東善寺HP・小栗史跡          観音山の小栗邸址

  
 ■倉渕町の小栗上野介史跡 
 
観音山の小栗邸址
*明治新政府軍が言いがかりをつけ濡れ衣を着せた

 
▲観音山から 角落山つのおちやまや浅間隠山あさまかくしやま烏川の上流がよく見える 
  
観音山へ上るとそこは花ざかりだった
     
▲権田の国道406号沿いマス重で知られる「満寿池」の駐車場に車を置かせてもらって、右手の山道に入る  ▲入口に小さな標柱が「観音山 小栗上野介屋敷跡」と案内している  ▲坂道を少し上ると曲がり角にポストなどがある。ここから右手の山道の遊歩道に入ると近道。車はそのまま上れる。
     
▲かつて小栗上野介や道子夫人が屋敷工事の進行を見物に上った道を上る。  ▲ジグザグを数回繰り返し、雑木のまじったカラマツ林を上ると、約7分でもう観音山に着いた  ▲広々した草の斜面が広がり、その向こうに屋敷跡が見える。 
     
▲右手の大きな杉林が伐採され、耕作をやめた田畑の跡地からの眺望が開け、すばらしい。。 ▲屋敷跡には大きなシダレ桜が咲いている。
     
▲説明板が高崎市指定の史跡であることを示している。 この地に家を建て、若者たちを教育して「いずれこの谷から太政大臣を出してみせる」と語った、小栗上野介の声が聞こえてきそう。                     ▲絵:清水一衛
   
 ▲モミジの赤い新芽がすばらしい。  ▲ 小栗公が生活用水としてひいた「観音山用水」が、今もトウゴクミツバツツジの花の下に流れている。
  
小栗上野介への濡れ衣
住宅建設を進めた小栗上野介は、小至沢上流から測量して水のなかった観音山に生活用水を引いた。
その観音山用水は150年経った今も、ゆったり流れている。

観音山用水を「陣屋・砲台の堀…」といいがかり
     【濡れ衣の例 1】
大山を掘り崩して平地にし、廻りへ土手を築き堀を廻し水を満々とため、その中に本丸にもなりそうな様子の、五間に十五間程の土地を造り、、雪隠・馬部屋普請小屋が出来ていた。…西の方には裏門口があり、堀には橋をかける基礎が出来ていた。…本丸の西北の岩山を掘って大きな岩穴が出来ていて、、・・・松の木を掘って大砲にして伏せてあった」

 
「小栗上野介征伐の風聞書」(『高崎市史研究』17号より) 

・「風聞書」は町のウワサ書き程度のものとされているが、この文章には小栗上野介父子主従を殺害したことを正当化する意図が感じられる。明らかに現地を見ていない文章であることから考えると、東山道軍の流した虚偽情報をそのまま意図的に「風聞書」の体裁に仕立てたものではないかと思われる。

・倉渕村と合併する直前の『高崎市史 通史編』で、小栗一家があたかも西軍への抵抗拠点を構築するため権田村に移住したように解説しているのと、この「風聞書」の趣意が奇妙に通じている。

・西軍への抵抗拠点構築のために、家族ぐるみで母堂・夫人・養女まで連れて移住するものだろうか。常識で考えてわかりそうなものだが、小栗上野介を「逆賊」とする薩長史観の色眼鏡で見ると大きなお堀になるらしい。

関連ページ
小高用水を測量した小栗上野介


  濡れ衣の例 2】
 読売新聞平成27年5月10日のコラム『古今をちこち』に歴史家の氏は最近入手したという古文書「風聞記」について

「小栗上野介の権田村隠棲前後の風聞を書き記した中に『上様之御更筋おかえのすじ=更を申し立て、…蚕種生糸に限らず諸運上(税)を取り上げ、上へ納めずして、みな己が私欲に致し、凡そ金七十あるという。よって国元へ油酒樽等にて弐分金にて相送った』よしである…略…。この際、小栗が築城の噂が出るほどの大工事を行なった可能性がある。それは地元で語られるように単なる用水工事だったのだろうか。…」

と紹介している。氏は
「この史料は小栗の真実そのものではない。当時の人々が小栗をどう見ていたのかがわかる史料…」と断っているが、「風聞記」が当時の人々の見方以上に小栗を悪代官のような人物像に描いているのは、西軍が殺害した行為を正当化する宣伝を受けて書いているフシが感じられる。
・歴史家なら、先ず現地に来てひとまたぎできる用水を確認していれば、「単なる用水工事だったのだろうか」などと思わせぶりを書かなくてもすんだものを…。
・もしかしてI氏はその用水はもうないと思っていたのかもしれない、と考えてこのページを作りました。当地では歴史がまだ生きています。


観音山用水と小高用水は別です。
観音山用水 ひとまたぎできるこの用水を「陣屋に砲台を築き、堀に満々と水をたたえ…」  と言いがかりをつけた明治政府軍 
   江戸から運ばれたお茶の木

小栗上野介は、幕府に提出した「権田村への土着願書」

「幸い私の知行地は関東地域なので、御沙汰があればどれほどでも返納申上げたい」
「自分は勘定奉行勝手方も勤めた経験上、権田村に土着して何とか活計を立てて行くつもり…」


と書いている。
・その活計手段は何か。当時の日本のおもな輸出品はお茶と生糸である。この二つを取り入れて生計を立てるつもりであったと考えられる。
・上州は養蚕が盛んであるから、お茶の木だけ江戸から運んできている。いまも小栗一家の夢を伝えるかのようにお茶の木が観音山の所々に残っている。 
・権田村を選んだ理由がここにあったのかもしれない。
   
 お茶の木 江戸から運んだお茶の木が所々に残っている。 他に沢山の植木が殺されたあと倉賀野河岸につき、「小栗椿」「と「シャクヤク」が東善寺境内にある。
 *抵抗拠点だったら江戸の植木を運ぶ必要はあるまい。
 ▲礎石 屋敷の土台となるはずだった、下の烏川から運び上げた礎石がそのままの位置に残る。