東善寺・小栗上野介          上毛かるたと小栗上野介           




上毛かるた
 と 小栗上野介

            小栗上野介が入る予定だった――   

戦後も続くーー小栗上野介の受難
        □『上毛かるた』は
 戦後、中国大陸から引き揚げてきた浦野匡彦(うらのまさひこ・のちに二松学舎大学理事長・学長)は戦災で焼かれた街、伐り尽された山、荒廃こうはいした国土を復興ふっこうさせるには、子供たちがカルタで遊びながら郷土群馬県の自然しぜん、風土ふうど、産業さんぎょう、産物さんぶつ、人物じんぶつ、歴史れきしを知るのがいいと考え、、テーマ別に公募こうぼして原案げんあんができた。

 敗戦後はいせんごまもなくはGHQ(占領軍司令部せんりょうぐんしれいぶ)の許可きょかを得ないと印刷いんさつ発行はっこうできなかったので原案を届とどけると、軍国主義ぐんこくしゅぎの復活ふっかつを警戒けいかいして数人の人物が除外じょがいされ、その中に「小栗上野介」もあった。
 
   
    ▲「い」の絵札と読み札   ▲「ら」の絵札と読み札
 
    ▲ふつうの読み札は白い
         浦野の抗議
 なぜ小栗上野介がダメかと、浦野が食い下がったところ、「小栗は横須賀よこすかの軍港ぐんこうを作った人物だから、軍国主義者」という判断はんだんからであった。戦前せんぜんは明治政府めいじせいふによって逆賊ぎゃくぞくとされ、戦後は軍国主義者のレッテルを貼られたことになる。

 浦野は訪たずねてきたMP(米軍べいぐん憲兵けんぺい)の若い将校しょうこうに、小栗が渡米とべいして15代大統領だいとうりょうブキャナンに会っていること、アメリカの進すすんだ文明ぶんめいを見て日本もこのような近代国家きんだいこっかにしたいと考えて建設けんせつしたのが横須賀造船所ぞうせんじょで、たんなる軍艦ぐんかん製造所せいぞうしょではないことを説明せつめいし、カルタに入れるべき人物だと説いた。はじめは頑かたくなだった将校も浦野が落ち着いて堂々どうどうと話すうち次第しだいに正面しょうめんから聞く態度たいどになり、「君がもし当時とうじの日本人だったら同おなじことをしただろう」と語ると、帰り際かえりぎわにヘルメットを脱いで小脇こわきに抱かかえ、「サンキュー」と敬礼けいれいをして出て行った。

 しかし、結局けっきょくGHQの判断はんだんがくつがえることはなかった。

     □浦野の苦心―「ら」   上毛かるたのナゾ——解明!!
 浦野は、小栗のほかに高山彦九郎たかやまひこくろう、中島知久平なかじまちくへい(中島飛行機創業者そうぎょうしゃ)ら認みとめられなかった人々をいずれ時が来たら復活ふっかつする、という気持ちを込めた札ふだを作った。それが——
  「ら」…「雷らいと空風からっかぜ 義理ぎり人情にんじょう

 ( ちなみに——
 
  ◇原案では 小栗上野介は
 「「知慮(ちりょ)優(ゆう)かな 小栗も冤罪(えんざい)」 だった。 )

 「ら」は、上州じょうしゅうの風土と上州人の気質きしつを読み込んでいるのみならず、いずれ小栗上野介らを復活させる!という気持ちを込めた札である。  だから——
この読み札よみふだはイロハの「い」とともに赤あかくして、箱の中で絵札・読み札が常つねにいちばん上に置かれている。
 
                  *資料*  西片恭子著「上毛かるたのこころ」中央公論事業出版・2002年