小栗上野介    ウィキペディア(百科事典)の「小栗忠順」にご用心


 ウィキペディア(フリー百科事典))
「小栗忠順」
にご用心
 フリー百科事典として、誰でも投稿して編集に参加できる「ウィキペディア」はすばらしいシステムで、ちょっと調べて文章を書こうという場合によく使われています。しかし、小栗上野介忠順に関していえば、記述に錯誤があったり、意味不明や舌足らずな表現も見うけられ、その訂正がされないまま、あちこちに引用されて流布しております。
 ウィキペディアの文章をそっくりそのまま転載しているHPもいくつか見受けられ、これらをいちいち探して追いかけて訂正を申し入れる手間も大変で、「誰でも書き込める」というウィキペディアの性質上、これからもどんどん変化することが考えられ、とても追いきれませんので、以下にまとめて問題箇所を指摘しておきます。

おことわり*このページが反映されてウィキペディア「小栗上野介」の幾か所かは訂正されているようですが、最初の段階の誤りがそのまますでに各方面のHPや文章に引用されて使われていますので、当ページではその原型を記録しておくために、あえてウィキペディアで訂正済みの個所もそのまま表示を続けます。
 
  **このページは「小栗上野介の寺 東善寺」のホームページです**
注:ウィキペディアの本文はこちら「ウィキペディア 小栗忠順」(リンク)
           問題箇所             訂正事項
小栗忠順の肖像画 →当寺の先代住職村上照賢が描いたもの。無断使用です。
1、文政10年(1827年) - 慶応4年4月6日(1868年4月28日 →慶応4年4月6日(1868年5月27日
注:慶応4年は四月が2回ありました。
*あちこちの「今日は何の日」というHPに(1868年4月28日)という誤った忌日が引用されています。元凶はウィキペディアと思われます。
2、権田村(高崎市倉渕町権田)に帰郷 →・・・に移住
注:神田駿河台で生まれ育ちました。「帰郷」ではありません。
3、東善寺を住まいとし学問塾の師事 →小栗忠順が誰かを先生と仰いで仕えたということになる。「の」「師事」の使い方が不適切なままの、意味不明の文。
4、戦艦を少数しか所持していない状態では同等の交渉もできず →(当時の日本に戦艦などと呼べる船は一隻もありません)
対等の交渉では?
5、異国の要求を受け入れる 開国では? 異国がどういう要求をしていたか、の方がピントが合った文になる。
6、この頃から造船所を作るという発想を持ったと言われている →(根拠不明)
7,木村は咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ…  →木村摂津守喜毅が遣米使節副使を命じられた公式文書はない。「木村喜毅は副使」「副使の乗る船が咸臨丸」という記述が他の本やHPに見られるが誤り。咸臨丸の格上げを図る動きの一つ。大本営発表。
8、文豪福沢諭吉がいた →福沢は文豪?
9、他の同乗者は異人と接した事がなく困惑していたが →正使新見豊前守正興・副使村垣淡路守範正は外国奉行だからこの文は当らない
10,忠順は落ち着いていたため代表に見えたと言われている。 →(根拠不明)  *ペリーが久里浜に上陸した時、警護役の松代藩士佐久間象山が似たような表現をされているから、混同か?
11、交換比率の見直しの交渉に挑み、成功 →ドル金貨と小判金貨の分析実験をした。「成功」は舌足らず。何がどう成功したのかわからない。交換比率見直し交渉はこの時していないのに、あたかも見直し交渉をしたようにとれる。
12、製鉄技術の差に驚愕と感動 総合工場としてあらゆる工業製品を作り、船も造る様子に感動、
13、帰国後、すぐに勘定奉行など →すぐに外国奉行
14、現に他国の交渉材料にもなっていなかった。 →(意味不明)
15、多くの反感をうけたが 反対をうけた   注:反感は感じるもの、かうもの
16、建設予定地は横浜に決定された 横須賀
17、下仁田町中小坂で鉱山採掘施設との建設ラインを引く。これにより建設日数が短縮された。 中小坂鉄山は小栗上野介の指示で調査・採掘手配が済んだところで幕府解散になったから、この時点では「採掘施設」や、「建設ライン」などまったく存在しない。
18、明治政府には小栗は政府の存在自体を否定する人物 →小栗上野介を殺したのちに明治政府が成立しているから、意味不明の表現。
19、実際は慶喜は登城せず創作の可能性が高い →「登城」は大名・旗本のすること。大阪から逃げ帰った慶喜は江戸城内にずっといる。慶喜出席の会議も存在した。
20、小栗自身も倒幕する事は容認する発言 →「倒幕」は倒す意味(根拠不明・舌足らず)。
21、政府の役人により小栗忠順は捕縛された。 →このときまだ明治政府はできておらず、西軍が来て逮捕殺害した。
22、大勢の村人と明治政府の役人が口論となる →(地元で初耳の珍説)
23、「お静かに」と言い放つ →(地元で初耳の珍説) 
24、敵軍を小田原を通過させ箱根の山を越えさ →小田原・箱根の順序が、逆。(西軍は西からやってくる)
25、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し →錯誤(会津から静岡へ行き、明治2,3年頃からずっと東京に住んでいた)
26、孫は内務省に勤務することにもなった →錯誤(史実になし)
27、「造船所建設など、500年かかっても不可能」という言葉も作られたものという意見 →『勝海舟全集』18。「文久二壬戌年八月二十日に勝海舟自身が書いている