小栗上野介(東善寺)     小栗上野介・対馬事件    露艦退去の通説を糺す・史跡探訪      
 対馬事件の通説を糺す

 ■小目次  通説を糺す へ   対馬事件の史跡 へ   小栗の濡れ衣 へ  勝海舟の虚言 へ
 ■暦日について 和暦、西暦、露暦が関係するため以下の文中、
         例:二月三日は和暦=漢数字、西 3月13日は西暦、3月1日は露暦、を表す。
        対馬事件とは・・・

  ロシアの軍艦ポサドニクが対馬に不法に侵航し滞泊をつづけた事件
   別名「ロシア軍艦対馬占領事件」「ポサドニック号対馬占拠事件」「ポサドニック号事件」「露艦対馬占領事件」ともいう
 
 文久元年(1861) 二月三日(西 3月13日、3月1日)、対馬の浅茅
(あそう)湾にロシア軍艦ポサドニク(艦長ビリレフ ビリリョフとも)が船の修理を口実に突然入航、芋崎浦にそのまま居座りを続ける事件が起きた。 反発した島民や農兵とのトラブルから農兵松村安五郎が射殺され、捕われたのを恥じた吉野数之助は舌を噛んで自害するなど、殺傷事件も生じた。艦長ビリレフは船の修理のためという口実から、材木提供や人員資材の提供を要求するようになり、しだいにイギリスの侵入を防いであげるという口実で土地の租借へと要求をエスカレートさせた。対応に苦慮した対馬藩からの報告で、遣米使節から帰国後に外国奉行に任ぜられていた小栗豊後守忠順は、目付溝口八十五郎とともに「見回り=視察」を命じられて対馬へ向かう。
                       
 


 通説を糺す
    対馬事件発端と露艦退去の真相
―通説
「英艦が派遣されて退去した」は誤り
  小栗忠順の交渉経過

五月七日対馬に到着。宿所となった港近くの藩士亀谷行蔵方へ、藩主宗義和が出向いて表敬訪問。
五月十日、十四日、十八日、三回にわたりポサドニク艦長ビリレフと会見し退去を要求したが、のらりくらりの返事で退去を同意することはなかった。
五月二十日、小栗忠順、溝口八十五郎は対馬を離れ江戸へと帰る。

 明治以後の史家は「小栗上野介は成果を上げることなく対馬を離れた」としている。
 
 小栗の考えは、艦長ビリレフはロシア海軍上層部から命じられて行動している。軍隊組織の末端にすぎない艦長ビリレフとこのまま交渉しても要求通りに退去するはずがない。江戸へ戻って幕府がロシアのハイレベルと交渉して退去命令を出させることが必要との判断であろう。

①外交交渉を通じて、ロシアのもっと上層部に抗議と退去要求をすること。
②対馬は今後もこういったトラブルの場所となりやすいから、宗家の対馬藩には九州の別の領地を与えて対馬を幕府の直轄地とし、必要なら開港場として外国船に寄港・交易を認めれば、他の外国との兼ね合いからロシア一国の勝手な行動はできなくなる。
③現に対馬藩は九州の他の土地への領地替えを内々に希望している。

 しかし時の老中安藤信正にはこの提案は受入れられず、英公使パークスのイギリス軍艦を派遣する申し出に乗って、露艦の退去を図ろうとした。小栗忠順はそのやり方は「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と反対し、外国奉行を辞任した。

結果は…
英艦リンドーブのホープ中将が出向いて退去を勧告しても、やはりビリレフは退去しない。もし英艦が来たからといって戦いもしないうちに劇画のように睨み合っただけでコソコソ退去したら、ビリレフはロシア海軍によって命令違反・任務放棄で軍法会議にかけられるだろう。まして勝海舟の英公使~露公使への働きかけのおかげなどと、英艦派遣とは全く噛み合わない話も、いまだにまかり通っている。

結論を言っておけば
1、箱館奉行村垣淡路守範正~箱館領事ゴシケヴィチに対して、日魯修好通商条約に反する対馬滞留は不法である、という幕府の抗議と退去要求が効いている。

2,はじめ外務大臣ゴルチャコフから「対馬への滞泊と基地租借要求は、外交は関係なく海軍だけの単独行動」を伝えられていたからゴシケヴィチも「知らなかった」ととぼけていたが、幕府の退去要求と江戸の外国外交団が問題行動としていることを伝えられてしかたなく腰を上げ、提督リハチョフあてに退去させたほうがいいという勧告を送っている。
 
そもそもの発端は
英艦の対馬不法侵入

  

イギリスの不法行為1858安政五年の日英条約・日露条約ともに 「外国船は緊急の気象避難以外には定められた港以外に寄港してはならない」  ことが定められている。

 ・1859安政六年四月にイギリス軍艦アクチオン号、十一月英艦アクチオン号・ドーフ号   と二度にわたって対馬で不法に測量・上陸して白嶽に登るなどした。

(ちなみに、小栗忠順はこの年九月に遣米使節(目付)を命じられた。その前後の四月と十一月である。翌安政七年(三月から万延元年1860)一月に渡米~世界一周で~九月に帰国している)

 この英艦の情報を得てロシアは焦った
・箱館のロシア領事ゴシケヴィチは、英国は中国の次に対馬を抑えてロシアを封じ込めようとしているらしい、とロシア外務省に報告した。
・北京の露国特命公使イグナチェフ(元陸軍将校)も、英が中国の次に対馬を狙っているらしい、と露国東洋艦隊イワン・リハチョフ提督に伝えた。リハチョフは海軍大臣コンスタンチンニコライエヴィチ大公(皇帝の弟)に報告した。

◆ロシアの不法行為 
ロシア海軍が「私的契約で土地を租借」する方針  
                        *露国外務省は無関係の立場を取った

 

  1860万延元年六月二十八日7月22日、このリハチョフ報告を皇帝の前で披露した海軍大臣コンスタンチンは、対馬に露艦を派遣して居座らせ、既成事実の積み上げで対馬の大名から基地を租借することを提案した。

 ロシア皇帝アレクサンドルⅡ世は日本との外交関係を損なうことを懸念した。

 しかし海軍大臣コンスタンチンは
日本では幕府とは関係なく土地の大名の了解を得られれば外交交渉の形式を取らずに租借が可能
として皇帝の了解を取り付け、対馬への進航を提督リハチョフに指示した。
 海軍大臣コンスタンチンにしてみれば藩ごとに自治権を与えている幕藩体制の弱点をついた案、のはずだった。
      海軍大臣コンスタンチンは皇帝の弟
    「大名との取引で・・・外交の形式をとらず…」
               (海軍大臣コンスタンチンから提督リハチョフ宛 指令書)
「…日本帝国の封建制度は、君が中央政府と関係することなしに現地の大名、あるいは領主との友好的な取引だけで済ませることができるという意味で今回の問題の助けとなるかも知れません。君が執り行う交渉はすべて、決して外交の形式を取ってはならず、初めは現地政権とわが国艦隊との個別取引の形で行われなければなりません。・・・」(万延元年(1860)年六月二十一日7月26日→12月半ばにリハチョフ受領)
                         (伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館2009年)


 露国外務省は「高見の見物」
  
 ◆なぜ海軍大臣コンスタンチンは「決して外交の形式を取ってはならず」と念を押したか

 外務大臣ゴルチャコフは皇帝臨席の閣議で、反対したかった。
 日本の港へは日露修好通商条約で
      「決められた以外の港は難破など緊急避難の他に入港を認められていない
から、こういう条約違反の既成事実を作り上げ土地の租借を図るような粗雑なやり方は

 1 ダイミョウ(地方領主)だけでは処理できず、日本政府(幕府)とのトラブルになる…これまで積み上げた信義に基づく外交がぶち壊しになる
 2 日本駐在の欧米外交団から干渉が入ることが、十分に考えられる

のでとてもうまくゆかないだろうから、反対したかった。
 しかし、海軍大臣コンスタンチンは海軍のトップであるだけでなく、皇帝アレクサンドルⅡ世の弟であることからロシア政界に強い発言力を持っている。正面からの反対はしにくいので、外交抜きで海軍だけでやってくれと、外務省に責任が及ぶことを上手にかわした。

 この意見を受けて、海軍大臣コンスタンチンは外交抜きでやる、外交が口出ししないほうがやりやすい、海軍だけでやってみせると単純に喜んでいることが背景にある。
 
  「滞泊の既成事実を積み上げ・・・対馬藩との海軍の私的契約で基地を設立・・・外交は必要ない・・・」
       ( 海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡)


 「外務大臣ゴルチャコフは、……この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました。それ故私はあなたに手紙を書きます。
この問題は外交的条約ではなく、海軍の私的契約という性格を持たなければなりません。問題は、我々がこの島に海軍の基地、自由港を設立できるかどうかということであります。そのためには、
どのような外交も必要ではありません
 これを、あなた自身より上手にやれる人はおりません。もし、あなたが、対馬当局との地方的交渉に限定できるか、あるいはなんの交渉もなしに既成事実を積み上げる方がよいでしょう……」
岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)
 
   ・外務大臣ゴルチャコフの懸念―露日修好通商条約を結んだ国日本で、海軍の考える居座りの既成事実から租借に持ち込むような粗雑なやり方は必ず幕府とのトラブルになるし、英米仏などの外交団も黙っていない。かと言って皇帝の前で皇帝の弟の海軍大臣コンスタンチン大公には正面から反対はしにくいから、外務省は関係なしに海軍だけでやってくれ、という立場を確認した。「高見の見物で、お手並み拝見」ということ。
 
 ・海軍大臣コンスタンチンは―グズグズいう外交官が口出ししないほうがやりやすい。日本の地方領主ダイミョウなどおだてと脅しとすかしで、既成事実を積み上げればちょっとの土地くらいすぐに貸してくれるはず。…と、各藩の自治に任せる部分が多かった日本の封建制の弱点を突いたつもりだった。日本政府(幕府)の外交能力や、国民の民度を低く見て、そのやり方が通用する国とみていたフシがある。「これをあなた自身より上手にやれる人はおりません。」とリハチョフをおだて上げて実行を命じている。

 提督リハチョフの困惑― もう一度これまでの流れをまとめると
1859年5月21日に提督リハチョフは海軍大臣コンスタンチンに対馬を租借し基地建設することを提案
・同 5~6月に皇帝アレクサンドルⅡ世の前で海軍大臣コンスタンチンが軍艦の対馬派遣による滞泊と租借を提議。外務大臣ゴルチャコフは海軍だけでやってくれ、と外交はノータッチを主張。ー海軍大臣コンスタンチンは了解。
・同年7月26日、海軍大臣コンスタンチンから「交渉はすべて、外交の形式をとらず、初めは現地政権とわが国艦隊との個別取引の形で行わなければなりません。」との指令書を受取った。
  困惑
・まさか「外交抜き,=海軍だけで実行」という事態は想定外だった。果たして本当にうまくやれるか―
・うまく運ばなければ提督リハチョフにすべての責任がかぶせられるやり方、とリハチョフは受け止めたらしい。
 このリハチョフのためらいが対馬進航を艦長ビリレフに指示しながら、リハチョフ自身の消極的な対応を生み出している。
 
 たとえば
 ・提督リハチョフの消極的対応
  ビクター・シュマギンの考察では
 「リハチョフは、対馬作戦においてロシア海軍基地の建設が最も重要な任務であると考えていたようだが、あまり積極的に任務を果たそうと奮起した様子はない。」
 「事件中に彼は二回しか対馬に来航しておらず、(3月28~29日と4月16~18日の計3泊5日の滞在)、来航時に行われた対馬役人とのロシア海軍基地の建設や賃借権などについての交渉にも参加しなかった。」
 「作戦については4月18日以降ビリリョフ海軍大佐に一任し、9月14日にビリリョフに撤退命令を出すまで、何も自ら関わりを持とうとしなかった。」
 「時折対馬に他のロシア軍艦を派遣させたが、船長には具体的な命令を出していない。」

(ビクター・シュマギン「『リハチョフ航海日誌』から読み解く対馬事件」東京大学史料編纂所研究紀要 第25号 2015年3月)
 と指摘している。
 露海軍の独走で起きた対馬事件
命令: 海軍大臣コンスタンチン→東洋艦隊リハチョフ提督→露艦ポサドニク艦長ビリレフへ
 
艦長ニコライ・ビリレフ(ビリョリョフ、ビリリョフとも)

 「領事ゴシュケビッチを箱館に送ったらすぐに引き返して対馬へ行き、島の航路と資源などを調査すること。もし船の修理が必要なら、外洋から見られることのない湾の特性を活用しなさい」=人目につかないところで「修理を名目に拠点を築き、既成事実を積み上げる」  ことが指示された。

          提督リハチョフから艦長ビリレフへの命令書 <極秘>
                                           
  領事ゴシケヴィチ氏を箱館に送り届けたら、時を失うことなく朝鮮海峡と対馬に行って下さい。…できるだけ早く上記の湾に到着し、そこにコルヴェット艦を停泊させ、この湾から始めて対馬全体の、さらには朝鮮海峡両岸の詳細な航路調査にすぐ取りかかって下さい。言うまでもないことですが、両側の航路の調査に限定するだけでなく、この辺境の状態と資源について必要な情報をすべて集めるように努力して下さい。仕事を急ぐ必要はないから、すべて詳細に仕事を進めるように注意して下さい。
 コルベット艦の修理が必要なら、この美しく、外洋からまったく閉鎖されている湾に停泊していることを利 用して下さい。
以下略
      (
1861年2月2日長崎にて・極秘・『文久元年の対露外交とシーボルト』保田孝一編著
  「基地を築け」「既成事実で租借を迫れ」という直接的な表現を避けているのは、もし後で責任問題となった場合「現場が勝手にやったことで、そこまでは指示していない」と逃げるための伏線であろう。ヤクザの親分が「若いモノが勝手にやったこと…」、政治家が「秘書がやった…」というのと同じ言い逃れの論法とみていい。


対馬事件を理解するには
1 外務大臣ゴルチャコフはじめ魯国外務省の箱館領事ヨシフ・ゴシケヴィチ北京公使イグナチェフ外務省関係者はみな傍観者
 
 外務大臣ゴルチャコフは皇帝の前で、在北京公使イグナチェフ・箱館領事ゴシケヴィチを巻き込まないよう、海軍大臣コンスタンチンに釘を差している

  (外務大臣ゴルチャコフは)この問題を誰に任せてよいかはっきり判らないと言い、イグナチェ フに任せることを欲しないと 断固として言いました。この席で彼はイグナチェフを この問題から解放するように私に願い、この問題を外交問題としてではなく、純粋に海 軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私はもちろん、この 展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました  
   
(海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)

 当然外務大臣ゴルチャコフは、対馬で露国海軍の問題が起きたら、一切関わりを持たないよう箱館領事ゴシケヴィチや在北京公使イグナチェフに指示を出していたと考えられる。

2 ロシア海軍が独断で行い、
外務省は傍観していた  
 
 海軍大臣コンスタンチン→リハチョフ提督→ポサドニック艦長ビリレフ の海軍の独断による指示で起きた事件。
   
3 ポサドニック号艦長ビリレフは命令で進航・滞泊していて、勝手に退去できない立場
 
 艦長
ビリレフは個人の思いつきで対馬へ進航したわけではない。あくまで命令されてやってきた海軍組織の末端だから、露艦ポサドニックを退去させるにはこの命令ラインの上部から退去命令を出させなければならない。
 小栗上野介
が対馬に派遣されて2週間滞在・3回交渉しただけで江戸に戻ったことを非難するのは当たらない。五月十四日6月9日のビリレフとの第2回めの会談でビリレフは小栗にこう語っている。

    小栗上野介と艦長ビリレフ 第2回会談で
 ビリレフ「船の修理をしていたらちょうどそこへ(リハチョフ)提督から命令があって、修理滞泊のついでに海図を作成するように言ってきたのだ。それに英仏もこの地を狙っているから、我々がいる間は、両国も手を出すことはできないだろう」
 小栗「そういう話なら、ロシア政府から直接わが政府に申し出るべきではないか」
 ビリレフ「それはわかっているけれど、私からは答えられないから、詳しいことは提督か(箱館領事の)ゴシケビッチから話があると思うから、そっちから聞いてくれ」
    (日野清三郎『幕末における対馬と英露』)
  *ビリレフは外務省が傍観の立場であることを知らされていないから領事ゴシケヴィチの名を出したと思われる。

                           

 艦長ビリレフは個人の思いつきで対馬へ来ているのではない。露国海軍という軍隊組織の末端で命令されてきているのだから、いくら抗議されても上部から撤収命令がこない限りビリレフは動けない立場である。

 小栗上野介はそのことを理解した。しかも外国奉行小栗上野介への派遣任務は「見回り」で、藩主を飛び越えての交渉権や幕府を代表しての決定権は与えられていない。もっとロシア外交関係とのハイレベルの交渉で退去に持ち込まなくてはいけないと判断して江戸に戻った。

 「小栗上野介は解決できず江戸へ戻った」という通説は誤り
 どこの国の軍艦も皆上部からの命令で動いている。ビリレフ艦長も思いつきで対馬に滞泊しているのではない。(これまでの歴史家がこのことを考慮しないで(現場だけの交渉で)退去させられなかったと論じているのが不思議)

 この頃、芋崎浦には、国旗掲揚台にロシア国旗が掲揚され、ロシア式蒸し風呂、台所、鍛冶場、納屋、診療所、波止場、野菜畑、が作られ、あるいは計画された。
  通説露艦ポサドニックは「英艦が行ったから退去した」…は誤り
   
 従来「英艦が派遣されて露艦ポサドニックを退去させた」とする説が、あたかも軍艦どうしのにらみ合いがあって露艦がスゴスゴ引き下がった劇画のようなイメージで語られてきた。
 しかし上記のように、もし艦長ビリレフが提督リハチョフからの命令なしに退去した場合、間違いなく任務放棄・命令違反を問われ軍法会議にかけられることになるだろう。

 実際はどうだったのか、露艦退去の前後に何があったのかを下の「対馬事件後半の経過」表でみると―

・箱館奉行村垣範正からたびたび抗議を受けた在箱館領事ゴシケヴィチから幕府の抗議と江戸における欧米外交団の不評と反発を伝えられ、提督リハチョフが撤退を決意したのは六月末。つまり、英公使オールコックらと老中酒井忠毗ただます英艦派遣の相談以前に露艦の退去を決定している。

・英艦リンドーブのホープ中将が対馬に着き、ビリレフに退去を勧告したのは1861文久元年七月二十三日(8月16日)。
 しかし、ビリレフは退去せず
・三日後の二十六日に提督リハチョフからの退去指令が対馬の艦長ビリレフに届いたが、それでもすぐに退去せず

・実際に 露艦ポサドニックが対馬を退去したのはホープの勧告の23日後八月十五日9月7日 である。
   これでは「英艦が行ったので露艦が退去した」とはいえない
 
 和暦  洋暦 露暦  対馬事件の後半の経過   事      項 
 四月十三日  5月22日  5/10  【江戸】幕府は外国奉行小栗忠順に対馬での「見廻り」を命令/箱館奉行村垣淡路守範正に領事ゴシュケビチに抗議と退去申入れを指示  

 四月十八日 5月27日   5/15  ・小栗は四月十八日江戸発→中山道→五月五日下関→→五月七日対馬着、十・十四・十八日にビリレフと会談し、二十日対馬出航→江戸へ戻る
 六月十日  7月17日  7/5  【箱館で】箱館奉行村垣範正が露国領事ゴシケヴィチに露艦の対馬退去を要求。第一回。ゴシケヴィチは「そのようなことは知らなかったが、退去に同意し、ポシェット港あるいはヲリガ港滞在の提督リハチョフと対馬の艦長ビリレフに伝える」と約束
 七月三日 8月8日   7/27 【箱館で】 箱館奉行村垣範正、再び領事jゴシュケビッチに露艦退去を要求。第二回。
 七月九日
十日
 8月
14日15日
 8/2/3 【江戸で】 英国公使ラザフォード・オールコックと東インド極東艦隊司令官ホープ提督、ロビンソン総督、オリファント書記官等が、外国掛老中安藤信行・若年寄酒井忠毗(ただます)・通訳ら幕閣に英艦の対馬派遣を提案、了解を得る。*この場に勝海舟はいない
 七月十二日  8月17日  8/5 【箱館】 リハチョフから箱館領事ゴシケヴィチに「退去に同意し、(連絡の)露艦オブリヤークを対馬に差し向けた」と返信が届く。
 七月二十三日  8月28日 8/16  【対馬】英艦リンドーブのホープ中将が対馬に到着。ビリレフに会い、5ヶ国条約を盾にとって退去を勧告。 
*しかし、ビリレフは退去しない
*ホープはそのあとオリガ港へ行き、八月一日(西 9月5日)提督リハチョフ宛に退去勧告の手紙を残す。
七月二十六日  8月31日  8/19
 
 【対馬】露艦オブリチニックが対馬着。リハチョフ提督とゴシケヴィチ領事の対馬退去命令を伝える。
ビリレフは対馬藩士に「八月中旬に出航し箱館~江戸へ行く」と伝える
 七月三十日 9月4日  8/23
 
 【対馬】ビリレフ、露艦オブリチニックで壱岐へ測量に向かう。八月七日対馬に戻った。
 八月五日 9月9日  8/30   【箱館】前日対馬から箱館に入った英艦エンカウンターから「七月二十四日時点では露艦は退去していない」と聞き、奉行村垣は領事ゴシュケビッチに抗議。
 村垣が「ビリレフは土地の租借を要求した」と伝えるとゴシケヴィチは「ビリレフの独断だ、ロシア政府は対馬の警備を露国が当るという条約を結んで英国の野望を防ぎたいだけ」と答えた。
 八月十日  9月14日  9/2  【箱館】奉行村垣範正は領事ゴシケヴィチに強く露艦退去を要求。
 八月十五日  9月19日
 9/7  【対馬】艦長ビリレフは露艦ポサドニックで対馬出航。箱館へ。  *実質上の対馬退去
 八月二十五日 9月29日
 
9/17
 【対馬】露艦オブリチニックも対馬を退去  *対馬滞泊の露艦はすべて退去した

 上記の表からわかることは

1、【箱館】六月十日、箱館で箱館奉行村垣淡路守範正領事ゴシケヴィチに対馬の露艦ポサドニクの滞泊に抗議し、退去を要求した。領事ゴシケヴィチは外務省は傍観者の立場だったから一応「そういうことは知らなかった」ととぼけ、条約違反であることは明白なので、「確かに不都合なこと」と応じて退去するよう伝えると応じている。
 
 この時点で、ロシアの外交が動き出すこととなりロシア海軍独自の行動という前提が崩れた。=提督リハチョフにとっては、指示された命令の条件に合わなくなった。
・【箱館】これ以後箱館奉行村垣は七月三日、八月五日、八月十日と領事ゴシケヴィチに露艦退去を要求している。

2、リハチョフ提督が露艦の対馬退去を決めたのは、七月十二日(8月5日)以前=少なくとも1週間以上前であること。対馬まで船で伝える準備と出航の時間差があって、リハチョフ提督の退去命令伝達が英艦のホープ中将の対馬到着よりも3日遅かっただけ。
 リハチョフ提督の退去の決定は七月九日・十日(西 8月14日15日、8月2日・3日) に、江戸でオールコック公使が水野老中に会見提案する以前に既になされている。

3、七月二十三日に対馬に到着した英艦ホープ中将が艦長ビリレフに退去を勧告してもビリレフは応じず、3日後の二十六日に提督リハチョフの退去命令を受け取りながら、さらに23日後の八月十五日に退去している。
 「英艦が出向いたから退去した」とはとても言えない。通説「英国軍艦が対馬に行ったので、ロシア軍艦が退去した」は、誤りである。

4、ホープ中将が対馬でビリレフと会った後オリガ港まで出向いて、留守で会えないリハチョフ提督宛に退去勧告の手紙を残したのは、小栗と同じく海軍上部から艦長ビリレフ宛の退去命令が必要(軍隊の常識)と判断しての行動。

提督リハチョフは
 当初から消極的な対応をしていたが、早くも4月22日三月二十五日)付海軍大臣コンスタンチン宛の報告で

  「当該訓令では、私の交渉は、決して外交交渉の形を取るべきではなく、先ず最初は我が国と現地権力との私的な取引の形で行われるべきである、と命ぜられておりました。かくして、私に課せられた任務は、私の双肩にかかっております限りにおきましては、ほぼ完全に為し終えたと看做すことができるであろう、と存じます。残されましたことは、今までに為した ことを強固にするための方策をお採りいただくことを、殿下にお願い申し上げることだけであろう、と存じます。」「…中央政府との交渉に入るのが遅くなればなるほど、その同意を得ることが困難となるでありましょう。…信任状を与えられた大臣(公使)の派遣の必要を私が確信する理由はまさにそこにあります…」       
 (ビクター・シュマギン「『リハチョフ航海日誌』から読み解く対馬事件」東京大学史料編纂所研究紀要 第25号 2015年3月)
 と「自分の任務は果たしたから、あとはこれを補強する手立てを講じてくれるよう」要請をしている。

 現場を知らない海軍大臣コンスタンチンの単純な指示通りに動いたら、いずれ日本在留の欧米外交団に伝わり外交問題になって身動きが取れなくなる。しかもその責任を取らされるのは自分、と提督リハチョフには見えていたということであろう。

 その後事態は提督リハチョフの懸念した方向に進み、
・想定した以上に対馬藩が抵抗して租借要求は進展しない
・幕府が乗り出して外交問題となり、領事ゴシケヴィチが退去を勧告してきた
・江戸の各国外交団も露艦の不当な対馬滞泊を非難する事態に陥ってしまった
ことが分かった。
 
 海軍大臣コンスタンチンが指示した
最初の条件「海軍と対馬藩だけの私的契約で進め、外交問題にしない」に合致しなくなった。ここで手を引いても、自分の責任は問われない。
 箱館領事ゴシケヴィチの言うとおり、ここは退くしかないと、退去命令を発したのが真相であろう。
 
 英艦の派遣に反対した小栗と村垣淡路守範正
「前門の虎を追い出し、後門に狼を招くようなもの」
  小栗忠順の考えは、

①外交交渉を通じて、ロシアのもっと上層部に抗議と退去要求をすること。

②対馬は今後もこういった国際的なトラブルの場所となりやすいが、外国語通訳もいない小さな藩の力では対応しきれない。対馬藩は以前から九州の他の土地への領地替えを希望しているから、宗家(対馬藩主)には九州の別の領地を与え、対馬は幕府の直轄地とするのがよい。
 
③ 必要なら国際開港場として外国船に寄港・交易を認めれば、他の外国との兼ね合いからロシア一国の勝手な行動はできなくなる。

 しかし時の老中安藤信正はこの提案は受入れず、英公使パークスのイギリス軍艦を派遣する申し出に乗って、露艦の退去を図ろうとした。小栗忠順はそのやり方は「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と反対し、外国奉行を辞任した。

 箱館奉行村垣淡路守範正も英艦の派遣を聞いて「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と反対した。遣米使節二人の見解は一致していた。

対馬藩宗家の移封(領地替え要望)   藩が以前から希望していた 

  【対馬藩内にはもともと露艦問題以前から移封論があった】  

 移封論 対馬は険しい地形で田畑が少なく、木綿や絹、朝鮮人参などの珍しい貿易品も江戸初期には旨味があったが国産で間に合うようになって、朝鮮貿易の旨味が減少しているので、九州の他の土地に移封(領地替え)して貰いたい。藩の江戸家老佐須伊織らが中心になっていた。

 反対論  元寇の役(1274文永十一年)に際して勇敢に戦って果てた宗助国を藩士が誇りとし、島民の信頼を得てきた。露艦の対応に苦慮しているからと言ってここで対外問題で島を見捨てて安きにつくのは武士の恥じる処。
 
 「先に露艦来泊についての第一回の幕府への報告が、二月末に江戸屋敷へつくやいなや、佐須伊織は自己の主張を推進する好機とばかりに早速、国許へ急使を送って移封の必要性を説いた。かくして移封論は露艦対策と結びついて急速に力を得ていき、ついに三月二十八日の藩邸での協議で藩政の基本方針として採択された。」 
                               (日野清三郎『幕末における対馬と英露』)
 上記をまとめると
 露艦滞泊を契機として江戸藩邸では移封論が広がり、三月二十八日藩邸の協議で藩政の基本方針として決議した(小栗上野介が対馬派遣を命ぜられたのは四月六日
 ただし、宗家からの願いでなく、露艦への対応上幕府から転封を命じられる場合はやむをえず応じる、と有利な条件つきならお受けできると匂わせる報告書をまず江戸に送った。

 その後、対馬で六月十三日、藩主宗義和(そう・よしより)は移封について移封内願書を江戸に送り、八月一日幕府に提出した。
  内願書の抜粋・意訳
 …もし万一ロシアの要求通りに租借地を認めたりした場合は、島中の者どもはこれまでのロシア側の仕打ちを怒っており 、その感情をなだめてもとても抑えきれない状況です。またロシアに認めた場合は英仏などの諸国も同様の許可願いが  出て、もう外国のような島になりとてもこれまで通りの経営はなりゆかなくなります。対馬が幕府の直轄地となる場合は、肥 前筑前などの最寄りの土地を移封の地として当てて頂きたい…   
              (日野清三郎『幕末における対馬と英露』)

      小栗上野介に濡れ衣
でも、…この件に関して『小栗上野介が転封を対馬藩に強要した』とする説(=濡れ衣)が出ています。    
 「小栗は対馬を天領としてロシアに浅茅湾を軍港として貸付ける。…追い出される対馬藩から強烈な反発が出るし、対岸 の長州も…うまみのある対馬経由の貿易が一切不可能になるということで必死の抵抗をするはずである…」
として、それが理由で
 「…小栗は官軍によって処刑されるが、その原因を対馬問題の時から作っている…」 
 
                  (上垣外憲一『勝海舟と幕末外交』中公新書・2014平成26年刊・抜粋)
と、とんでもないことを理由に6年後の慶応四年に起きた西軍による小栗上野介主従殺害を正当化しています。

転封を強要したか…時系列で見ると
・三月二十八日 対馬藩は江戸藩邸の協議で藩政の基本方針として移封要望を決議した
・四月六日  小栗上野介が対馬派遣を命ぜられた→五月七日対馬着
 
 小栗上野介が対馬事件に関わる以前に藩では移封を要望することを決議しているのに、なぜ「小栗上野介が強制した」ことになるのか、根拠史料も示さず(推測であろう)「移封を強制した」「ロシアに浅茅湾を貸し付ける」とするのは理解に苦しむ。
◯小栗主従は「処刑」されたのではない
 この濡れ衣を元に、西軍による〈小栗父子主従8名を殺害―家財没収―入札で売り払い―軍資金とした〉ことを正当化する記述につなげています。「処刑」とは取り調べて罪状を明らかにした上で行うこと。取り調べなしで行った「官軍の行為は、強盗殺人という。
   
  関連ページ
  ◇小栗上野介・通説の誤り
  ◇官軍意識との戦い
  ◇「罪なくして斬らる」…顕彰慰霊碑文
 対馬を狙っていた英国
  
 ・在箱館の英国領事ホジソンは『長崎箱館滞在記』で対馬について次のように「対馬を支配下にすべき」と書いている。

    ◆英領事ホジソン『長崎箱館滞在記』
 われわれにとって肝要な点は、疑いもなく対馬島を視界に入れることである。同島はどん な軍艦にも役立つ左右に出口を持ったすばらしい港を持ち、木材や水があり、われわれ を歓迎してくれる住民は、この上なくもてなしがうまい民族で氷に覆われた満州と中国 の絹生産地を結ぶ大そう優雅で重宝なはね橋の役を果たす。

 そして「吾人(英国)の急務は対馬をペリム島となすにある」として、対馬を紅海からアデン湾への出口にある英領の小島ぺリム島にたとえて英国の支配下に置くことを主張している。
           → 
                             ▲ペリム島(イギリスが貯炭場を置いた。現在イエメン領)

・対馬事件さなかの文久元年六月、英国公使オールコックは外務大臣ラッセル宛に、やはり「対馬を英国が支配すべきだ」と報告。
   ◆英国公使オールコックから外務大臣ラッセル宛報告書
 予は露国が着手する数年前に、他の西欧強国が同島に先鞭を著けずして放置したるを奇異 に感ずるものである・・・略…露艦の不法を詰って退去を迫り、若し露艦がこれを拒む場合 は、英国自身がこれを占領すべきである。

としてさらに、そのやり方まで下記のように提議している。対馬は無人島ではない、れっきとした日本人が住む領土である。その島を幕府が「放置した島」としているのは不思議だから次のようなやり方で幕府・日本からから取り上げたらいいと書く。

 
その手段としては、日本政府に条約履行の保証と大阪・兵庫の開市開港とを強要し、これを容れざる時は、従 来の条約違反に対する賠償として割譲せしむべきである
                    
(大塚武松『幕末外交史の研究』宝文館・昭和27年)
 「こちらの要求通りに大阪・兵庫の開港を受け入れなかった場合は条約違反だからとして、その賠償に対馬を取り上げたらいい」―こういう思考を持つ英公使オールコックの提案に乗って対馬への英艦派遣を承諾してしまったことは、きわどい措置であった。

 条約違反を言うなら、そもそもこの事件の発端がイギリスの条約違反から始まっている。1859安政六年四月にイギリス軍艦アクチオン号、十一月英艦アクチオン号・ドーフ号、と二度にわたって対馬で不法に測量・上陸して白嶽に登るなどした、この条約違反の責任を取るのが英国が先ずなすべきことなのに、人に因縁をつけることが先になっている。当時の欧米先進国外交官は、この程度のヤクザまがいの外交を普通に行なっていたことがわかる。

勝海舟の虚言  「氷川清話」   通説の誤り  
  
*「氷川清話」は放談の一部だから対馬事件を語る部分は編者・出版社によって以下のように該当箇所の「表題」が異なります
勝海舟の「彼をもって彼を制す」
講談社文庫 or「外交の秘訣」幕末維新史料叢書2・人物往来社 or 「ロシアの侵略主義」角川文庫   …はいずれも勝海舟の虚言
 
勝海舟の『氷川清話』に次のような対馬事件解決に関する談話がある。
 
     勝海舟『氷川清話』
 「さあここだ、…かういふ場合こそ、外交家の手腕を要するといふものだ。」
として懇意にしていた長崎に居た英国公使オールコックに内密に頼み込み、北京駐在の英国公使から直に露国公使に掛合ってもらって、
「わけもなく露西亜をしてたうたう対馬を引き払わせてしまった…。これがいはゆる彼に由りて彼を制するといふものだ」
(『氷川清話』)
 
  念のため上記の勝海舟の話を確認しておくと
 【1】(長崎にいた)英国公使オールコックから→(北京の)英国公使→(北京の)露国公使イグナチェフに伝えて退去させた、という外交だけで退去させたと語る話 である。

 得意そうに語るこの談話が一部歴史家に信じられ、
 次の歴史の史実
 【2】英国公使の提案を安藤老中が承知したので英国軍艦が対馬へ行き退去勧告(ただしビリレフは退去を拒否)した史実    
とくっつくけて、
 【3】「勝海舟が英国軍艦を頼んでロシア艦を退去させた」

  というごちゃまぜの話にまで発展して通説となっています。

 ・勝の言葉は以下のように史実に照らすと後世の虚言
といわれても仕方がない。

1、勝海舟が頼んだとすると、それはいつか…  「 」内の青文字は勝海舟の言葉
 「当時長崎に居た英国公使」オールコックは、二月三日に対馬事件が起きた2カ月半後の文久元年四月二十三日に長崎を発して下関まで歩き、下関~(船で)~兵庫、徒歩で東海道を経て五月二十七日に江戸に着いている。

 したがって勝の働きかけはオールコックが長崎にいた四月二十三日以前でなければならない。「わけもなく対馬を引き払わせてしまった」なら、せいぜい2,3ヶ月で片がつきそうな話である。
 
 しかし、七月九日安藤老中との会談でオールコックが英艦派遣を提案する以前(長崎滞在中)にオールコックがこの問題で動いた形跡はない。

 また、もし勝海舟の言うとおりに四月にオールコック→北京の英国公使→北京の露国公使イグナチェフ と動いて「外交家の手腕で…わけもなく」解決していれば、5ヶ月も経過した七月九日に英国公使オールコックが改めて軍艦派遣という別の提案を幕府にする必要はあるまい。

2、勝海舟が「内密に頼んだ…というが、内密では証明する必要がない・反論のしようもないから語り手に都合のいい話。

 七月九日の江戸における英公使オールコックと安藤老中との会談には同席していないことを、まず確認しておく。この日の会談では、外国人との交渉では目付が同席する幕府の慣例にオールコックが抗議して、目付を退席させているくらいだから、一部にある「内密に屏風の裏に勝海舟がいた」などとする説も通らない。
 歴史を語るのに「内密」や「極秘」を駆使して自説を都合よく展開させるのはうかつに信用できない。


3、解決の違い…史実では、英国軍艦のホープ中将が対馬で露艦艦長ビリレフに退去勧告をしている(ビリレフは退去しないが―)。
 海舟の話【1】では、勝に内密に頼まれた英国公使オールコックが→北京の英国公使に話し→北京の露国公使イグナチェフに掛合って外交だけで―「わけもなく対馬を引き払わせてしまった」ことになっている。
 これではオールコックが安藤老中に英艦派遣を提案して了解を得、対馬に派遣した史実と整合しない

 勝海舟の話のように外交だけで解決したなら、英艦派遣は必要がないからオールコック公使が安藤老中に提案するはずがない。
 :勝海舟が英国公使オールコックに頼んで軍艦を派遣してもらったとする説【3】もあるが、別の話を都合よくくっつけ、なんでも勝海舟の手柄にしたい、いいとこ取りの「勝海舟神話」の一つとみていい。

 4、露国外務省は傍観者…既述のように今回の露艦の対馬侵航滞泊は露国海軍の独走で行なっていることで、基本的にロシア外務省は傍観者の立場だから、露国北京公使イグナチェフに掛合った程度で解決できた、というのは考えにくい。外務大臣ゴルチャコフはこの問題に露国北京公使イグナチェフを巻き込むことに(皇帝の前で)反対している。(反対した以上、外務大臣ゴルチャコフは公使イグナチェフや箱館の領事ゴシケビッチに対して対馬事件への介入をしないよう釘を差しているはずである)
    
     ◆
海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡
 外務大臣ゴルチャコフは、この問題を誰に任せてよいかはっきり判らないと言い、イグナチェフに任せることを欲しないと断固として言いました。この席で彼はイグナチェフをこの問題から解放するように私に願い、この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私(海軍大臣コンスタンチン)はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました。
                  
岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)

 これに関して近年、「勝海舟神話」を補強するかのように
 「イグナチェフは全権公使で軍事指揮権を有している。リハチョフ提督に(退去)命令を出せる(上垣内憲一『勝海舟と幕末外交』  中公新書2014年)
とする説が出た。

 しかし、提督リハチョフが中国海域連合艦隊司令官に任命された時の訓令書には
 「ペチェリスキー湾(渤海湾)に集結し我が国の在北京公使N・イグナチェフ陸軍少将の配下に入ることになっている艦隊の指揮を貴下に委ねる」「本訓令からは予測できず緊急の決断を要するような場合には、なんら遠慮することなく、貴下は最良と認める行動を躊躇せず選択すること」
              (ウラジミル・S・ソボレフ「露日関係史料としてのリハチョフの中国艦隊の文書」訓令書図版もあり)
とリハチョフに全権を付与する指示が出ているから、上記(上垣内憲一『勝海舟と幕末外交』)の話は通らない。

 しかも、基本的に在北京ロシア公使イグナチェフは英国が対馬を狙っていると警戒して提督リハチョフに報告した当事者であって、この事件そのものがイグナチェフの報告から始まっているとも言えるのに、勝海舟の言うように英国公使が言うからと簡単に退去に同意して動いたとしたら、イグナチェフはとんでもなく無節操な「マッチポンプ男」となってしまう。ありえない話。

 5、海軍大臣からの命令系統…対馬藩士や小栗上野介、英艦のホープ中将が抗議勧告してもビリレフがすぐに退去しなかったのは、上官リハチョフ提督からの撤退命令がなければ動けない軍隊組織末端の立場だからである。露艦の艦長ビリレフが「英艦が来たから退去しました」とスゴスゴと戻ったとしたら、命令違反で軍法会議にかけられるだろう。このことを認識せず 従来の歴史家が「小栗上野介は成果を挙げられず江戸に戻った」としてきたのは、不定見としかいえない。
 

6、「後門の狼」に依頼する危険な越権行為…オールコック公使は既述の通り「ロシアの代わりに英国が対馬を占領すべき」としてその方法までも提案している、まさに小栗や村垣が言う「後門の狼」である。
 もし勝が本当に勝手に、「懇意にしていた」危険な人物オールコックに「内密に」頼み込んだとしたら、ホラ話ではすまない軽率かつ危険な越権行為であった。

 7、リハチョフ提督から海軍大臣コンスタンチンあての報告書…この年12月(8月に退去した後)のリハチョフ提督から海軍大臣コンスタンチン宛の報告書には
 「ロシア海軍と対馬藩主との私的契約で進めるべき今回の交渉が、ロシア政府が望んでいなかった外交的土壌に 移った…ので、支障が生じてポサドニク艦を引き揚げさせた。」
…としている。
 この報告書には勝海舟がいうような在日英公使オールコックや在北京露公使イグナチェフの名前も介入も一切出てこない

 勝海舟は後世このようなロシア側の公文書が出てくることは予想していなかったろうから、生きていれば慌てたことだろう。「ホラを言うんじゃなかった…」と。

 ◆詳しくは、小栗上野介顕彰会機関誌『たつなみ』第38~41号に掲載の村上泰賢「対馬事件の史跡を訪ねる」を御覧ください。
*訂正:本ページの趣意と合致しない『たつなみ』38号の小見出し、「英艦の圧力で露艦は退去」は、調査不足の時点で通説のままのものでした。「露艦退去」と訂正します。


 
対馬事件の史跡
小栗上野介
対馬事件の史跡
          
                      
 ロシア軍艦ポサドニク滞泊地を訪ねる
         
芋   崎
(いもざき)     2013平成25年2月12日
   
芋崎に建つ「文久元年 魯冦之跡」碑 
                      背面:昭和3年2月建立 魯冦とは…ロシアからの侵入 
     小栗上野介の史跡を歩く会
    芋崎   
 右図の上が「大口」と呼ばれる朝鮮海峡から浅茅湾の入り口。ロシア艦ポサドニクは大口から入ると、向かって左手の「尾崎・おさき」浦にいったん停泊し測量ののち、下部の芋崎浦に回りこんで、居座りの様子を見せた。

 いまこの史跡は建物は取り壊されていて、井戸と「魯寇之跡」の石碑がその場所であることを示すだけ。ほとんどの島民も関心を持たない場所となっている。
資料提供:小松津代志氏

 小松氏は平成5年(1993)11月、友人の船外機ボートで海から探し、木立の間にようやく忘れられた石碑「魯寇之跡」を見つけ出した喜びを著書『辺要』に
 
浜の中央付近に角張った石が雑木林の中から顔を覗かせている。「あれかもしれん、!もっと速く、速く!」、船外機はうなり、体は反り、左手は船べりを必死につかみ、中腰になっていた。浜辺に近づくにつれ「魯寇」の文字がはっきり浮かび上がる。「見つけた、見つけたばい」と叫びながら友人と固い握手を・・・・

と書いている。
▲芋崎への入口  ここから歩くことになる。入口には自然と文化を守る会が建てた案内看板がある。現地ガイド小松津代志さんの案内で歩き始める。 ▲道標 ゆるい上り道を行くと曲がり角に道標がある
▲道標は分岐点の要所に建てられている。  落葉を踏みしめて歩く。小松さんは島の歴史に造詣が深く、著書も数冊出しているので、話が多岐にわたり、面白い。。 芋崎砲台跡の分岐点 これは日露戦争に備えてのもの
▲ここから下り気味になる 海岸近くでさらに急に下る ロシア人が造ったという道を下る
▲ロシア人の井戸 芋崎の海岸に着くとまずロシア人たちが掘った井戸が目に付く。水をたたえていてまだ活きている井戸だ。 ▲ロシア側は、勝手に材木を伐採して宿舎を建て、大工の派遣、食料の提供を要求した。
海岸は日本や韓国・中国からの漂着ゴミだらけ ▲魯冦跡の碑の背面 背面に「昭和2年3月建立」とある。それまで何もない場所で訪ねる人も稀だったという。向こうに芋崎の突端が見える  ▲ロシア人は4~500m先の浜辺に兵舎を建てたという。退去したら対馬藩がすぐに解体したので、何も残っていない。
芋崎測量図 ロシア艦が測量した芋崎浦一帯の海図。ポサドニクは細い芋崎半島の右下入江に居座った。左が浅茅湾の入り口(尾崎)の方向となる。 ロシア側が居住をはかった芋崎浦 絵図 (右は拡大図)  対馬藩に人夫の派遣を要求して井戸を掘り、兵舎を建て、ロシア旗を掲げた。ポサドニクが退去後、兵舎などは直ちに解体されたが、井戸はそのまま残された。
ポサドニク号艦長 ビリレフ  対馬藩や小栗忠順の退去要求にのらりくらりの応答をして、居座り続けた  ロシア海軍組織の末端人物 白嶽(しらたけ・519m) ロシア側では特徴のある山容を「ロバの耳」と言って、日露戦争時の目印としたらしい。
                        ロシア人が残したもの
対馬藩主・宗義和(よしより)の近習下田寛右衛門が艦長ビリレフから贈られ、下田は藩主に献呈した。明治23年旧藩主の宗義和(よしより)が死去すると、その子重正が東京から来島の折、持参して下田家の子孫に贈った。(個人蔵・写真を複写)
立体眼鏡 右の写真を差し込み、双眼でのぞくと立体的に見えるらしい。 ロシアの街や女性、女性のヌード姿などがある。箱書きに入手の来歴が書かれている。
            大船越の瀬戸

 島の最も狭まった大船越の地を船を引いて越えていたが、寛文12年(1671)に大船越を開削し西の浅茅湾から東へ、船で直接抜けられるようになった。しかしふだんは番所を置いてみだりに通行することを禁じていた。

小栗らが対馬に到着する前、
・4月12日 ロシア艦のボートがここを強引にこぎ渡ろうとして制止する番所の役人や地元民とトラブルが起こり、石や木材を投げ合ううちロシア兵のピストルで農兵松村安五郎が射殺された。
大船越 対馬の西浅茅湾から東へ抜けられる「大船越・おおふなこし」 「口止番所小舟改跡」碑 ここの番所に詰めていた番兵との間でトラブルとなった。 大船越 浅茅湾側から東を見る
忠勇碑 大船越を強引に通過しようとするロシアのボートを阻止しようとして射殺された松村安五郎を称える。明治26年に建立 義烈碑 ロシア兵に捕らわれた事を恥じ舌を噛みきって憤死した吉野数之助を称える。明治42年建立  ▲小栗忠順が滞在した「藩士亀谷行蔵宅」  いま対馬は韓国からの観光客で100円ショップが賑わっている。
          対馬の歴史をしのぶ
 対馬は大陸に一番近い島だから、インド・中国・朝鮮の文化がまずここに入り、それから日本各地に運ばれたことが強く感じられる。
スイセン 対馬は雪が降らない島だそうで、もうスイセンが咲いている。
▲堀川の護岸に朝鮮通信使の様子がレリーフとなっていて、通信使がまずこの島に上陸して「日本に着いた」ことを実感した様子が伝わる。
万松院  歴代藩主を祀る墓が裏山にある 朝鮮国王から贈られた青銅の三具足(左から花器・香炉・燭台)も残る 諫鼓は領主に諫言する時に鳴らす鼓。鳴らないまま鳥が遊ぶ「諫鼓鳥が鳴く」状態は、良い政治が行われていること。
     
藩主宗家の墓地   石灯籠が並び、杉の巨木がそびえ、大きな石塔が並ぶ。落ち着いた雰囲気が感じられる。
雨森芳州の墓 市内の長寿院
対馬藩に仕え朝鮮との外交・貿易に心血を注いだ。朝鮮との交接は第一に人情事勢、諸事風儀が違うことをよくわきまえ、互いに欺かず、争わないことが肝要 と説く。
日野清三郎氏の墓 名著『幕末における対馬と英露』を著した。対馬藩側の資料を克明にまとめてあり、ロシア側資料を翻訳した岡山大学保田孝一『文久元年の対露外交とシーボルト』と併せて大変役立った。感謝のお参り。 ▲講演会 着いた日の午後小栗上野介の建国記念日講演会となった。これから対馬事件を調べるための訪問だったから、小栗上野介中心の話で、対馬事件についての話ができなくて期待した人には申し訳なかった。 

 ◆詳しくは、小栗上野介顕彰会機関誌『たつなみ』第38~41号に掲載の村上泰賢「対馬事件の史跡を訪ねる」を御覧ください。*訂正:本ページの趣意と合致しない38号の小見出し、「英艦の圧力で露艦は退去」は、調査不足の時点で通説のままのものでした。「露艦退去」と訂正します。
 関連ページ
小栗上野介・通説の誤り