その場を退出しようとする慶喜の袴の裾をつかんで迫った、ともいわれ、このことが「小栗は徳川絶対主義者」という説の根拠となったのであろう。
                         
 翌15日に勘定奉行・兼陸軍奉行など一切の役を罷免されると、小栗は知行地の権田村への帰農土着を図る。

 彰義隊の隊長就任を断った小栗忠順

小栗忠順一家が上州権田村へ出立(2月28日)する数日前に、将軍警護を目的として彰義隊を編成した渋沢成一郎が小栗忠順を訪ねてくる。小栗に彰義隊の隊長についてほしいとの要請のためであったといわれる。
 【以下原文】
 其都下を去りし前夜振武隊長渋澤成一郎に語りしと云へるは、実に其当日の心事なりき。彼は曰へり

 予固より見る所ありて、当初開戦を唱へたれども、行はれざりき。今や主公恭順し、城池将に他人の有に帰せんとす、人心挫折し、機既に失せり、復た戦ふべからざるなり。仮令会桑諸藩東北諸侯を連衡して官軍に抗するも、大樹已に恭順す、何の名 かこれ有ん。況や烏合の衆をや。数月に出でずして事応に定まるべし。然れども強藩互いに勲功を争ひ、内相軋轢して、遂に  群雄の割拠するに至らば、我々は主公を奉じて檄を天下に伝ふべし。三百年の徳澤施して人に在り。国家の再造難からざる  のみ。我々が今日の計は鋭を養ふて時機を待つに如く莫し。予は是より去て采邑に土着し、農兵を練り、民衆を懐け、以て事  あらば雄飛すべく、天下泰平に帰せば前朝の頑民となりて終らん

                                              (塚越芳太郎「読史餘録」民友社)
 
 【現代語訳】
 自分はもとより考えるところがあって主戦論を唱えたけれど、それは採用されなかった。
 今は将軍慶喜公は恭順し、江戸城も他人のものとなろうとしている。人心は挫折し、戦機はもう無くなっていて、戦うのは無理な状況である。たとえ桑名や会津の東北の諸侯が連盟して官軍に抵抗しても、将軍が既に恭順している以上どういう名義があろうか。まして烏合の衆が集まったところで、〈何になろうか〉。数ヶ月しないうちに平定され落ち着くことだろう。
 しかしながら(その後)強藩が互いに手柄を競い、内部が抗争して遂に群雄割拠のような状況になったら、我々は将軍をいただいて天下に立ちあがるつもりである。(徳川)三百年の恩恵をこれまで人々に施してきたから、国家の再建も難しいことではあるまい。われわれのいまの計画は、鋭気を養って時機をうかがうのがいい。
 自分はこれから江戸を去って知行地(上州権田村)に土着し、農兵を練磨し、民衆と交わり、その力でもし変事があれば立ち上がり、また(このまま)天下泰平にすめば、「前朝の頑民(前政府の頑固な遺臣)」で生涯を終えるつもりである。

注1、記録者塚越芳太郎は……号:停春、停春楼  烏渕村(高崎市倉渕町岩氷)出身の文筆家。民友社に入り「国民の友」「國民新聞」で働き、「家庭雑誌」刊行で主宰となる。1906年東京市長尾崎行雄に請われ「東京市史稿」編纂の主任となって、現在も続く膨大な史料『東京市史稿』出版の基礎を固めた。小栗上野介顕彰にもその文才を発揮し、貴重な資料を残している。

注2、「前夜訪ねた」 …「小栗日記」には江戸出立の2月末ころに、渋澤成一郎が訪ねた記述はない。小栗の書き落としであろうか。厳密な史料校正をして『東京市史稿』の編纂を続けた塚越芳太郎は確実な史料をもとに書いたのであろうが、今は出典不明である。

注3、「振武隊長」 …副頭取の天野八郎との方針の違いから、渋沢成一郎は頭取でありながら彰義隊を脱して振武隊を編成したのは、ずっとのちの5月頃ことだから、振武隊長は誤り。この時はまだ彰義隊は結成されたばかりで頭取も決まっていなかったと思われる。
  「徳川絶対主義者」であれば―なぜ彰義隊に加わらなかったか? 

 将軍慶喜の前で強硬な主戦論を唱えながら、彰義隊頭取就任を小栗が断ったのは矛盾している、という意見が出そうですが、この時の小栗忠順の考えの背景を確認する必要があります。

 ●儒学による理想の統治者は
                
                   ▲安積艮斎
 小栗忠順は9歳で安積艮斎に入門して儒学を学んでいます。

 その儒学や朱子学では、理想の政治を「鼓腹撃壤・こふくげきじょう」というスタイルに求めています。政治の理屈はいらない、人々が安心して腹いっぱい食べられ、土を踏んで舞い踊れる世の中にすること、これがよい政治の理想として、それを神話伝説の人物である堯ぎょう・舜しゅん・禹の治世に求めています。
 「王」とは人徳をもって世のまつりごとを務める人物のことで、堯王も舜王も禹王も実在ではないし、更に伝説ではありますが堯も舜も子に跡を継がせていません。人徳が備わった人物が他にいればその者に継がせる、というきわめて合理的な思考をしています。

 小栗忠順は、遣米使節として渡ったアメリカで、「入れ札(選挙)」による大統領制度を見聞し、現に小栗忠順ら遣米使節一行が面会したブキャナン大統領は、一行がアメリカを去った後の秋の大統領選挙で退陣し、第16代大統領にリンカーンが選ばれて就任しています。
 
 帰国後でもこういうアメリカの政治の変化はもちろん承知していたことでしょう。あれほど大きい国が、国民が選んだ人物によって統治されているという事実は、新鮮な感覚で小栗の脳裏に刻まれたに違いありません。

 ●幕府の退陣を予見していた・・・「幕府の運命、日本の運命」

 この儒学とアメリカでの見聞を踏まえると、横須賀製鉄所建設の是非が論議されているとき(明治維新の4,5年前)に、小栗上野介が次のように語ったことが納得できます。

 幕末にある幕臣が
「幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもそれが出来上がる時分には幕府はどうなっているかわからない」
と言ったのに対して、

小栗上野介は様子を改め
 「幕府の運命に限りがあろうとも、日本の運命には限りがない。私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、結局日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据え(売家)にしても土蔵付売据の方がよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と語った。
         (島田三郎「懐舊談」・『同方会報告』明治28年6月・第1号・17P/のち1977昭和52年立体社より復刻)

と語った。
                         
                         ▲栗本鋤雲像(東善寺境内) 
 同じような趣旨で栗本鋤雲にも
「横須賀造船所が出来上がれば、いずれ土蔵付売家の栄誉が残せる」  と云って笑っています。(栗本鋤雲「匏庵遺稿」)
                         
 ちなみに
 「土蔵付売家」は江戸っ子のシャレで、「将来の国のために」などと正面から大演説するのはみっともないと避けるのが江戸っ子です。「徳川絶対主義者」という単純な色眼鏡を通しては、この言葉を理解できなくなります。

 ●親が重態でも最後まで薬はあげたい…主戦論は最後の「薬」
 同じ意味で小栗はこうも語っています

 「親の病気が重くてもう治る見込みがないからといって、薬を与えないのは孝行ではない。たとえ国が滅びても、この身が倒れるまで公事に尽くすのが真の武士である」(福地源一郎「幕末政治家」)

 親とは徳川家、自分は旗本として代々その親のもとで暮らしてきた。たしかにこの親の所帯回しは仕組みが古く、もう重態だ。先は短い。あの主戦論は、恭順の意を示している主君を撃つと進んでくる理不尽な西軍に対して、家臣として進める最後の「薬」、ということでしょう。

 残念なことに水戸学で育てられた慶喜はニセモノの錦の旗でも、「天皇」「朝廷」と名がつけばいっさい手を出せないから、「薬」を飲もうとしない。

 ●「則ち是を逃(さ)く」
 儒学に「三たび諫(いさ)めて是を容れざれば、則(すなわ)ち之を逃(さ)く」(「礼記」)として、 「(臣下が)三回忠言を重ねても、主君が聴き入れない時は、家臣はその元を去る」  とあり、家臣が見限るのをよしとしています。その場合辞職ですから無給も覚悟しなければなりません。

 小栗上野介の場合は罷免までされていますから、我がこと終われりという心境でしょう。
 これまでやるべきことはやった、迷うことはない「之を逃く」、ということで上州権田村への「土着帰農願」を幕府に提出します。そのとき、旗本職も辞職し本当に一介の農民になるつもりで「上知(知行地の返上)」も申し出ています。それに対して幕府から「土着は勝手たるべし。上知の儀はそれには及ばず」との返事を得て移住の準備を進めます。

 ●お茶と生糸
 旗本が知行地を返上してどうして暮そうというのか、これが謎でしたが、小栗上野介が住もうとして屋敷の建設を進めた権田村の観音山に残るお茶の木がその答えを示しています。幕末から始まった海外貿易で日本からの輸出品の主役は長い間お茶と生糸でした。上州は名だたる生糸の産地ですからすぐに生産に取り掛かれる。お茶の苗を運べばお茶の生産は出来る、という計画と思われます。

 このお茶の苗木は江戸から早くに運ばれ、植えられたもので、観音山の他に名主佐藤藤七の屋敷跡と仮住まいした東善寺境内に残っています。
 *東善寺境内のお茶の木…以前石垣の中段に何株も植えてありました。戦後、中段をミョウガ畑にするということで除去してしまい、いま名残の株が先年伐採した桜の根元にヤブ状で見られます。

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