HP東善寺>小栗上野介    新聞発行を建議 福沢諭吉を起用        



 
   遣米使節での帰国後(1860万延元年)に
新聞発行を建議

福沢諭吉を発行責任者に推薦
          
         何でもメモする日本人 アメリカの新聞記事 挿絵▲
                             

     『日本新聞発達史』によると
   
 小栗は
◆遣米使節帰国後直後に 新聞発行を建議
◆幕末に 「もし新聞があって公武の秘密や、官民の内情を暴露していたら、これほど簡単に幕府が倒れることはなかったろう」と語った。


 「
慶応三年徳川幕府は愈よ大政を返上して、天下の輿論(よろん)東西に二分し、我国の新聞紙は初めて翻訳時代から創作の時代に入るのであるが、ここに一言して置かなければならないのは、幕府瓦解以前既に新聞紙の利益を認めて、是を発行せんとした政治家のあったことである。

 其の先覚者は内政上では小栗上野介外交上では池田筑後守である。両者共に幕臣であって、夙(つと)に海外に旅行して其利益を認め、将に瓦解せんとする幕府の頽勢(たいせい)を挽回せんとしたのは注目すべき値がある。長州藩を中心とする幕府転覆の一味が落書、張紙、チョボクレ等旧式の宣伝機関を利用して或は攘夷論を利用して或は復古論を宣伝して政変を企てたるに比し数等の達見であると云はねばならぬ。
 
 小栗は幕府最初の遣外使節新見豊前守に随行して米国に赴き彼地に於る新聞を詳
(つぶさ)に視察して幕府の機関紙を発行せんとし、帰朝後直ちに(萬延元年一八六〇年)是を幕府に建言した。小栗は当時の随員福沢諭吉をして発行せしめる
               
                ▲小栗忠順が新聞発行者に推薦した福沢諭吉 
計画であったが、幕府内是に耳を傾くるものなく遂に其意を達しなかった。

 慶応三年幕府倒るるに及んで小栗は之を慨嘆し、もし新聞あって公武の秘密、官民の内情暴露したならば事此処に及ばなかったらうと云った云ふ。」 
        
  〈以上:小野秀雄『日本新聞発達史』五月書房 大正11年 大阪毎日新聞社 24p~  第3章 第1節 小栗上野介と池田筑後守の卓見 〉

    「年寄りどもは話せない」
    
新聞発行建議を却下された小栗はこう言って舌打ちした
 

   
  『江戸から東京へ』によると 

 「万延元年(一八六〇)二月二十五日、新見豊前守、村垣淡路守、小栗豊後守の一行が、頭に丁髷ちょんまげをいただき、腰に大刀を横たえて、米国桑港サンフランシスコに上陸し、閏三月十八日に、再び桑港から抜錨するまで、ドック、工場、砲台、製鉄所を視察して帰るや、小栗豊後守は、米国で見てきた通りの新聞紙を、幕府から発行させようとした。しかし、蕃書調所(ばんしょしらべどころ)で、苦心してつくる抄訳新聞ですら、面倒がって眼を通さぬサボ役人の多い際であったから、小栗豊後守の説はいれられなかった。小栗はその時わずか二十余歳の青年であったが、
「年寄りどもは話せない」
といって、舌打ちした。」


  〈以上 矢田挿雲『江戸から東京へ』中公文庫(6)・120p~ 元は報知新聞に矢田挿雲記者が大正9年~12年ごろ連載 〉
 
*訂正  二月二十五日 → 二月十三日着/閏三月十八日 → 三月十七日発
*訂正  二十余歳 → この時小栗は数え三十四歳

*注  筆者矢田挿雲は以下に続けて小栗上野介の英才ぶりを書くが、今見るとかなり見当違いな文章や、殺した明治政府側の「小栗逆賊観」を反映したと思われる文章が見られるので、要注意。参考までに続けて引用する。

これがまた非常な英物で、米国へ上陸の即日、金銀量目の比較に注意し、先方の接伴員が、富士山のこと、サクラのことを聞きたがるのには、ろくに取合わず、こっちからもっぱら幣制上の質問を発し、帰朝の後、小判の位を昇せて三倍以上の価格とした。この点を同船の勘定役すらも、気づかなかったくらいだから、とても新聞紙の発行に賛成するはずがない。

 小栗はこのような図抜けた卓見と、無遠慮な建言のために、絶えず上司から忌まれ、一生のうちに面黜(めんちゅつ)せらるること、七十余回は烈しいが、七十余回面黜されたのだから、いずれまた七十余回用いられたに相違ない。最後には慶喜公の裾をつかまえて、開戦論を主張したので、直語免職というのをくった
 德川幕府二百六十余年、面黜者数千におよぶも、将軍の直語辞令で免職を申渡されたのは、小栗忠順一人である。しかしあくまで德川幕府を再興させる考えで、上州高崎に帰り練兵一隊を養っていると、明治元年四月官軍から呼び出され、一人で威張って出頭するやいなや、首を斬られた。新知識、惜しむらくは大勢に通ぜず、あっけない終りをとげたが、我々新聞社会では忘れがたき人物の一人である。

 
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