| 小栗上野介●● 西洋式軍隊訓練 |
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1867慶応三年、陸軍奉行小栗上野介は幕府の洋式陸軍を近代化し強化するため、フランス師軍事顧問団の指導を受けて三兵(歩兵・騎兵・砲兵)伝習(調練)を行なった。また「賦兵の制」を開始して、旗本たちが洋式軍事訓練を行なうことを勧めた。日本における徴兵制度の基本である。 |
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■場所 はじめ 横浜、太田陣屋(現在の日の出町一丁目) |
▲太田陣屋・『ザ・ファー・イースト』より |
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■軍事顧問団 15名 団長: シャノワンヌ Charles Sulpice Jules Chanoine (右上の写真) ■伝習は すべてフランス語で行なわれた。服装は当初まちまちであったが、ブリュネ大尉がやがて一定の服制を作った。両刀も伝習には邪魔であり、はずしてフランス式の軍刀にし、もとどりを切り靴をはく洋式軍装になった。 ■主な伝習生 沼間 守一……のちの民権運動家 |
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| フランス式軍装 ⇒ 革靴も履いている 左から 小栗又一(高崎城内で斬首される) 大井磯十郎(権田村出身・上野介とともに斬首される) 佐藤銀十郎(権田村出身・小栗夫人を守って会津で戦死)
▲砲兵隊員たちの最初の行進 |
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伝習開始一年足らずの1868慶応四年一月、鳥羽伏見で薩長軍と幕府軍との間に戦端が開かれると、軍事顧問団はフランス本国からの命令にしたがって横浜に避難し、中立の立場を取ることになった。 |
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