HP東善寺>赤報隊  ●  赤報隊斬殺  謀略体質の東山道軍(西軍・明治新政府軍)      


 
 謀略体質の東山道軍(西軍・明治新政府軍)
赤報隊斬殺

小栗主従殺害の前に信州下諏訪で「ニセ官軍」として赤報隊8名を斬殺してきた
 
下諏訪で赤報隊八名を斬殺
 
    赤報隊は、西軍への協力先触れ隊

 1868慶應四年一月、西郷隆盛や岩倉具視の支援を受け新政府の許可を得て東山道軍の先鋒隊として一番隊隊長相楽さがらそうぞう、二番隊、三番隊と、赤報隊が結成された。公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として、中山道の沿道各地で「年貢半減」を触れ、西軍への賛同協力を呼びかける嚮導きょうどう先鋒せんぽう」を命じる太政官の坊城大納言名の勅書を得て、先頭は和田峠を越え碓氷峠まで進んだ。

その頃、朝廷は「年貢半減」は実行不可能で新政府の財政が立ち行かなくなるとして、これを取り消していた。そして東山道軍は赤報隊を「ニセ官軍」とし、軍議を名目に相楽総三らを下諏訪へ呼び戻して捕え、諏訪大社秋宮の木に縛って一晩ミゾレの氷雨にさらし、三月三日夕刻、取調べをしないまま「ニセ官軍」の罪名をもって部下七名とともに斬首した。

 
      ▲『江濃信日誌』に「年貢半減」を記載  (下諏訪町立博物館蔵
 赤報隊は三隊あって、近江~美濃~信州を従軍した一番隊の『江濃信日誌』に
は行く先々で布告した「年貢半減令」が記録され、下諏訪の本陣前でも高札で示された。
 

御沙汰之事                     

 正月                   正月    (訳文 村上泰賢訳
 但今度不圖干戈ニ至候儀ニ付テハ万民   この度図らずも戦争となり万民の
 塗炭之苦モ不少依之是迄幕領之     塗炭の苦しみは少なくないので、幕府領の
 分總テ當年租税半減被 仰付候     分はすべて今年の年貢は半分とする。
 昨年未納之分モ可為同様来巳年以後   昨年未納の分も同様にし、来年以降の事は
 之処ハ御取調之上 御沙汰可被為在候  よく検討して通知するので、
 義ニ候間右旨分明ニ可申付事      この件をはっきり通達する
右之御書相良総三頂戴帰陣依之以来   右の勅書を相良総三が頂いてきたので、以来
宿陣之刻本陣門前へ左之高札掛ル    宿陣の時に本陣前に高札で掲げる

 
                           ▲諏訪大社秋宮
 板垣退助、伊地知正治を参謀とする西軍・東山道軍は、相良総三らを境内の木に縛って一晩ミゾレにさらし、翌慶応四年三月三日「ニセ官軍」の罪名のもとに斬首した。
 
相楽総三は「薩摩強盗」の頭だった
 

        ◆相楽総三はもと薩摩強盗の頭

相楽は江戸赤坂に生まれ、本名は小島将満。国学と兵学を学び、若くして私塾を開いて多くの門人を抱え、23歳の時に尊王攘夷活動に入る。
 徳川慶喜の大政奉還で倒幕の機運を削がれた西郷隆盛、大久保利通から、幕府を挑発して幕府との戦争のキッカケにしたいとの意を受けた益満休之助、伊牟田尚平、相楽総三らは三田の薩摩藩邸を根城に浪士約500人を集め、放火・暴行・掠奪を繰り返し「薩摩御用盗」と江戸町民を震え上がらせた。

                   薩摩強盗
    
 「江戸表にては関東の浪士相楽中村なんど云へる無頼の徒数百人三田なる薩邸に潜み居て毎夜胆太くも伍を組み銃を携へ市中の富豪へ軍用金を募るとて強盗に押し入り」、これは『勝伯事蹟・開城始末』(阪崎賦)から引いた。【長谷川伸『相楽総三とその同志』p231より】

 「薩邸に屯集した浪士側でも強奪を行なったことを認めてゐる。『或る夜、浪士数名を派して、幕府の用途方播磨屋新右衛門を襲はしむ。この時、浪士、金吹町に至り前後の木戸を閉ぢ(此頃町毎に門柵あり町木戸と云ふ、金吹町は日本橋区)、先づその唐物店に進入し、、六連発短銃数十個を奪ひ、播磨屋に突入す。一家恐怖し為す所を知らず、茲に番頭を呼て曰く、汝等常に幕府あるを知って勤王の何ものたるを知らず、その罪浅からず、汝等、前非を悔いなば勤王の陣営に軍資を献ずべしと、番頭三拝九拝して承諾す。時に二童子あり、穴蔵に案内して、金一萬八千両を授く』これは『薩邸事件略記』の一齣である。【長谷川伸『相楽総三とその同志』p232より】

 『晦結溢言』にも強盗のことがある。「庄内藩巡邏の一人なる山下英蔵の直話に、本郷追分に高崎屋と云ふは、時節柄戒心して、夜は店舗を角材格子作とし、固く鎖して二階に警鐘を釣りたり、然るに、多人数押掛け榔槌かけやを以て打破り、闖入ちんにゅうしたる故、警鐘を鳴したれば、近傍より馳集るに、忽ちその両三人を斬殺し、高崎屋の家族七人を殺して、金銀を悉く奪ひ去る」ここまででは強盗が薩邸の浪士だと断定してゐないが、その後に、「十二月十八日、浅草市の日なりしが、薩邸潜伏の巨魁三名、品川のドド相模(注・土蔵相模の誤り)に遊蕩すと聞き、直ちに逮捕に向ひたるに、二人取逃し、一人切捨、確證を得、尚精査するに愈相違なし」とある。【長谷川伸『相楽総三とその同志』p233より】

 慶応三年十二月二十五日、強盗団の根拠地となっている三田の薩邸が幕府によって焼き討ちされた時、
 「・・・『南紀德川史』に・・・同夜品川で討漏した二人のうち駕で逃れた一人が後の海軍顕官たる伊東某の由、其時、舁夫(よふ・駕籠かき)たりしは今現に貴族院に出入りし、「あの人は夜盗を働きし旦那也と」いったとある。【長谷川伸『相楽総三とその同志』p234より】

 「総裁相楽総三が水原二郎(落合直亮)と、浪士約二十人をつれて柳橋に遊んだことがある。芸者を多勢呼んで大盤振舞ひをやるうちに、刀を抜いて剣舞するものなどが出て、芸者達は駭おどろいて逃げ出した。その帰りは水路をとり、船の中から水鳥を射ちなどした。そのころ江戸府内での発砲は厳禁だったから町同心などが吃驚し駈けつけたが、咎むる者がなかった。この船に陸から尾行したものがあって、薩邸に相楽・水原等がはひったのを見届けた。」【長谷川伸『相楽総三とその同志』p246より】
 
 この大盤振る舞いの遊興費はもちろん強盗殺人で得た金銭である。薩摩藩が500人前後の浪士たちの生活費、手当、遊興費を出していたわけではない。自分たちの勤王運動に賛同して資金を提供しろ、と脅して集め、時には殺人まで犯して生活費、遊興費を得ていた「目的が正しければ手段は選ばない」独善的な自給自活の強盗団だった。

 

             ◆一石二鳥の赤報隊殺害

 1867慶應三年十二月二十五日幕府と江戸市中取締の庄内藩によって薩摩藩邸が焼き討ちされると相楽は薩摩藩の翔鳳丸で逃れて京都に入り、西郷や岩倉具視の指示で赤報隊を結成している。


 喜んだ西郷隆盛
 「西郷吉之助は三田邸焼討の報告を聞き、秘計の成就せるを喜び、之を谷守部(谷干城)に語りて曰く、戦端開けたり、速に乾君(板垣退助)に報ぜよ」、とこれは『隈山貽謀録』(『谷干城遺稿』上巻)にあり【長谷川伸『相楽総三とその同志』p385より】

 結局、赤報隊は8人が下諏訪で東山道軍によって斬殺されてしまう。相楽は時に29歳であった。この処分で明治新政府は、一石二鳥で
 1 実行不能で不都合と
なった「年貢半減令」 と、
 2 西郷・大久保の指令で行なった「薩摩御用盗」行為
を共に闇に葬ったことになる。

この品性に劣る謀略体質に満ちた西軍・東山道軍が碓氷峠を越え高崎まで来て行ったのが、小栗父子主従8人の殺害と家財没収・入札で売却し軍資金として持ち去るという、やはり品性劣る強盗殺人行為。
 ・共通点は  「取り調べなしで逆賊として殺害」したところ。          
 ・相違点は  小栗上野介は日本近代化の父というべき人物。いまだに逆賊扱い
        相楽総三は西郷・岩倉の指示で行った元強盗殺人団の頭。昭和3年に維新に功績ありとして贈位され名誉回復


・関係者: 東山道総督岩倉具定(17歳・具定の二男)、副総督岩倉具経(16歳・具定の三男八千丸)、参謀土佐・乾退輔(のちの板垣退助伯爵)、薩摩・伊地知正治(のちに伯爵)、宇田栗園(岩倉家人)、軍監原保太郎(32歳)、豊永貫一郎(17歳)、大音おおと龍太郎りょうたろう(24歳)
・原保太郎「処刑立会ひの原保太郎は丹波篠山の人で、剣道ができるので、京都に出てゐる間に岩倉具視に知られ、岩倉兄弟が東山道鎮撫総督副総督で東下するにあたり、側人となって随行した。原にいはせると「用心棒だよ」である。時に原は二十二歳、(原の談話筆記に『文久三年十六歳、江戸に出た』とある。それだと一歳の違ひが出来る)、原の説では、「富永〈豊永〉貫一郎は少年で、そのころ十六ぐらゐだ」とある。此の原・富永〈豊永〉は追分の処刑に関係しただけではなく、〈閏〉四月六日(おなじ年の慶應四年)上州の権田村烏川の河原で、小栗上野介等を死刑に行ったときも、立会人であるだけでなく、原は自分の刀で上野介を斬った。この調子から推して想像すると、相楽総三ら八人の死刑執行の立会人も、原・富永〈豊永〉ではないかといふ事になり易い。」【長谷川伸『相楽総三とその同志』p615より】( )は筆者長谷川伸、〈 〉は村上泰賢が補った。
*傍線部「原は自分の刀で上野介を斬った」・・・安中藩士浅田五郎作が斬ったという説があり、立会人の軍監が自ら斬ることは考えられない。


 原は、「板垣参謀から厳重に処分せよと命ぜられ、その命令に従って、斬ったのである」と答えた。【蜷川新『維新正観』p248より】

・大音龍太郎:「近江(滋賀県木之本町大音・賤ケ岳の南東麓)の出身で、京都で勉強中に岡本黄石に知られ、上州箕輪の龍門寺牧野再龍といふ奇警な人物に預けられたのが十六の時だった。牧野再龍は越後出身の勤王僧だから、その鼓吹をうけ、性根が出来たのである。大音は京都にのぼり、岩倉具視の知遇をうけ、今度も岩倉兄弟に随って来てゐた。
 幕末史の終りを、流血の惨が幾つか彩ってゐる。上州榛名山下の権田村で、旧幕府切っての主戦論者、小栗上野介主従六人(八人)が惨殺された哀史もその一ツである。大音はそのときの惨殺関係者だった。
 群馬県の出来る前に岩鼻県といふものが設けられ、初代の知事になったものが大音で、大音の執政は苛烈を極め、麦一升を盗んだ者が死刑となり、悪い噂に誤られて死刑になった者もあるといふ。その故か七ケ月で罷めさせられた。
 大音は西南の役のとき、陸奥宗光等とひそかに薩軍の爲に謀り、事露れて、大音は逃亡し、陸奥は捕縛され入獄した。入獄した陸奥は、却って明治外交の難局を背負って立って剃刀大臣の名を博し、上州の山寺に隠れて遂に捕へられなかった大音は、破れ袴の田舎書家、うらぶれた姿を、旅路に見た人が幾人かあったといふ。大正元年十一月二十三日、東京で六十八年の終り(を)淋しく世を去った。」
【長谷川伸『相楽総三とその同志』p568より】*( )は村上泰賢が補った

龍門寺(現在高崎市箕郷町東明屋・曹洞宗): は江戸の初めに箕輪城主となった井伊直政の菩提寺であり、井伊家が高崎に城を構えて移り、さらに彦根に移ってのちも彦根とのつながりはあったから、大音龍太郎が近江から上州の龍門寺に来たのもそういった縁からと思われる。

              ◆ 謀略体質

 「・・・薩摩強盗団について越前福井の旧藩主松平慶永(春嶽)が明治になってから執筆した『逸事史補』でかういってゐる。「皇政一新発令前、岩倉(具視)公、大久保(利通)、西郷(隆盛)らの内議により、江戸の薩人に申遣はして、部下を暴動し、酒井左衛門尉(庄内藩主)等の兵を動かさしめ、江戸に在りし徳川家の旗本を忿怒せしむる為に設けたる一策なりといへど、分明なり難し。余が考ふる所は、多分此の策は真偽は保証しがたしと雖、実證なるべきを信ず」と。因縁まことに奇で、四郎(小島四郎=相楽総三)の薩邸戦争を惹き起した背後で、松平慶永のいふ如く岩倉具視が糸を引いたとすれば、四郎が殺戮梟首の刑にあった時、又、その背後であったものが(東山道鎮撫総督)岩倉具定(17歳と副総督具経16歳)兄弟だった・・・」【長谷川伸『相楽総三とその同志』より】*( )は村上泰賢が補った

 この時、土佐の乾退助(板垣退助)も江戸騒乱を謀ったが、計画だけで実行まで至らなかった。

 「権力は腐敗する傾向がある。絶対権力は絶対腐敗する」(歴学者ジョン・アクトン)。
 その腐敗は嘘をつくことから始まり、嘘を糊塗する謀略に進む。
 
 「年貢半減令」にしても西郷らは口頭での指示で、公式文書を渡していない。明治政府が「ニセの倒幕勅書」、「ニセの錦旗」という嘘から始まり、以来77年間嘘と謀略で固めて戦争続きの政治を行い、ついには原爆を2つも落とされ、もし3つ目を東京駅に真上に落とされたら国が滅ぶ、その寸前までいってしまったことを忘れてはならない。
  

 
                             ▲相楽塚(魁(さきがけ) )
 斬殺された場所に8人を供養する魁塚が明治三年に立つ。取り調べなしで殺された人たちを憐れむ気持ちはわかるが、「薩摩強盗団」の前歴に触れないで、明治維新の功労者として「昭和3年に子孫らの努力で贈位され名誉回復」、とするのは納得し難い。
 
 関連ページ
赤報隊隊長、処刑!(リンク)
相楽総三の無念(リンク)

官軍意識とのたたかい・・・明治以来始まった「官は正しい」という錯覚が明治元年から77年間戦争続きの日本をつくった