東善寺HP 小栗上野介 ●      小栗上野介・権田村での最後の64日間                           





 小栗上野介一家
権田村での最後の64日間

      
      出典:『小栗日記』より        
*天気能は天気良し
 江戸を出立
  慶応四年一月廿八日 小栗上野介は幕府へ権田村への「土着願書」を提出し、翌廿九日許可が出て権田村への帰農準備を始める。
 二月廿八日 朝江戸駿河台を出立、途中大宮大成村の普門院(大先祖五代目忠政の墓所あり)に参詣、夕方桶川宿に着く
 二月廿九日 桶川発―吹上で昼食、―深谷宿
 二月三十日 深谷宿―新町で昼食―高崎宿着
   
  *以下は『小栗日記』からの転載。原文は漢字カタカナ 現代語訳・意訳は村上泰賢
  *詳しく調べたい方は『小栗日記』原文で直接お調べください。
 
      打ちこわし騒動 撃退 
 三月一日  天気能  高崎ー室田―権田村東善寺に入る
 三月二日  能  ・隣の三ノ倉村に博徒たちが大勢集まって廻文を回し、(編注:小栗から軍用金を奪うことに)賛同しないものは焼き払うなどと申し触れているが、権田村には何の沙汰も来ないので、権田村人が心配している。いろいろ手配し、なるべく穏便に済ませるよう申し渡しておいた。
 三月三日 雨夜雪  ・節句ではあるが、主君が謹慎中なので節句の祝はしない。
・博徒たちは不届きなことを村役人にいうので、家来を派遣して談判してくれるよう村役人がいう。大井磯十郎を三ノ倉全透院に派遣した所あれこれ不当なことをいうので、それなら勝手にするがいい。もし不法なことがあったらそれだけの処置をするからそのつもりでいるように、と言って戻る。
 三月四日 能   ・朝から暴徒が三ノ倉村から権田村へ押し寄せてくるとのことで、母・道子・鉞・塚本の家内など女子を家来や村人をつけて裏山の部落に避難させ、自分は家臣と歩兵・村人ら百人を5隊に分け、二隊は山側へ配置し、自分は又一・歩兵ら廿人で下手を警戒し、二隊は川浦村方面を分担させた。
・暴徒はおよそ二千人、上宿に放火し、下手は神社付近に放火し、また川浦方面から発砲してきたので追討して川向うへ退散させた。家来たちは暴徒を何人か討ち取りまた生け捕りの者を連行してきた。
・夜になって川浦村岩氷村水沼村三ノ倉村の村役人たちが詫びに来た。この上攻められては難渋しますし、博徒に脅かされての今日の不始末として詫びたので、今後は六ヶ村がよく協議してやってゆくことを約束させ、念の為各村一人ずつ留め置いた。
 三月五日 雨夜雪   ・昨日の件について川浦村岩氷村三ノ倉村から連印の詫び書が出されたので、生け捕りの者を引き渡し、詫び書は村役人の保管とした。
・昨日の一件を江戸への報告としてお届書を書き、日下数馬・駒井甲斐守へも手紙を出した。
  観音山に居宅建設開始
 三月六日 能   ・昼過ぎから観音山の居宅建設地を見回り、神社に参詣し帰宅
・一昨日の戦いで、佐藤銀十郎が格別の働きがあり小頭とし中小姓格を申し付け、家来たちにも二分ずつの褒美を出した
 三月七日 能 
春寒 
 ・検温器日中で四十四度
・昼過ぎから城山―観音山へ
・萩生村大戸村から今回の件の喜びの挨拶で村役人が来る
三月八日   能  ・寒気昨日と同じ
・昼過ぎ八幡~水沼へ
・中之条町役人善兵衛ほか二人が機嫌伺いの挨拶に来る
 三月九日 能   ・昼過ぎ観音山へ行き夕方帰宅
・中之条町へ博徒たちが押し寄せそうだと、町役人が応援を頼んできたので大井磯十郎多田金之助池田伝三郎歩兵二人を派遣した。
 三月十日 能   ・朝、馬で長井~山手方面行、昼頃戻る 又一も同道
 三月十一日  能  ・昼過ぎ観音山へ
・観音山の開発で土木を黒鍬に発注 手付金五両を渡す
・中之条町へ派遣した大井磯十郎多田金之助池田伝三郎歩兵二人は、博徒が逃げ去ったので、夜になって帰宅した
 三月十二日
夜雨 
・朝、馬で三ノ倉辺~観音山の普請場へ行く
・江戸から飛脚が戻り、駒井日下の返書も来た 江戸は官軍が入って混乱しているが慶喜公が恭順をしているので過激な仕置はないだろうとのこと
 三月十三日 能  ・昼過ぎから締場~堂の沢~小至沢から観音山への水路予定地を検分
・水路開発工事の手付金三両を渡す
・下斉田村小林村森村の名主が機嫌伺いの挨拶に来る 江戸から発想した荷物が倉賀野河岸に着いているとのことで、家来を一人派遣すると伝える
  希望の日々
三月一四日  能  ・昼過ぎから観音山へ
・母も鎮守参詣のあと観音山へ
・お道はきょう日がいいので、着帯の儀を塚本の母とまきが手伝って行なう 二人に祝儀百疋を渡す
・荒川裕蔵を倉賀野の荷物引取に派遣した 
三月十五日  能  ・終日在宿
・又一は朝から山手方面へ行き昼前に帰宅
 
 三月十六日 能  ・だいぶ暖かくなった
・午後観音山普請場へ行く 
・又一は馬で三ノ倉辺へ行く
・戸田肥後守元家来機嫌伺いに来る
・居宅の普請図面を渡して材木の見積もりをするよう大工に指示する
・倉賀野から荷物を四十個運んできた
 三月十七日  能  ・午後観音山普請場へ行く   ・又一も同道
三月十八日 
夜雨 
・終日在宿
・又一は馬で三ノ倉辺へ行く
 三月十九日 能  ・暖かくなり検温器六十二度
・午後小倉辺へ行く
・母も鉞子と近くへ摘草に出る  又一も近辺へ出る 
三月二十日  能  ・朝、普請場へ行く
・又一は猟に行く
・佐藤藤七から借金の願いがあり二百両を貸す 月一割の利息
三月廿一日  能 
午後雷雨
・ 朝、普請場へ行く
・午後お道は鎮守に参詣
・下斉田の名主平八が不慮のことがあり、大井磯十郎ほか二人を派遣
三月廿二日  能  ・朝、馬で萩生辺へ行く
・又一は風邪気味で寝ている 
 三月廿三日 能  ・普請場へ行く
・沓掛藤五郎を倉賀野へ荷物引取に派遣
・大井磯十郎が戻った 平八はその日のうちに戻ったとのこと 博徒共の仕業という
三月廿四日  能  ・普請場へ行く
・お道は鉞子と母と近所へ摘草に出た
 三月廿五日 能  ・ 朝、普請場へ行く
・江戸から武笠祐左衛門が来た 江戸でこちらの様子が評判になっていて心配なので、様子をうかがいに来たとのこと 江戸は官軍が入って不穏なこともあるから家族を遠くへ立ち退かせている者が多いという
・大平備中守は十二日に彰義隊の者が多数押し込んで一人は拳銃で倒したがついに切られてしまったとのこと
 三月廿六日 能   ・朝、普請場へ行く
・祐左衛門は明日江戸へ帰るので、各方面へ手紙を書く 路用金を十両渡す
三月廿七日   能夜雨 ・朝、観音山へ行き乗馬をする
・祐左衛門は江戸へ戻った
 三月廿八日 雨  ・終日在宿 
三月廿九日  能  ・午後から普請場へ行き、その後締場あたりへ行く 
 三月三十日 能  ・朝、馬で普請場へ行く
 四月一日 能  ・観音山普請場へ行く
・午後母も同様に観音山へ
四月二日  能  ・ 朝、普請場へ行く
・水路と地均し・新道の手間賃百両を黒鍬に渡すよう佐藤勘兵衛に渡す
四月三日  雨  ・終日在宿 
 四月四日 雨午後止 ・午後普請場へ
 
四月五日  雨  ・終日在宿 
 四月六日  能 ・朝、普請場へ行く
・午後お鉞が観音山へ行く
四月七日  曇午後雨  ・朝、観音山で乗馬
・江戸から書状が届く
四月八日  朝雨後能   ・午後秣場~観音山へ
倉賀野河岸から大砲その他荷物が着く(編注:大砲は砲弾も火薬もない飾り物)
 四月九日  能 ・ 朝、観音山で乗馬
・又一は他出
四月十日  晴曇   ・午後大反おおそり陣田亀沢小倉おぐら
 四月十一日 晴午後雨  ・朝、乗馬で普請場へ
・高橋村名主人見惣兵衛機嫌伺いに来る 
四月十二日  能  ・朝、小高こたかへ水路見分で締場へ (編注:小高用水見分・1回め)
 四月十三日 能  ・午後普請場へ
・江戸から徳次郎が機嫌伺いに来る
・広三郎が江戸へ戻った
・人見惣兵衛が帰るので、払米二斗七升くらいなら売り払ってくれるよう伝える 
 四月十四日 ・朝、普請場へ行く 
・午後小高へ用水路普請の場所見分に行く(編注:小高用水見分・2回目)
 四月十五日 能  ・観音山で乗馬をする
・佐藤勘兵衛に二百両貸す(編注:合計四百両) 
 四月十六日 能  ・朝、普請場へ 
・午後母・鉞子は長井へ出かける
・騎兵組櫻井衛守来る。「江戸城も尾張藩に引渡され仕方なく同志二十人が脱走して会津へ向かった。ほかにも多くのものが江戸を脱走して会津へ行き、後挙を図るつもり」とのこと。路銀を無心するので二十両やった。
四月十七日  能  ・朝、普請場へ 
 四月十八日 能  ・朝、観音山で乗馬をした 
 四月十九日 能  ・朝、普請場へ 
・騎兵隊桜井衛守が又やってきて協力を求めるので、五両をやった
四月二十日  能  ・朝、観音山で乗馬をした 
・母とお鉞が観音山普請場へでかけた
・江戸から十四日に出した書状が来た。別に変わったこともない。肝煎から明細書を差し出すようにと言ってきた
・日下自完から書状が来たので、返書を、それに祐左衛門への書状を明朝江戸へ出すので塚本真彦に言っておいた
 四月廿一日 晴曇  ・朝、普請場へ
・江戸へ昨日の返書を送った 
 四月廿二日 雨  ・終日在宿 
四月廿三日  曇  ・朝普請場へ 
 四月廿四日 能  ・朝、観音山で乗馬 
四月廿五日  曇  ・午後から観音山へ
・来る廿八日居宅の建前になるとの話が佐藤勘兵衛からあった 
 四月廿六日 雨  ・終日在宿 
四月廿七日  雨  ・終日在宿 
四月廿八日  晴雨  ・午後から普請場へ 
非道の追捕状・斬首  
四月廿九日  能  ・高崎安中吉井の兵が当方へ談判があってやってくるとの話が伝わったので、高崎へ向けて沓掛藤五郎を使者として派遣した。神山あたりで兵がやってきたので、こちらの申し入れをしたところ、どちらにしても権田村まで行ってその上で談判するというので、先に磯十郎が戻ってその旨を伝えた
・この件で三ノ倉まで塚本真彦を派遣したところ、今晩は三ノ倉に泊まり、明日三藩の者がやってきて話を伝えるとのこと
・下斉田村の名主田口十七蔵が前記のような話を聞いて機嫌伺いにやってきたというので、一泊の手配をさせた
 閏四月一日 能  ・終日在宿
・昨夜三ノ倉に泊まった高崎藩宮部八三郎菅谷次兵衛大野八百之助、安中藩星野武三郎福長十兵衛星野閠四郎、吉井藩山田角右衛門黒沢省吾がやってきて、別紙の通り東山道総督からの回文があったのでやってきたという
別紙
小栗上野介近日其領地上州権田村に於て陣屋等厳重に相構候加之砲台を築き不容易企有之之趣諸方之注進難聞捨探索を加候処逆棒判然上は奉対
天朝不埒至極下は主人慶喜恭順の意に相戻候に付追捕之儀其藩々
申付候間為国家同心協力可抽忠勤候万一手に余り候はば早速本陣可申出候先鋒諸隊を以一挙誅滅可致候事
  四月
右之趣被
仰出候間御達申入候急々尽力可有之候也
    四月廿二日            東山道総督府
                             執   事
          松平右京亮殿
          板倉主計頭殿
          吉井 鉄丸殿
  右回覧之上各藩申合せ追捕可致もの也

・これについての答弁として、
「このような疑いがある上は百方に弁解してもとても晴れそうにもありませんが、皆様はこの近辺の探索も済ませておられることでしょうから、事実はいかがでしょうか」
と訊ねた処、
「どこにもこの話のようなことはないとわかりました」
「それではこの観音山は前から自分の持ち山でして、他の畑などに作れば収穫が減ることになりますから、全く雨露を凌ぐ程度の家を作っているまでのことで、決して要害になるような普請ではありません。すぐに案内させますから直接御覧頂けば事情がおわかりいただけましょうし、陰謀を図る者が屋敷に付けて田畑を新開し後年の計画をたてるものでしょうか。よくよく十分に見分をして逆心のないことを各藩から申し立ててくれますように」
と言ったところ
「其のことはご尤もなことで、我々よく了解しましたから各藩とも疑いはございませんがこれといった(編注:恭順の)証拠になるものを一つお考えいただけませんか」
「それでは、文中に砲台とありますから所持している大砲を皆様にお預けしますからこれを根拠としてくださるよう」
と申したところ一同は
「承知しました。それに又一を同道させて戻りたい」
というので
「其の件は了解しました」
と挨拶し、すぐに一同は引き下がって、それから荒川裕蔵の案内で観音山の普請場を見分して戻っていった。
・母と道子・お鉞は談判の成り行きがどうなるかもわからないので、午後に上ノ久保へ行かせ、夕方に戻った
・又一も三藩の者と面会した
・森村小林村の名主たちがこの件で心配して見舞いに来た
閏四月二日  能  ・終日在宿
・塚本真彦を三ノ倉まで派遣したところ明後日四日に又一を高崎城下へ同道しそこから高崎藩の者が同行して行田まで行くつもりとのこと。行田には総督がいるとの話であった 
・以上で『小栗日記』は断筆。以下記載なし
 閏四月三日    〈道子夫人、母堂邦子・養女鉞子らを会津へ逃がすため村人に依頼して手配〉
 閏四月四日    〈道子夫人らと亀沢部落へ。亀沢に泊まる〉
 閏四月五日    〈道子夫人らと別れ、東善寺に戻る。西軍がやってきて捕縛し三ノ倉へ連行〉
 閏四月六日    〈朝、家臣三名とともに烏川水沼河原で斬首される〉
閏四月七日    〈又一と家臣三名は高崎城内で斬首される〉 
 閏四月五日に西軍原保太郎豊永貫一郎らに率いられた三藩が小栗上野介と家来三人を捕縛して三ノ倉に連行し、何の取り調べもしないまま翌日閏四月六日朝水沼河原で斬首した。
 
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