HP東善寺>小栗上野介   小栗の郵便(書信館)制度  提案                    





 
 書信館(ポストオフィシー郵便)制度創設の提案

   
前島密(幕臣時代)

 明治三年になって大隈重信は、近代的な統一国家建設には新聞や書簡など情報の伝達が大事と考え、前島密を駅逓権正に任じて研究にあたらせた。前島は英国に渡って郵便制度を学ぶと、明治四年「新式郵便」と名づけた郵便制度を発足させ、郵便を官業に統一し、郵便切手や、郵便ポスト、全国均一料金制など、日本の近代的な郵便制度創設に尽くした。

       前島密と小栗上野介

 小栗上野介が日本初の株式会社兵庫商社の設立建議書に盛りこんだ書信館(ポストオフィシー)がそのまま設立されていれば、いまごろは郵便局と云わず「書信局」とでも呼んでいただろう。その小栗の構想と前島の「新式郵便」に関連があるのだろうか。

 たとえば、日本の近代化にとって、正確・迅速な情報や書簡の伝達が大事と考える小栗に、新聞発行の建議で担当予定者に挙げられた福沢諭吉は、

 「西洋諸国では飛脚の権限は政府に属し、民間では扱わない。政府が飛脚印という印刷を作り、定価でこれを売る。大きさは七八分、その価格によって色が違う。」
              (福沢諭吉『西洋事情』慶応二年)
 

        飛脚 から 郵便夫

と報告し、小栗の盟友栗本鋤雲も幕末に派遣されたフランスで郵便制度についての見聞を、

 「あらかじめ、店で鈐印けんいん(切手)を買っておく。それは三十六枚に区切られ、それぞれ人物像が描かれている。人に書簡を送る時は、宛名住所を書いてこの鈐印紙(切手)を一片貼り、託せば必ず相手に間違いなく届く。届ける賃金などはみな鈐印紙(切手)の値段の中に含まれているから、きわめて簡便な方法である。」
                     (
栗本鋤雲『暁窓追録補』明治二年)
 *鈐印・・・割り印

と報告している。

 渋沢栄一と前島密は、ともに維新後徳川家が新しい駿河藩となったのに随って静岡に移り、江戸から移る旧幕臣の生活安定に、ともに苦心していた熟知のあいだであることを指摘した「維新前夜雑記」は、続けて前島の「郵便創業談」をひいて、

 「斯業(郵便)の知識を洋行した人に聞いたらわかるだろうと思って帰国した人に尋ねたが、こういうことに気付いた人はなく、渋沢栄一君だけは、一枚の仏国郵便切手を持っていて、これを状袋に貼ると云うことを話してくれた」とその苦心を紹介している。             
           (即是観生『維新前夜雑記』名古屋郵便時報 昭和三十年四月)

 これらを総合して推測すると、前島の構想の原点には、小栗の提案や福沢、栗本、渋沢ら旧幕臣系列の報告が反映していて、

 「明治三年六月十七日英国に出張を命ぜられ、じっさいに郵便事業を見る便利を得て、大いに知識を得た。」
                     (前島密『郵便創業談』

その結果としての、近代郵便制度の確立であったといえよう。

 ついでに言えば栗本鋤雲は、明治五年に前島の発案で矢野文雄(龍渓)、犬養毅、尾崎行雄らを擁して、明治の代表的新聞といわれた「郵便報知新聞」が発刊された時、主筆として招かれ、健筆を振るっている。

                 
                    ▲小栗クニ と小栗貞雄

 こうしてみると、明治20年に大熊重信夫妻の依頼を受けた前島密が小栗家の存続を願い、喜んで小栗上野介の遺児クニと矢野貞雄(矢野龍渓の弟)の媒酌の労をとったであろうことは、容易に想像出来ることである。

 

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