東善寺のページ  ●        ・日仏交流のさきがけ―小栗上野介



日仏交流のさきがけ
小栗上野介

群馬日仏協会

*このページは「群馬日仏協会」の公式ページではありません。公式ページはこちら→「群馬日仏協会」
2009(平成)21年12月5日、群馬日仏協会が発足しました。すでに全国に50くらいの日仏協会があるそうですから、以下のようにフランスと深いつながりを持つ群馬県としては遅いスタートと言えます。
発会にあたっての総会・発会記念式典・懇親パーティー・記念イベントが行われました。
記念イベント(群馬会館)で東善寺は「日仏交流のさきがけ―小栗上野介」の展示を行いました。
日仏交流のさきがけの人物
小栗上野介忠順  
1860年遣米使節として渡米、ワシントン海軍造船所見学で総合工場としての造船所を見学し、日本近代化はまず造船所を設けること、と痛感して帰国。
翔鶴丸の修理をフランス軍艦ラ・ゲリエール号に依頼したことを端緒として、フランスの技術指導による造船所建設を建議する 

アメリカは南北戦争中、イギリスはインド・中国で露骨な植民地政策を見せつけている、オランダは国力衰退、ロシアはいきなり爪を出したりする、それらに比べてフランスはまだまし、という評価だった。
栗本鋤雲(じょうん)
1822(文政五)年、江戸の神田で旗本の家に生まれる。函館奉行所勤務でフランス人宣教師カションと知り合い、交換教授でフランス語を身につける。のちフランス公使ロッシュの通訳となったカションと横浜で再会する。横須賀造船所建設の日本側責任者として、仏語を駆使して現場の指揮に当たる。勘定奉行、フランス公使。明治以後はジャーナリストとして活躍、犬養毅が師事した。 
詳しくは→こちらをクリック
メルメ・カション 
パリ外国宣教会から日本に派遣され、琉球を経て1858(安政五)年に来日 江戸で通訳をしたのち安政6年に函館に渡り、町民に仏語塾を開いた また栗本鋤雲と互いに日仏語の交換教授を行なった 文久3(1863)年、ロッシュ公使の着任に伴って通訳となる そして栗本鋤雲と再会し以後幕府とフランスの協力関係による、横須賀造船所建設・仏語伝習所設立・仏式軍事訓練とフランス人教官の招致などに大きな功績を残す 慶応2(1866)年秋帰国し、パリ万博で徳川昭武の通訳をしたのちは、没年等不明 和春
(カシュン)とも記す
     写真:クリスチャンポラック氏提供

ヴェルニーのフランス人技術者採用の方針
1、 国立の工場施設に勤務する者…選抜試験を経ていて、一定のレベルを有しているはず
2、 3年以上の現場経験者…工業が未発達な日本では、機械の故障を自分で治せる応用力が必要
3、 酒癖の悪い者は不可…トラブルの元になる
4、 既婚者は夫人同伴…不自由な日本での生活を支え、ストレスを和らげてくれる
5、 人種的偏見のない者…差別はトラブルの元になる

フランソワ・レオンス・ヴェルニー
上海で砲艦建造の仕事を終え、ロッシュから日本での造船所建設を依頼されて来日。1865(元治二)年正月に来日、小栗上野介、柴田日向守ら製鉄所設立委員とともに、製鉄所設立原案を作成し製鉄所約定書が交わされた。人家30数軒の漁村横須賀村を立地とし、初期土木工事を指示したヴェルニーは、担当技師の選定、器材購入のためいったんフランスへ帰国。1865年(慶応元年)7月、外国奉行柴田日向守ら全権団をマルセイユに出迎え、ツーロン造船所に案内、横須賀製鉄所の首長としての雇用契約がこの時正式に結ばれた。フランスでの手配を終えて1866(慶応二)年4月26日再来日。以後、献身的な努力と着実な手配で誠意をもって建設工事を進め、「日本の近代工学の源泉」(司馬遼太郎)といわれる横須賀造船所を完成させ造船大国日本の基礎を築いた。

日仏交流の原点
横須賀造船所の特徴
      企業内教育
ヴェルニーの基本設計で施設を維持運営するための技術者養成学校「黌舎(こうしゃ)」が最初から所内に設けられていた。ここで学んだ職工が現場で腕を磨き、造船大国日本を生みだす高度な技術を伝えていった。現在も米横須賀基地内でその技術は生きている。
      横須賀造船所の就業形態
日曜はダメよ 一日10時間労働は日仏共通で、当初仏人は日曜の休日を要求。小栗上野介とヴェルニーが協議の上、日本人は日曜も働くから仏人も3分の一は出勤してくれ、となった。
命令系統の確立 「工員は工事課長の指揮命令に従い…、自分だけの考えで勝手に作業したり、他人指揮受けてならない
経験給与制度導入  経験を積むことで少しずつ昇給する制度採用。奨励給、残業手当採用
……など、近代労務形態につながる制度が取り入れられた。

レオン・ロッシュ
2代目在日フランス公使 元治元(1864)年に来日。 幕府の横須賀製鉄所・横浜製鉄所の建設、フランス語伝習所設立、洋式陸軍(歩兵・騎兵・砲兵)制度の訓練など、日本の近代化に協力し、日仏関係の基礎を構築した。 
日仏会館と群馬日仏協会の交流会
 2010平成22年3月13日午後、財団法人日仏会館(渋谷区)の会員約50名が日仏交流の基となった横須賀造船所建設を進めた小栗上野介と栗本鋤雲の業績をしのび、東善寺へ墓参に訪れました。
当日は土曜日で、渋滞で東京からの到着が遅れ渋川市のシャンソン館はカット。伊香保温泉で群馬日仏協会と交流を兼ねた昼食会、そのあと町内を散策。東善寺では小栗上野介と栗本鋤雲の胸像見学、小栗上野介父子の墓参、大広間のパネル展示を見学などのあと、住職の講話「小栗上野介」を聞いていただjきました。帰りの時間のため、小栗公の講話が中途半端なものになって、少し残念そうでした。
参加者は:日仏会館・日仏経済交流会(パリクラブ)・在日フランス商工会議所 約50名、群馬日仏協会 約30名
展示物をじっくり見つめ、解説をしっかり読むので、列が流れず、後ろの方は何で止まっているのかわからない。怪訝そうな顔をしていた。
群馬日仏協会発足記念で制作したパネルも、しまっておいたのを引っ張り出してフランス関係パネルを増やしました。
帰りの時間もあって、途中で観覧を切り上げていただき、短時間で小栗上野介の業績を語ると、熱心に聞いて下さいました。
日仏交流のさきがけ―小栗上野介
日仏交流のさきがけ―小栗上野介 展示 小栗忠順と盟友栗本鋤雲が展開する幕末の日本近代化と、フランス人技師たちとの交流、横須賀造船所建設、仏式陸軍制度訓練、仏語伝習所開設、などから富岡製糸場ー中島飛行機(富士重工)への流れを展示しました
展示即売  展示のほかに会員企業が出展・即売も行って花を添える おいしいお菓子や料理がたくさん並び、パリ往復チケットが当る抽選会もあってたのしい会場となりました 群馬会館の前庭には フランスの自動車プジョー・シトロエン・ルノーも展示されました
参加団体・企業:(株)エスパコーポレーション・国際交流文化団体CP−JAPON・フランス切手展示水原・フランス食品振興会パンフ・(株)フレッセイ・マルエドラッグ・(株)ベイシア・シェフ ハヤカワ・フランス菓子子MIYAKE・創作菓子ロッシェ・プティタンジュ・富久樹園・ハンユウオート株式会社・ルノーKit-R高前それと東善寺 でした  

群馬県の日仏交流の特徴

1、 幕末にフランス人技師の指導で建設が開始された日仏交流の原点・横須賀造船所建設の推進者小栗忠順(ただまさ)の墓と胸像、栗本鋤雲(じょうん)の胸像、が東善寺(高崎市倉渕町)境内にある

2、 横須賀造船所から派遣されたフランス人技師の設計と指導で建設され、フランス人技師の指導で経営された富岡製糸場の建物が現存している

3、 横須賀海軍技術学校で学んだ中島知久平(尾島村出身)は、海軍航空機研究所で働いたのち、太田に中島飛行機(現在富士重工)を興す

4、 現在、ミシュラン、ダノンなどフランスの有力企業が県内で生産・販売活動を行っている

5、 フランス料理、シャンソンなどフランス文化が県内に根付いている

日仏交流のさきがけ 
            幕末〜明治期 
1615(元和元年) 伊達政宗が派遣した支倉常長ら少年使節一行は南フランスのサン・トロペ港に立ち寄る
1855(安政二)  フランス艦隊が下田に来航。函館にコンスタンチーヌ号ほか2隻、計1000人の水兵が上陸したので日本側は病人を介護し、食料を供給する
1858年(安政五) 日仏修好通商条約が調印される  フランス人商人が横浜で貿易を開始
1864(元治元)年 小栗忠順の建議で幕府は横須賀製鉄所(造船所)建設を決定
1865(元治二)年 小栗忠順の建議で横浜にフランス語伝習所を開き、全寮制で旗本の子弟に仏語、地理、歴史、数学幾何学、英語、馬術などを学ばせる。卒業生が横須賀造船所、富岡製糸場の建設現場に派遣され、工事の進捗を図った
1865(慶應元)年 横須賀製鉄所(のち造船所)の建設をフランスの技術指導で開始。技師40人、家族・使用人を含めて100人を超えるフランス人が滞在、本格的な日仏交流が始まる  明治2年〜ほぼ完成し本格的活動に入る
1867(慶応三)年 小栗忠順の建議でフランス式陸軍教官シャノワンヌ、ブリュネらを招いて三兵=歩兵・騎兵・砲兵の洋式軍隊訓練を開始する
1867(慶応三)年 パリ万博に徳川昭武らの代表団を派遣する。 出品責任者は小栗忠順
1871(明治四)年 フランスの技術指導で富岡製糸場の建設着工

              横須賀の日仏交流

工事の上での技術交流や黌舎での教育のほかに特筆すべきは、家族・使用人を含め100人を超すフランス人と日本人との交流があって、さまざまなフランス文化が浸透していった。

医師 サヴァティエ 
・ フランス人だけでなく日本人の診療に尽力
    日本の植物を採集し、標本を本国に送って研究 共著『日本植物目録』をパリで刊行
    日本人植物学者の質問に答え、詳しく指導
    日本の藻類も採集し研究
    フランスから取り寄せたイチゴ、ブドウ、サクランボを栽培 しだいに全国に広まった
    動物化石を造船所敷地内から発見、のち象の化石と判明

建築課長 ルイ・フロラン
・ 弟と二人で横須賀造船所建設に従事
    わが国最初の洋式灯台である観音埼灯台のほか、野島崎灯台、品川灯台、二番台場灯台の建設をする

設立総会 前橋市の利根川に面した臨江閣は由緒ある重要文化財の建物 二階で総会のあと階下で記念式典。以前からあった「ぐんま日仏協会」が解散し残余金70余万円を寄贈して合流するということで、参会者に感銘を与えた 会長は牛久保雅美氏(サンデン代表取締役会長) 挨拶では会長以下在日プノ公使も含めてほとんどの来賓が小栗上野介の業績に触れていた。
フランス大使館からプノ公使もお祝いに駆け付けて、祝辞を述べてくださった 懇親会ではバイオリン演奏もあって和やかなムードになりました。
関連ページ
総会や記念レセプションの様子(リンク)