東善寺HP>小栗上野介       小栗上野介忠順の略歴                                            


 
   小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の略歴  
名称   幼名:剛太郎  襲名:又一   
豊後守(1859安政六年~1862文久二年)・上野介(1862文久二年~  )
家族
 11代小栗忠高 1809文化六年一月三日(西暦2月14日)生 旗本中川飛騨守忠英(ただてる)の四男。小栗忠清が22歳で病死したため末期養子として小栗家に入る。1847弘化四年持筒頭、1849嘉永二年総州小金原での鹿狩りに随従、1854嘉永七年・安政元年新潟奉行に単身赴任~1857安政二年七月二十八日(9月9日)新潟で病死 数え四十九歳  法音寺に葬る
 小栗クニ(邦子) 10代小栗忠清の女 1868慶応四年・明治元年三月一日(3月24日)権田村へ移住、閏四月三日(5月24日)頃道子夫人・養女鉞子とともに~新潟~会津へ逃避行。1869明治二年春 会津~静岡~東京へ戻る。
 忠順が8歳のとき生まれ、早世

 道子  播州林田藩主建部政醇の娘
養女鉞子よきこ  日下数馬(もと小栗邦子の弟小栗庄次郎)の娘
養嗣子又一忠道 駒井甲斐守朝温の次男 鉞子の婚約者

旗本 三河以来の家臣 二五〇〇石→遣米使節の功で1860万延元年十二月一日(1月11日)に二七〇〇石に加増され、1868明治維新を迎える 
屋敷 江戸神田駿河台 (いまYWCA一帯の970坪)
 略歴
1827文政十年六月二十三日(西暦7月16日) 江戸神田駿河台で出生
1835天保六年十月一日(11月20日) 安積艮斎野塾に入門 この頃、剣道は男谷下総守門下の島田見山、のち藤川整斎に直心影流、柔術・兵学を久保田助太郎、砲術を和流田付主計に学ぶ 
1843天保十四年三月二十三日(4月23日) 初めて登城 黒書院で初御目見得する
1847弘化四年四月十六日(5月30日) 両御番に番入り
1848嘉永元年十月二十日(11月15日) 江戸城山里丸御庭の弓術上覧で大的皆中、時服を賜る この頃馬術を得意とした
1849嘉永二年三月十八日(4月10日) 将軍家慶の下総小金原鹿狩りに「追馳驛馬」役で随従
1849嘉永二年  不明         道子と結婚  道子は1839天保十年六月十日(7月20日)生
1853嘉永六年七月五日(8月9日) 進物番出役に昇進 本丸に移り将軍家定に勤仕
1855安政二年五月二十一日(6月23日) 吹上馬揃で早乗り上覧
      七月十八日(8月18日)  新潟奉行の父忠高病気見舞いのため新潟へ 七月二十八日(9月9日)忠高歿
      十月二十二日(11月19日) 跡目を相続し又一と改名
1857安政四年一月十一日(2月5日) 書院番進物番より使番
      十二月十六日(1月30日) 布衣を賜る(従六位相当)
1859安政六年九月十二日(10月7日) 目付 外国掛
1860安政7年・万延元年一月十八日(2月9日) 遣米使節目付として渡米~同年九月二十八日(10月31日)江戸帰着
1860万延元年十一月八日(12月19日) 外国奉行
1861文久元年七月二十六日(8月31日) 外国奉行辞任
1862文久二年三月九日(4月7日)  寄合より元外国奉行 書院番頭
1862文久二年六月五日(7月1日)  勘定奉行勝手方
1862文久二年閏八月二十五日(10月18日) 町奉行兼帯
1862文久二年十二月一日(1月20日) 勘定奉行再役勝手掛歩兵奉行兼帯
1863文久三年四月二十三日(6月9日) 上記辞任
1863文久三年七月十日(8月23日) 元歩兵奉行 陸軍奉行並
1863文久三年七月二十九日(9月11日) 御役御免 勤仕並寄合
1864元治元年八月十三日(10月5日)  勤仕並寄合より元陸軍奉行並 勘定奉行再々役勝手方
1864元治元年十二月十八日(1月26日) 軍艦奉行
1865元治二年二月二十一日(3月18日) 御役御免
1865慶応元年五月四日(5月28日) 元軍艦奉行 勘定奉行再々役勝手方
1866慶応二年八月十一日(9月19日)  海軍奉行並兼帯 
1867慶応三年十二月二十八日(1月22日) 陸軍奉行並兼帯
1868慶応四年一月十五日(2月8日)  御役御免 勤仕並寄合
1868慶応四年三月一日(3月24日)   上州権田村に土着(帰農)
1868慶応4年閏四月六日(5月27日)  西軍・明治新政府軍・東山道軍により殺害される
 
 寺  小栗忠順家の菩提寺は曹洞宗保善寺(もと牛込→いま中野区)  *東善寺は小栗「上野介父子主従の菩提寺」
 墓  東善寺境内   雑司ケ谷墓地(明治以後神葬祭となって設けた墓で忠順の埋骨等はない)  
 注:西暦は『日本陰陽暦日対照表』による