HP東善寺        非命150年  小栗上野介企画展    2018平成30年 高崎市シティギャラリー  



「罪なくして斬られ」非命150年

小栗上野介企画展

期間:2018平成30年11月2日(金)~7日(水)
会場:高崎市シティギャラリー 1号室+補助室

 政府筋では初め補助金をつけて「明治維新150年」国に記念イヴェント開催を勧め、「日本の近代化は明治政府が進めた明治以後」というイメージ強化をはかった。

小栗上野介は非命150年
非命とは天命でなく命を落とすこと

*「明治150年」ではありません。

 今回の展示は
「非命150年」として、明治新政府軍に「罪なくして斬られ」た小栗上野介が幕末に仕掛けた日本近代化の原点横須賀製鉄所から何が生まれ日本近代化に貢献しているかを、世界遺産富岡製糸場(群馬)・中島飛行機(群馬)・生野銀山(兵庫)の事例を通して展示。日本の近代化は明治以前幕末に始まっており、「明治政府は小栗忠順の近代化構想を模倣した」とわかる展示とした。

 

 政府は数年前から「明治維新150年」という冠で補助金をつけてイヴェントを募集し、明治維新バンザイを広げようとしていたが、あまりにも露骨と批判されて「明治150年」と訂正して実施。その明治政府軍に言いがかりをつけられ殺された「真の武士」小栗上野介主従を顕彰する会としてはそのような補助金は痩せてもいただかずに、これを実施しました。

     

偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる 
                          
岳南 蜷川新
▲会場正面に小栗上野介主従が殺害された水沼河原に建つ
「顕彰慰霊碑」を飾って、参観者をお迎え



▲隣には明治45年夏東郷平八郎が
小栗忠順の遺族を招いて
「日本海海戦で勝てたのは小栗さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげ・・・」
と礼を言った史実を紹介
「小栗上野介が残した土蔵=横須賀造船所のおかげで日本が救われた」
と言っているのだ。

勝海舟が「江戸を救った」といわれるが「小栗上野介は日本を救っていた」
しかも勝の話はいいとこ取りの話 参考→
山岡鉄太郎/山岡鉄舟と江戸無血開城

受付でチラシと東善寺の「小栗上野介情報」が差し出され、等身大の小栗上野介の像と「非命150年」の看板が迎えてくれる
顕彰会長挨拶 「この企画展が近代日本の礎を築きながら無実の罪で抹殺された小栗公の無念を思い、公正な歴史観を発信する機会となれば幸い・・・」 横須賀造船所建設の技術指導を消去法でフランスから受けることになり、建設が始まった
横須賀は日仏交流の原点 現地責任者栗本鋤雲とカションの交流がヴェルニーの指導を補佐した 横須賀に造船所を造らなければ今頃は長浦市、あるいは浦賀市が出来ていたろう 日本の近代化は幕末に始まっている。横須賀造船所を見るとそのことが理解できる。
富岡製糸場は横須賀の妹 建物だけでなく経営もフランス式として日本人が合わせていったことが共通している 中島飛行機は横須賀の弟 中島知久平は明治40年横須賀海軍機関学校を卒業。
多くの技師や職工を横須賀海軍工廠からスカウトして飛行機製作を開始した 生野銀山(兵庫県)は義弟 明治初年に仏人技師コワニエを雇う。コワニエは横須賀に蒸気機関や採掘機械を発注し、近代化をはかってモデル鉱山となり、たくさんの鉱山に影響を与えた。
後半部は小栗上野介とは 初めて小栗上野介を訪ねる人向けの史料も展示 漢学の師安積艮斎  日本初の株式会社 兵庫商社・小布施の船会社
築地ホテル 清水喜助が株式会社の手法で建設した日本初の本格洋風ホテル 日本初のフランス語学校
小栗周辺の人物 三野村利左衛門・前島密・浅田宗伯
対馬事件 外国奉行として「見回り」を命じられ対馬でビリレフ艦長と三回交渉して江戸へ戻った 艦長は海軍の末端、もっと上部との交渉がポイントという判断から
艦長は軍隊の末端命令されてきているだけ、もっと上部との折衝で退去させるべきと判断した 遣米使節 アメリカでの見聞体験が小栗上野介の目を開かせた
しかし、米艦ポウハタン号で渡米し、世界一周で帰国した史実は、国定修身教科書の勝海舟・咸臨丸の神話で隠され、殆ど知られていない。歴史ではない修身の話が戦後も後遺症となって、亡霊のように歴史教科書や副読本などに現れ「咸臨丸病の日本人」を生み出し続けている。
ワシントン海軍造船所見学が契機となって横須賀造船所が生まれた史実も知られていない。 フィラデルフィアでの通貨の分析実験も誤った通説が多い
実験の結果、ドルと小判の金貨は価値に大差はない。その小判をアメリカ人は不当に1/3で買っていることを理解させた 帰途、アフリカで黒人を鎖でつないで使役する植民地の実態を見た。 帰国後わずか8年間、数々の幕政改革を行いあるいは提案して国のために身を挺して活躍した
上州土着の夢むなし 明治維新で幕府解散 権田村への帰農土着を図って一家で移住し、2ヶ月余で東山道軍に殺害された 道子夫人は会津に逃れて遺児国子を産む 明治20年大隈重信夫妻が国子の婿探しをし、前島密が仲人をして矢野貞雄と結婚した
謀略の東山道軍 下諏訪で赤報隊を殺害し、高崎へ来ると小栗主従を殺害した
        赤報隊はこちらが面白く分かりやすい(リンク)
小栗の顕彰 横須賀では毎年ヴェルニー小栗祭で顕彰活動
倉渕では小栗まつり 遺品はわずか 大半を西軍が没収・競売師軍資金として持ち去った 明治政府が行った強盗殺人といえる行為  だから明治政府が始めた学校教育で小栗上野介の名前を出さない
▲宥座の器 「父は横須賀海軍工廠の工作学校で学んで板金業をし、私に伝えた。講演を聞いてそれは小栗上野介の近代化構想の一環につながっていたとわかった!」と館林市の「現代の名工」針生清司さんが東善寺に寄付してくれたもの。詳しくはこちら
DVD視聴コーナー  が二箇所 顕彰会の新作「小栗上野介の生涯」とJ:com泉秀樹の「小栗上野介」、などを見られるので、好評だった。

鼎   談
  
記念演奏会     ■高崎北高校吹奏楽部
福田洋介作曲「小栗のまなざし」「さくらのうた」ほか
     
式典
式辞 市川平治顕彰会帳/祝辞 兵藤副市長 柄沢高男市議会議長  
     
鼎談
手島仁 前橋学センター長 県内自治体史編纂に干与
小栗さくら
 歴史タレント・歴史をテーマとした楽曲制作
+ 江原昌子 上毛新記者 「上州と小栗の幕末維新」を連載中
コーディネーター 村上泰賢  東善寺住職 小栗上野介顕彰会理事
     
  会場いっぱいに小栗ファンが詰めかけ、熱心に聴いてくれた。手島さん提供の『郷土読本』 (昭和7年群馬県教育会発行)には郷土ゆかりの偉人として小栗上野介が挙げられていた。小栗さくらさんにまず読んでもらうと、県外からもやってきた大勢の小栗さくらファンは満足そう。当時の県内の小学生は皆小栗上野介を学んでいたということになる。むしろ戦後のほうが小栗の名が知られなくなった、と手島さんは語る。
 戦後の上毛かるたはこの『郷土読本』が下敷きになって制作され、初め浦野匡彦氏の原稿では挙げられていたが、GHQの指示で認められなかった経過があり、小栗さくらさんは「小栗かるたを作ったら?」と提案する。
 後半になって上毛新聞で連載中の「上州と小栗の幕末維新」担当の江原昌子記者が取材中だったので、登壇していただき取材の意図などを語ってもらった。
紙面 
上毛新聞11月5日
     
ブログの反響  
Hさん  明日まで高崎シティギャラリーで開催されている『小栗上野介企画展~「罪なくして斬らる」非命150年~』を見学。なかなかのボリューム感ですね。小栗上野介の功績…もっと伝えるべきでしょうね。  

◯さん  企画展の展示は、たいへんすばらしいものです。展示は撮影禁止になっていますので、紹介することはできませんが、濃い内容の展示がおてんこ盛りです。


  
   
    ついでに考察  「明治150年」
 「明治150年」とは…味噌も糞も一緒の乱暴な数え方。中身を見ると77年+73年となる。

77年、明治元年から昭和20年敗戦まで=戦争続きの77年
 西南戦争(明治10)、甲申事変(明治17)、日清戦争(明治27)、台湾島民蜂起(明治28,29)、日露戦争(明治37,38)、満州で日中衝突(大正8)、済南事件(昭和3)、満州事変(昭和6,)、錦州攻撃、チチハル占領(昭和6、7)、上海事変(昭和7)、ハルピン占領(昭和7)、日中軍山海関で衝突(昭和8)、綏遠事件で大敗(昭和11)、華北で総攻撃・杭州湾に上陸・南京占領(昭和12)、張鼓峰で日ソ戦・バイアス湾上陸・武漢三鎮占領(昭和13)、海南島上陸(昭和14)、ノモンハン事件で大敗(昭和14)、湖南作戦で長沙占領(昭和16)、米国に宣戦布告・第二次大戦・香港占領(昭和16)、マニラ占領・ビルマに進撃・シンガポール占領・ラングーン占領・ジャワ島制圧・ニューギニア上陸・バターン半島占領・キスカ島占領・ミッドウェー海戦南太平洋海戦で大敗(昭和17)、ガダルカナル島撤退・アッツ島全滅・マキンとタラワ島全滅(昭和18)、インパール作戦失敗・クエゼリンとルオット島全滅・サイパン島全滅・マリアナ沖海戦で大敗・
グアムとテニアン島全滅・フィリピン沖海戦で敗れる・東京空襲始まる(昭和19)硫黄島全滅・沖縄戦敗れる・日本各地に空襲・広島長崎に原爆・無条件降伏敗戦(昭和20)…なんと多くの命が戦争で失われたことか
    *若い方へ
 「〇〇事件」とか「〇〇事変」は宣戦布告をしないで軍事衝突したので、戦争と言わないだけ。アメリカのベトナム戦争も同じでアメリカとベトナムは宣戦布告していません。アメリカの若者はなんでこんな所まで来て戦い、死ななくちゃいけないんだ、とうんざりしていました。

 10年~20年たたずに戦争が続き、そのつど徴兵制度によって召集されたたくさんの国民の命が失われ、国家総動員法で食料も物資も戦場第一とされ、国民はみな飢えていた時代、日本が滅びるところまで行った77年だった。
 *国民はほとんど飢えていたが「大本営発表~」と原稿を読む戦場に出ない将校はムクムクと肥えている時代だった。

 その元は吉田松陰が『幽囚録ゆうしゅうろ く』で唱えた「満州からカムチャツカ・オホーツク、朝鮮・沖縄~台湾・フィリピ ンに版図はんとを広げ日本を守る…」という日本中心の過激な煽動せん どうを明治政府以来実行してきたためと言われます。

73年は昭和20年~本日まで  一度も戦争をしない73年 
 東日本大震災・相次ぐ地震・豪雨などの災害国日本がなんとか「復興」をめざして耐えていられた73年。もしどこかの国と戦争中だったら、国家予算の大半が軍事費に回され、復興どころかボランティアが出かける余裕すらないし、その前に殆どの災害情報は敵に有利となるからと報道規制の法律を作って隠される。