栗本鋤雲     栗本鋤雲の事績

小栗上野介の盟友
栗本鋤雲
じょうんの事績
栗本鋤雲と小栗上野介の胸像風景
栗本鋤雲の胸像
(東善寺境内)

◆ 略 歴

江戸で>

◇1822(文政五)年三月三日、神田猿楽町に生まれる 父喜多村安正の三男 
◇幼名は哲三(てっさん)・左馬五郎 のち鯤(こん) 号匏庵(ほうあん)・瑞見・鋤雲  瀬兵衛(せへえ) 安芸守(あきのかみ) 
◇9歳で喀血し、なかなか快癒しないので親は督学せず自然治癒を待つ。1838(天保九)年、17歳で健康を取り戻す。


◇1830(文政十三)年一月二十三日(9歳)、安積艮斎の塾に入門
◇病気で数年遅れて入塾した安積艮斎の塾(小栗邸)で同じ頃入った小栗剛太郎と知り合い、生涯の盟友となる。


東善寺境内に並ぶ小栗上野介(左)と栗本鋤雲の像(右)

◇1848(嘉永元)年、26歳のとき幕府奥詰医師栗本家の養子となり、六世瑞見となる
◇昌平黌に入って儒学を学び、天保十四年、22歳のとき黌試甲科にあたり白銀15錠の賞を受ける。
◇多紀楽真院、曲直瀬養安院のもとで医学と本草学を学ぶ

◇1846(弘化三)年(25歳)、夏甲州に遊んで富士山と金峯山にのぼる。帰途旧病が再び起こり、数ヶ月かけて治す
◇1855(安政二)年(34歳)、オランダから献上された幕府蒸気船観光丸の試乗に応募したことから、「漢方を旨とする奥詰医師が西洋艦に乗りたいとは不届き」と時の奥詰医長の咎めを受け、御匙の岡檪仙院に忌まれ、ついに侍医から追われて、安政五年箱館へ移ることになった。



栗本鋤雲
「先生は額も広く鼻も厚く、耳や口も大きかったものですから『お化け栗本』と異名をとったくらい、並外れた容貌の持主でした」島崎藤村
        

<箱館時代>

◇千歳湖畔で朝鮮産と同種の北五味子を得て幕府に献上したところ将軍の用品として毎年献上することを命ぜられる。

◇数年来外国船が入港するごとに病人のための受け入れ療養機関がなかったので、病院兼医学所を建設し、貧者の病気を手当てし、
医者の子弟を教育し、また妓楼の病気駆除を実施するように進めた。

◇奉行の命を受けて、フランス人宣教師メルメ・ド・カションに日本語と日本の書物の読み書きを教え、同時にカションからフランス語の伝授を受ける。

◇七重村に薬園を開き、各種の薬草及び蝦夷地に少ない松、杉その他の苗を育成し、その苗を官林や道路、海岸に植栽する。
◇薬園を通る久根別川を整備して、小舟を有川村から箱館市に通ずるようにはかり、肥料を輸送できるようにした。
◇軍川の原野を開拓して牧牛場とし、南部地方からいい牛を買い求めて畜産振興を図った。
◇これら種々の事業がいずれもかなりの成功を収めたので、幕府もその功労を認めて1862(文久二)年、士分にして、箱館奉行支配組頭とした。


◇1862(文久二)年七月(41歳)、箱館奉行竹内下野守保徳の命を受けて箱館を発し、八月北緯48度使犬部属人種住地(アリュート族のことか)に至り、戻って久春古丹にとどまって越冬。1863(文久三)年三月(42歳)、エトロフ、クナシリの2島を巡視し、9月箱館に帰る。ロシアとの外交関係を論じた建議書を提出して、その卓見を奉行に賞された。

箱館時代の住いが判明
 
文久年間の箱館市中図(右・五島軒蔵)に
・「栗本瑞見」(
赤丸)が確認できる。
・勤務した役所は左(
緑丸
・フランス語と日本語の交換教授をしたカションは中央下の称名寺(
青丸)に住んでいた。
 「国際都市ハコダテ」P27より・遠藤浩司氏提供

<江戸に戻る

◇1863(文久三)年十月、竹内下野守の推挙で新徴組の頭取に就く内命を受けて江戸に帰るが、新徴組は既に廃止されていたので、改めて昌平黌の頭取を命じられる。
◇1864(元治元)年七月(43歳)、監察に転じられる。
◇元治元年冬、横浜表半年詰の命を受け野毛の官舎にいると、若年寄酒井飛騨守の命により、フランス軍艦セミラミスの職工に依頼して軍艦奉行木下謹吾とともに翔鶴丸の修理を担当する。

◇修理の終わった翔鶴丸にセミラミース号のフランス人技師エーデらを伴い、八丈島へ試乗し前年漂流して島にいた長崎の役人を救い、また内密に横須賀製鉄所係を命ぜられることを聞いていたので、帰途大島に立ち寄り噴火口の焼け土がドックに使えるかを調べる。

横須賀製鉄所(造船所)建設の現地責任者を命じられ、
「ヴェルニーを上海より呼び寄せて総裁とし、横須賀湾にツーロン製鉄所の3分の2の規模として、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ケ所、造船場3ヶ所、武器廠共に4年で完成する。費用はおよそ1年60万ドル、4年で総計240万ドルを要することを契約した。」(匏庵遺稿)

造船所建設の反対論

「その一二をあげれば、海軍部下の者はフランスに技術援助を受けることをあげつらい、またある者は無用不急だといい、大計に暗い迂儒武人たちは極口罵詈して非難し、この計画をつぶしにかかったが、既に数ヶ月前に決定していることだからいっさい取り合わなかった」(匏庵遺稿)

◇陸軍軍制をフランス式に改めるについて、シャノアンら数名を招いて騎・歩・砲三兵の技術を学ぶことを決める。
◇フランス語教師を招いて横浜に仏語伝習所を設け、将校の候補生を育成することにした。
◇フランスの養蚕が微粒子病により不振に陥っているので、幕府の厚意で純精卵紙1万枚をフランス政府に送ったところ、フランス政府はそのお礼として日本にはいないアラビア馬の雌雄それぞれ数頭を献上し、また日本の米価が凶作で騰貴する状況を見てフランス領サイゴン(ヴェトナム)の米を輸入して、米価の値上がりを防いだ。
◇フランス軍艦ゲリエール号に装備されている新鋭のナポレオンカノン砲が、最も軽くて遠くまで砲弾が達するのを、提督ジョーライスに掛け合い、夜中にひそかにこちらの舟に乗せ川口の鋳造所に運んで何台か模製するなどした。
◇これらはみな、小栗上野介、浅野伊賀守の二人と協議して、進言、提議したことがほとんど行なわれた。

◇英仏米蘭の4カ国公使がそれぞれ軍艦を引き連れて大阪へ乗り込み、兵庫開港の期日を約定よりも早めるよう迫ったとき、仮にこれを内諾してしまった阿部豊後守、松前伊豆守の老中二人が免職となり、急に水野痴雲、大久保一翁と栗本鋤雲が後任として呼ばれた。

 まず駆けつけた栗本鋤雲が兵庫開港を約定どおりに戻す交渉の専任係を命じられて、急遽外国奉行となり、安芸守を受任して横浜へ出向き、4カ国公使と談判して元通りとすることができた。これは同役水野筑後守、大久保右近将監は人数でいるだけで、ほとんど栗本鋤雲一人の交渉で4カ国公使を説破してまとめたので、栗本鋤雲の外交家としての声望が一段と高まった。

◇その年の末、下関砲撃事件の賠償金として4カ国公使に払うべき300万両のうち、第1回支払い金50万両の用立てができず、栗本鋤雲が再び公使に交渉して支払い延期を取り付けることができた。

◇慶応三年(46歳)、五月外国奉行のまま勘定奉行、箱館奉行を兼ねながらフランス行きを命ぜられる。

 <フランスで>

◇1867(慶応三)年一月、パリ万博に派遣されることになった徳川昭武一行は、出発に先立ってパリからロンドンへ渡って留学する予定であることを近侍らが発表して出かけた。英仏は日本での主導権を争っていたから、突然の留学地変更はフランス側を刺激した。パリに到着した昭武らとフランス側との間に行き違いと疑念が生じ、うまくゆかなくなっている状態を改善するため、老中はフランス側をなだめ、昭武らのロンドン行きを断念させる策を打ち出し、そのための使者としてフランス語が堪能で両方の事情に通じている者として栗本鋤雲を派遣した。


栗本鋤雲
慶応三年秋パリで写す

慶応三年六月日本を発ち、八月マルセーユ港に着いてみると昭武らはパリにはおらずスイスに滞在していたので、スイスへおもむいて、ロンドン行きを断念させた。このとき昭武の随員だった渋沢栄一はロンドン行きの主唱者であったが、大局からの判断で説く栗本鋤雲に従ってパリに留学することに変更したので、フランス側の悪感情も、きれいに一掃された。

◇ナポレオン三世はパリ滞在中の栗本鋤雲をしばしば引見して、「フランスはいくらでも兵器その他を貸与援助するから、薩長を討伐してはどうか」と熱心に説き誘ったが、栗本鋤雲はそのつど巧妙な言葉でこれを拒絶し通した。
◇なおそのまま滞在して、事態がうまくゆくよう計らうべき命を受けて参政の格に任ぜられて滞在していた。

◇スイス滞在中にアルプス登山を行ない、日本人最初のアルプス登山者となる。

   <帰 国

◇1868(慶応四)年三月(47歳)、パリを発ち、五月に帰国すると維新の変革にあって、これまでともに政務を行なったものはあるいは死に、あるいは新政府に仕えて、ひとりも知る者はいない。


秀二郎と借紅園

秀二郎ははじめの養子貞次郎の死後、養子となった。

◇長く外国にいた疲れで身体を壊し、家禄を返上して小石川に帰農した。自宅を借紅園と名づけ、五、六百坪の土地にシャクヤクを植え込み、花どきの風情はみごとであった。

   <明治以後

◇明治6年9月、郵便報知新聞社に招かれ、編集主任となる。月給150円。

◇報知新聞において編集主任のほか、随筆を書いてその軽妙洒脱、読んで思わず机を打ち、また荘重な気に引き込まれる襟を正す文章が、読者に評判となり、当時の新聞界を代表するジャーナリストとしての名を上げた。

◇明治10年、本所北二葉町に移住。

◇明治12年、東京学士院会員となる。

◇明治19年(65歳)、報知新聞を退職。
◇明治30年3月6日、76歳で死去。小石川大塚善心寺に葬る。

  ◆ 著書

『鉛筆記聞』『匏庵十種』『横浜半年録』『暁窓追録』『五月雨草紙』『蝦夷道中所看』など

  ◆ 参考文献

東京学士院雑誌 第12編の8 明治23年10月
十大先覚記者伝 太田原在文著 大正15年3月 東京日日新聞社
箱館市功労者小伝 昭和10年7月 函館市
日本史の人物像『悲劇の幕臣』 島崎藤村 筑摩書房 
匏庵遺稿 一・二  続日本史籍協会叢書 昭和50年11月覆刻 東大出版会

国際都市ハコダテ 2015平成27年2月 はこだて外国人居留地研究会箱館での住まい位置が判明

◆ 関連ページ

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