HP東善寺・小栗上野介             小栗上野介所用の甲冑は疑問


東京富士美術館所蔵の
「小栗上野介所用の甲冑」
疑問

  

2014平成26年11月15日~27年1月18日まで高崎市タワー美術館で開催の「東京富士美術館所蔵名品展 日本絵画の精華」展で、絵画のほかに「特別出品」として「小栗上野介忠順所用の甲冑」が展示された。
(タワー美術館HPより転載)

以下の理由でこの甲冑を「小栗上野介忠順所用の甲冑」とは認められない。

1,家紋が小栗忠順家の「丸に立波」と異なる。
2,鎧櫃に「文久二年八月」に誂えたと書いてあるとのこと(未見)だが、小栗上野介自身がつけていた「家計簿」に該当する支出がない。
3,1860万延元年遣米使節として渡米し、新知識を得て帰国後はしきりに製鉄所(造船所)建設を主張していいる文久二年(1862)に、このような旧来の甲冑を造るとは考えられない。
4,小栗忠順の人間性は、合理主義者・リアリストであって、旧来の甲冑を改めて造るのは人物像に合わない。
  
 1、家紋が異なる

小栗家の家紋は
「丸に立波」
    小栗上野介忠順家の家紋「丸に立波」 

東善寺の寺紋も同じです
  
鎧の胸元、や籠手こて、腰掛けている鎧櫃よろいびつ についている家紋は右のようなもので、小栗家の家紋ではない。学芸員のブログでは「略紋」と表現している。
*右図は見学の記憶を元に手書きで再現したもの。細部は異なる場合がある。

これは致命的な問題点。
① 鎧兜につける家紋は単なる飾りではない。戦場での手柄を証明してもらう大事な目印…恩賞の最高は土地。命がけで自領を守り、さらに手柄で土地を増やすことが武士の本願。それで「一懸命」という。
 だから、一目で小栗家とわかる家紋をつけていなければならない。たとえば東善寺に残されている火縄銃や陣笠の家紋は間違いなく「丸に立波」で、一目で小栗家のものとわかる。
 
②小栗家当主(玄孫)や分家の子孫は「丸に立波のほかの家紋を見たことも聞いたこともない」と語っている。
 
鎧に付けられた家紋
 小栗上野介忠順家の家紋ではない 
2、家計簿に支出の記載がない  群馬県史料集『小栗日記』には小栗忠順自筆の「家計簿」が収載されている。この文久二年八月に甲冑の支出記載がない
再版 2500円
 

美術館の説明では、

鎧櫃(よろいびつ)に
【原文「大府度支使 小栗豊後守源忠順調 文久二年壬戌八月吉辰日」】

「文久二年八月に小栗豊後守忠順が誂えた」
と書かれているとのこと(未見)だが、

史料『小栗日記』の文久二年八月の家計簿には、これに該当する記述は見つけられない。
 (ただし八月以外では、詳細不明の支出があり、さらに検討を要するが…)

3,小栗上野介のセンスから考え
文久二年に古来の鎧兜一式を新調するとは考えられない。
 
 小栗忠順は帰国後しきりに製鉄所(造船所)建設を唱え、帰国4年後(1864)に決定、翌年1865慶応元年に着工している。
 
 さらにアメリカで近代武装をした洋式軍隊をたくさん見てきた後であり、その後幕府は小栗上野介の提案を容れて洋式陸軍制度を立ち上げ、フランスから軍事教官を招いてフランス式陸軍の歩兵・砲兵・騎兵の三兵訓練を実施するまでにこぎつけている。
 その思考と、旧式の鎧兜を新調する思考に矛盾を感じる。 

  文久二年(1862)は小栗上野介が遣米使節の世界一周の旅から帰国して二年後。
 




4,小栗上野介は合理主義者・リアリスト

 
上記3,と関連するが、たとえば小栗上野介は

「古い時代に書かれたものなど信用出来ない」

と骨董趣味を排し、学者や画家が自分の目の前で書いたものを大事にする合理主義者であった。
 西洋の進んだ武器や武具を見た小栗上野介がいまさら日本古来の甲冑を新調するとは思われない。  
 そんな金があったらもっと活かした使い方をする人物。  
■ 付け足し:「所用」は不審
「所有」と違って、「所用」とは…「用いた、使った」ということになる。

 小栗忠順はこの甲冑をいつどのような戦があって用いたのだろうか。文久二年以後に小栗忠順がこれを用いて参戦した戦乱があったとは考えられない。
 
 
 ◇今後もしこの甲冑が富士美術館から売りに出される時、「小栗上野介ゆかりの高崎市の美術館でも展示した」というお墨付きになることを懸念し、このページを制作・公開します。
◇異論やご意見のある方はいつでも、お寄せ下さい。        文責:村上泰賢