栗本鋤雲   御蔵島の「ほうろく焼き」

御蔵島の
ほうろく焼き
      石膏像の原型
 御蔵島(みくらしま・東京都)は三宅島の南隣に位置する島で、人口300人足らずの小さな村に栗本姓が多い。
 明治の初めに島から東京へ出て勉学中の栗本俊吉が同姓のよしみでジャーナリスト栗本鋤雲(じょうん)を訪ねると、鋤雲は「先祖は一緒だろう」と笑って受け入れてくれた。以来しばしば栗本鋤雲邸に出入りするようになった俊吉に、鋤雲はある日「(弟子の)犬養毅が美術学校生に造らせたものだが、うちに置いても仕方がないから、…」と栗本鋤雲の石膏でできた胸像を島へ持ってゆくように渡した。いまその像は島の祖霊社に保管されているという。
 東善寺境内にある栗本鋤雲の胸像は、その石膏像を原型として造られ、昭和30年に完成している。

栗本鋤雲像
(東善寺境内)

(クリックすると小栗上野介・栗本鋤雲の胸像風景です)
 

2006平成17年11月末、境内の胸像を見たい、とはるばる島からやってきた栗本一郎さん(御蔵島自然ガイド)からきいた「ホウロクヤキ」の話が、小栗上野介・栗本瀬兵衛ー横須賀造船所ー富岡製糸ー御蔵島をつなぐ話で面白かった。

《以下:上毛新聞「ひととき欄」》
 「ようやく激しい噴火が収まってきた三宅島の隣に御蔵島(みくらしま・東京都)という島があります。幕末の勘定奉行小栗上野介の盟友で、横須賀製鉄所(造船所)建設のとき日本側現地責任者としてフランス語を使って尽力した栗本鋤雲(じょうん)の石膏(せっこう)像が保管されている島で、倉渕村東善寺境内の栗本鋤雲の胸像はこの石膏像を原型としています。
 先日御蔵島から来た参拝者の話によると、栗本鋤雲は島に自生する桑を活用して養蚕を行なうことを島民にすすめ、それを学ぶため島の娘たちが何人も群馬県内の農家や富岡製糸へ働きに来た。その娘たちが島に戻って養蚕技術とともに伝えた「ほうろく焼き」が、いまイルカウオッチングなどで訪れる観光客向けの御蔵島のお土産になっているという。
 「焙烙・ほうろく」は広いお皿の形をした素焼きの土器、あるいは浅く丸いお盆の形をした厚い鉄鍋で、かまどに乗せたり、鉄鍋の場合はイロリの自在カギにかけられるよう半円形の取っ手もついていて、昔はどこの家にもありました。子どもの頃、母が小麦粉を水にといて野菜などを適当に入れ、味噌や砂糖で味付けし、ほうろくで焼いてくれたおやつが「ほうろく焼き」。それが群馬や富岡製糸の思い出として御蔵島に伝えられ、アシタバやレーズン、甘納豆などを入れ島の名物として今も活躍しているとはうれしい話でした。
 ちなみに、富岡製糸の木骨レンガで造られた工場や、寄宿舎、事務所、住居棟などの建物は、一八六五(慶応元)年から横須賀造船所の建設を指導していたフランス人建築家バスティアンの設計によって建てられ、輸入された製糸機械の運転を支えるたくさんの補助器具やネジ、工具類は、横浜と横須賀製鉄所から供給されていました。その二つの製鉄所の建設を進めた小栗上野介と栗本鋤雲の努力が、富岡製糸を通じて御蔵島にいまも小さな花を咲かせているということになります。

この原型の石膏像は、かつて栗本鋤雲の先輩であった外国総奉行並・山口駿河守直毅の養子(氏名不詳)が彫塑して栗本鋤雲に贈った。それを明治27年ごろ鋤雲が栗本俊吉にくれたので、御蔵島に渡ったという。[鋤雲の娘山本スタさん(明治7年生)の談]
「栗本鋤雲の門人の犬養毅が造らせた」という話は、このとき美大の学生山口氏への資金援助として作ってもらった、ということだろうか。

  ▲みんみん庵 店先で海を眺めて食べる昼食がおいしい  ▲店にホウロクがぶら下がっている  ▲イルカがかわいい

御蔵島の石膏像

島の祖霊社に安置されていて、島の子供たちは「白ン爺・シロンジイ」と呼んで怖がっている。
関連ページ
栗本鋤雲の事績 
御蔵島の旅…栗本鋤雲の胸像の原型となった石膏像を訪ねる旅
御蔵島名物・美美庵(みんみんあん)(リンク)
御蔵島の純米酒「御蔵・みくら」(リンク)

御蔵島の旅ー2(リンク)

■朝日新聞 2006.06.22 御蔵島の『ほうろく焼き』 (リンク)
■朝日新聞 2006.05.31 御蔵島との交流(リンク)
■朝日新聞 村消えても続く交流(リンク)