東善寺HP・小栗史跡          観音山の小栗邸址 ―抵抗拠点づくりという濡れ衣―

 ■倉渕町の小栗上野介史跡 
 
観音山の小栗邸址
*明治新政府軍が言いがかりをつけ濡れ衣を着せた-

 
 夢を育む権田の里に
   若葉は萌えたち春風すがし
馬を馳せれば山裾に
薄紅
(くれない)の山桜

花は散りゆく流れの岸に
 ひたすら咲いた 小栗の姿
顧みすれば山裾に
薄紅の山桜

            作詞:村上泰賢 作曲:伊東福雄
馬場の跡   
   「・・・(小栗上野介が)認められず、褒められずに生涯を終えたところにロマンを感じます  星野富弘(画家)
(上毛新聞 2003平成15年1月1日 小栗椿を見たいと書かれた一部を引用)


◆誰にも認められず山の中でさりげなく精一杯に薄紅の花を咲かせ、静かに散ってゆく山桜…
たとえば 「 慶應四年四月七日 曇昼後雨 朝観音山にて乗馬致す
  九日 天気能 朝観音山にて乗馬致す
」  『小栗日記』  
 ・・・と小栗父子は東善寺の東約1キロ、観音山の工事現場へ出かけ、出来たばかりの馬場で朝の乗馬を楽しんだ様子がたびたび『小栗日記』に残る。その馬場跡が杉林の中に残っている。観音山上の駐車場から北へ杉林の中を約30m入ると、十間(約30m)四方に平らに均した跡が残る。
 
 
▲観音山から 角落山つのおちやまや浅間隠山あさまかくしやま烏川の上流がよく見える 
  
観音山へ上るとそこは花ざかりだった
     
▲権田の国道406号沿い、おいしい「マス重」で知られる「満寿池」の駐車場に車を置かせてもらって、右手の山道に入る 右が国道406 ▲入口に小さな標柱が「観音山 小栗上野介屋敷跡」と案内している  ▲坂道を少し上ると曲がり角にポストなどがある。ここから右手の山道の遊歩道に入ると近道。車は舗装路をそのまま上れる。
     
▲かつて小栗上野介や道子夫人が屋敷工事の進行を見るため上った、右の遊歩道を上る。  ▲ジグザグを数回繰り返し、雑木のまじったカラマツ林を上ると、約7分でもう観音山に着いた  ▲広々した菜の花畑が広がり、その向こうのしだれ桜の下に屋敷跡がある。 
     
▲菜の花畑から烏川上流の山並みに眺望が開け、気持ちが晴れ晴れ。小栗公が住みたかった理由がわかる。 ▲屋敷跡には大きなシダレ桜が咲いている。
     
▲説明板が高崎市指定の史跡であることを示している。 この地に家を建て、若者たちを教育して「いずれこの谷から太政大臣を出してみせる」と語った、小栗公の声が聞こえてきそう。                     ▲絵:清水一衛
   
 ▲モミジの赤い新芽がすばらしい。  ▲ 小栗公が生活用水としてひいた「観音山用水」が、今もトウゴクミツバツツジの花の下に流れている。
  
小栗上野介への濡れ衣
住宅建設を進めた小栗上野介は、小至沢上流から測量して水のなかった観音山に生活用水を引いた。
その観音山用水は150年経った今も、ゆったり流れている。
「風聞書」にご注意
観音山用水を陣屋・砲台の堀に水を満々と…」といいがかり
     【濡れ衣の例 
大山を掘り崩して平地にし、廻りへ土手を築き堀を廻し水を満々とため、その中に本丸にもなりそうな様子の、五間に十五間程の土地を造り、、雪隠・馬部屋普請小屋が出来ていた。…西の方には裏門口があり、堀には橋をかける基礎が出来ていた。…本丸の西北の岩山を掘って大きな岩穴が出来ていて、、・・・松の木を掘って大砲にして伏せてあった」

 
「小栗上野介征伐風聞書」(『高崎市史研究』17号より) 

・ 「風聞書」は町のウワサ書き程度のもの。真否ミックスとされているが、この文章には小栗上野介父子主従を殺害したことを正当化する意図が感じられる。明らかに現地を見ていない文章であることから考えると、東山道軍の流した虚偽情報をそのまま意図的に「風聞書」の体裁に仕立てたものではないかと思われる。

・風聞書のタイトルに「征伐」とあるから、小栗上野介を征伐すべき逆賊と規定して書いていることがわかる。例「桃太郎の鬼ケ島征伐
疑問:このタイトルの「征伐」は初めからついていたかそれとも研究者が分類のためつけたか。研究者とすればその姿勢も透けて見える。

・ 倉渕村と合併する直前に刊行された『高崎市史 通史編』で、小栗一家があたかも西軍への抵抗拠点を構築するため権田村に移住したように思わせぶりに解説しているのと、この「風聞書」の趣意が奇妙に通じている。

・西軍と戦う抵抗拠点構築のために、家族ぐるみで母堂・夫人・養女まで連れて移住するものだろうか。常識で考えてわかりそうなものだが、小栗上野介を「逆賊」とする薩長史観の色眼鏡で見るとひとまたぎできる用水が「橋をかける」ほどの大きなお堀になるらしい。

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▲トウゴクミツバツツジの下を流れる用水
この用水路は絶妙な勾配で掘られ、150年経ってもえぐられて深い堀になることなく、詰まることなく、流れ続けている。すばらしい測量技術!、と感心する。
  濡れ衣の例 
 読売新聞平成29年5月10日のコラム『古今をちこち』に歴史家の磯田道史氏は最近入手したという古文書「風聞記」について

 「小栗上野介の権田村隠棲前後の風聞を書き記した中に
『上様之御更筋
おかえのすじ=更を申し立て、…蚕種生糸に限らず諸運上(税)を取り上げ、上へ納めずして、みな己が私欲に致し、凡そ金七十あるという。よって国元へ油酒樽等にて弐分金にて相送った』
よしである…略…。この際、小栗が築城の噂が出るほどの大工事を行なった可能性がある。それは地元で語られるように単なる用水工事だったのだろうか。…」


と紹介している。氏は
「この史料は小栗の真実そのものではない。当時の人々が小栗をどう見ていたのかがわかる史料…」と断っているが、
 「風聞記」が当時の人々の見方以上に小栗を悪代官のような人物像に描いているから、左の【濡れ衣の例1】の「風聞書」高崎版と同様に、西軍が殺害した行為を正当化する宣伝を受けて書いているフシが感じられる。

・歴史家なら、「大工事を行った可能性があるなどと言わず、まず現地に来てひとまたぎできる用水を確認していれば、「地元で語られるように単なる用水工事だったのだろうか」などと、いかにも「地元では身びいきで大きな堀を小さく語っている」との思わせぶりを書かなくてもすんだものを…。

・もしかして磯田氏はその用水はもう存在しないと思っていたのかもしれない、と考えてこのページを作りました。当地では歴史がまだ生きています。
〈注
観音山用水と、やはり小栗上野介が関わった小高こたか用水は別です。
観音山用水 ひとまたぎできるこの用水を「陣屋に砲台を築き、堀に水を満々とたたえ…」  と言いがかりをつけた西軍(明治政府軍)・風聞書 
     上記の「地元で語られるように単なる用水工事だったのだろうか」の解釈 
もう一つあった
   江戸から運ばれたお茶の苗木

小栗上野介は、幕府に提出した「権田村への土着願書」
「幸い私の知行地は関東地域なので、御沙汰があればどれほどでも返納申上げたい」
「自分は勘定奉行勝手方も勤めた経験上、権田村に土着して何とか活計を立てて行くつもり…」


と書いている。
・旗本が知行地を返上(上知という)したらその後の活計手段はどうするか…。
 当時の日本のおもな輸出品はお茶と生糸。この二つを取り入れて生計を立てるつもりであったと考えられる。
養蚕の地上州―権田村を選んだ理由の一つがここにあった。
 上州は養蚕が盛んであるから改めて桑の木を江戸から運ぶ必要はない。
 お茶の苗だけ江戸から運んできている。いまも小栗一家の夢を伝えるかのようにお茶の木が観音山の所々に残っている。 
    濡れ衣の例 
 見直したら磯田氏のコラム『古今おちこち』のタイトルは
「油酒樽に詰まった埋蔵金」
というものでした!
 このタイトルに合わせて考えると、
「…単なる用水工事だったのだろうか」は  →
「もしかして埋蔵金を埋める工事だったのではないか―」
という思わせぶりの(言外の)結びになる。

 れっきとした歴史家が、まさか観音山用水を利用して安直な埋蔵金話(=公金横領隠匿という話)に迎合していたとすれば、情けない話です。
◆磯田氏のこの話が本になりました 平成30年8月 磯田道史『日本史の内幕』中公新書・840円のトップ!に入っています。 

◆過日、倉渕支所に「観音山を電磁波で調査したい…」という怪しい電話が入って、支所では断りました。上記の本に刺激された埋蔵金狙いと思われます。(令和元年7月)

ご注意 東善寺ではのちに実害が出るので埋蔵金がらみの取材はテレビ・雑誌などいっさいお断りしています。
 お茶の木 江戸から運んだお茶の木が所々に残っている。 
 
他に江戸屋敷の植木が、小栗主従が殺されたあと倉賀野河岸に着き、「小栗椿」と「シャクヤク」が東善寺境内にある。
 
 *西軍(明治新政府軍)への抵抗拠点だったら江戸の植木を運ぶ必要はあるまい。

  
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