読者寄稿 ● ● 会津人群像bU「小栗上野介と会津」を読んで |
季刊『会津人群像』bU の 《感想・寄稿》 |
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この度、『会津人群像』第6号を拝読致しました。そして村上泰賢氏の「小栗上野介と会津」に深く感銘を受けました。以下いささか卑見を述べさせていただきたく存じます。 | |||
まず村上氏は、「明治政府は小栗を逆賊視し、その業績を歴史教育の表に出さない風潮が130余年続いてきた」と論じておられますが、私も同感です。私の父祖の地、群馬県安中の柏木義圓牧師は『上毛教界月報』に「明治維新史は厳正に批判せざるべからず」という文章を昭和3年12月に載せました。それはまさしく小栗上野介・河井継之助について論じた気迫の文章ですが、当時も現在も状況は変わっていないと感じざるを得ません。勿論そうした傾向を正さんとした先人の努力を軽んずるわけではありません。私は池波正太郎氏の『戦国と幕末』(角川文庫)や綱渕謙錠氏の『乱』(中公文庫)に描かれた小栗上野介の肖像から多くを学んでおります。しかし歴史教育の場では、村上氏の指摘された風潮が尚も根強く、私たちはそうした風潮に抗した先人の努力を引き継がねばならないと感じる次第です。 | |||
喜多方市熊倉の墓地 佐藤銀十郎の墓がある |
本国 佐藤銀十郎信一之墓 上野 (喜多方市熊倉) |
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さらに村上氏は、「明治以後の薩長史観によって、幕末の日本人の努力を不当に低く評価した歴史が教えられ、遣米使節の見聞と小栗のその後の業績は咸臨丸で隠されてきた。小栗を正当に理解するには、まず咸臨丸をどかさなくてはならない」とたいへん勇気ある発言をしておられます。ここで村上氏は’薩長史観’にのみ言及していますが、他に‘マルクス主義の歴史観‘‘皇国史観‘‘東京裁判史観‘‘司馬史観‘等を挙げることができるでしょう。思想史家の坂本多加雄氏は、『近代精神史論』(講談社学術文庫)において、「特定の歴史観をあらかじめ前提にして過去を眺めることが、その豊かで多様な現実を捨象してしまう」と指摘されましたが、まさしく私たちは、‘咸臨丸をどかす‘気概で日本の歴史に向き合い、自らの言葉で次の世代に語り伝えなければならないと思います。
そして最後の村上氏の「命がけで小栗夫人一行を守り、あるいは会津の土になった村人の義の行いは、そのまま130余年後の上州人の誇りであり、言い訳も説明もせず黙々とおのれのなすべき当事者責任を果たして死んでいった小栗公の業績と共に永く語り伝えたい」という言葉は、私の胸の底にたしかに届きました。平成の今日、東京の片隅の役所に勤め、子育てをしながら、喜怒哀楽の日々を送っておりますが、村上氏の言葉を心に刻み屈することなく歩んでいく所存です。 |
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