●●ぐんま見聞録:「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」   

ぐんま見聞録「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介
2002(平成14)10月ー12月毎週金曜日
 (全10回)


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第1回 小栗上野介がどんな人物であったのか、生い立ちからその生涯
第2回 小栗上野介が権田村(現在の倉渕村)に隠棲することになった経緯や村で起こった事件
第3回 小栗上野介が権田村で家族とともにどのように暮らしていたのか
第4回 小栗上野介が権田村で迎えた最期までのいきさつ
第5回 小栗上野介が近代化構想を打ち立てるきっかけとなった遣米使節としてのアメリカ派遣や世界一周
第6回 横須賀製鉄所建設の背景
第7回 日本の近代化に向けた小栗上野介のさまざまな業績
第8回 小栗上野介の業績などを顕彰した経緯
第9回 小栗上野介亡きあと、村人がとった行動
第10回 小栗上野介の財政手腕など

「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第1回) 

「ぐんま見聞録」でも今号から小栗上野介の新連載(全10回)がスタートします。 

  第1回の今回は、小栗上野介がどんな人物であったのか、生い立ちから その生涯を簡単にご紹介します。 
 
 
  
「小栗上野介の人となり〜あらまし」 
 
  小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は文政10(1827)年、江 戸神田駿河台(現在のJR御茶ノ水駅前一帯)で譜代旗本の屋敷に生まれた。小栗家は代々「又一」と名乗っているが、これは小栗家4代忠政が徳川家康 に仕え、槍の名人として活躍し、たびたびの戦いで「またも一番槍か」と功名をあげたので、「これより又一と名乗れ」と命じられたという。   
  小栗家の領地は上野・下野・上総・下総などに散在し、上野介の代には 200石加増され2,700石の禄高をもつ旗本であった。権田村(現在の倉渕 村)は宝永元年以来、375石の領地であった。小栗は11代忠高の長男で幼名を剛太郎といった。8歳の時、屋敷内にある安積艮斉(あさかごんさい)の塾に学んだ。机を並べていた中に、小栗の 生涯の心の友である栗本鋤雲(くりもとじょうん)がいた。また、武芸を好 み、剣道・柔術・馬術・弓術に優れ、文武両道に抜きん出ていた。   
  小栗が歴史の舞台に初めて登場したのは、時の大老井伊直弼に認められ、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節の目付(監察官)として抜擢 されてからである。当時、小栗は33歳であった。 
  世界一周の旅を終え帰国した小栗は外国・勘定・江戸町・歩兵・陸軍・軍艦・海軍の各奉行を歴任し、幕府の要職にあった8年間は遣米使節での見聞をもとに、日本近代化の道を切り開いた。  横須賀造船所の建設、フランス語学校の設立、フランス式軍隊の導入と訓練、滝野川反射炉による大砲製造、そのほか郵便制度・鉄道の建設・新聞発行・ガス灯の設置などを提唱するなど、幕末の多端のなかに活躍し、作家司馬遼太郎は小栗を「明治の父」として高く評価している。 
 
  小栗は、将軍徳川慶喜に主戦論を主張したが受け入れられず、罷免され、領地である権田村に「土着願」を出して隠棲帰農した。そして、新時代に生 きる若者の教育を構想したが、慶応4(1868)年閏4月6日、小栗の実力を恐れた新政府軍に水沼川原で斬首された。時に小栗42歳。養子又一も翌7日に高崎城下で斬首された。水沼川原には昭和7年に建立された「偉人小 栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれた顕彰慰霊碑がある。 

 小栗夫人と家族らは、家臣、村人らが護衛し、吾妻から山河をこえて会 津へ脱出し、会津城下で女児を出産、くに子と名付けた。くに子が小栗家を継いで子孫がいる。 
 
  倉渕村権田には小栗家5代政信が中興開基した東善寺があり、境内には小栗上野介父子の墓(県指定史跡)、昭和28年に横須賀市から寄贈された小栗と盟友栗本鋤雲の胸像、小栗遺品館がある。また、小栗自身が記帳していた「小栗日記」「家計簿」は県指定重要文化財となり、渋川市の後藤家で所 蔵されている。 
 
  倉渕村は、昭和56年に横須賀市と友好都市提携に調印し、昭和62年には村内に横須賀市民休養村「はまゆう山荘」を開村した。毎年、横須賀市と親善のための交流事業が行われている。                         

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「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第2回

 今回は、小栗上野介が権田村(現在の倉渕村)に隠棲することになった いきさつや、村に到着してから起こった事件についてご紹介します。 
   
「小栗上野介 隠退帰農を決意」 
 
  慶応4(1868)年1月15日、江戸城における和戦決定の大会議において、 小栗は薩長に対し、強硬に主戦論を主張したが、徳川慶喜の怒りに触れて、勘定奉行・陸軍奉行を罷免された。小栗はもはや自分の役目は終わったとして引退、帰農を決意した。 
 
  1月28日、小栗は「采地(領地)を返上して上州権田村に土着帰農したい」と願書を提出した。1月29日、「采地は返上するには及ばない。土着は許可する」と沙汰がおりた。この「采地返上」の申し出から小栗の決意 がいかに固いかを知ることができる。徳川300年、譜代の旗本として受け継いできた家禄2千数百石を自ら「返上します」と申し出たのである。   
  明治維新の際、禄を失った武士階層の多くが生計の方途が立たず、困惑 したのを思えば、小栗はすでに武士を廃業しても充分やっていける自信があったのであろう。 
 
  小栗は在職中、仕事柄多くの外国人と接し、世界の情勢にも通じ、欧米列強の経済発展とその仕組みについても理解していた。また、多くの実業人とも交渉があって、産業・経済についての実学の間口が広かった。三井財閥の大番頭、三野村利左衛門などは、小栗の指導助言によって成功したのである。小栗は裃をぬいで一民間人として、実業面で飛躍すべく後半生をかけたのではないか。年まさに42歳の働き盛りであった。 

  このような志を胸に抱いて3月1日の夕刻、権田村の東善寺に家族郎党 とともに到着した。ところが、旅装を解く間もなく発生したのが暴徒の来襲事件である。幕 府の勘定奉行であった小栗が多額の軍用金を権田に持ち込んだという噂を信じた暴徒がこれを奪おうとしたのである。しかし、この暴徒襲来の裏に は「小栗追補」の口実を得るための謀略があったともいわれている。 
 
  小栗は事態を穏便に収拾すべく、暴徒の首領と交渉したが容れられず、3月4日早朝から2千数百人の暴徒が権田村に来襲した。小栗は数名の家臣と権田の若者100人余りを巧みに指揮して、たちまち暴徒を一蹴した。 
 
  暴徒襲撃事件後は、村内の観音山に田畑の開墾や居宅の建築を急ぐかたわら、村民との交流を深めながら新時代に向けての生活設計を着々と実行している。この時期における小栗の日常は、全く平和的・建設的で、「戦備」とは全く無縁の生活であったことは当時の村民が目撃している。 しかし、暴徒撃退の情報は悪意をもって誇張されて東山道総督府に訴告され、「小栗追補」の口実を与えたことは悲しむべきことであった。 

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「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第3回

   今回は、小栗上野介が権田村(現在の倉渕村)で家族とともにどのよう に暮らしていたのかを紹介します。 
 
    
「小栗上野介、権田村の65日」 
 
  小栗上野介の土着帰農は、幕府が瓦解したのでやむなく隠退し、花鳥風 月を友として気ままに暮らす隠遁的なものではなかった。権田村に到着早 々から、新時代に向けての構想を実現すべく活発に行動を開始している。3月5日、暴徒来襲後、近隣村々の役人と和解の席上、時勢を説き教育の必要を諭し、学校開設の計画を告げて生徒募集を依頼している。そして、「将来、この谷から太政大臣を出してみせる」と言った。小栗は、野にあって人材を育てようと志した。そして、村内にある観音山の学塾を拠点に、若者達とともにこの地域の殖産興業を目指していた。 
 
  この頃、関東各地では旧幕兵と西軍(新政府軍)の衝突が繰り返され、東北の空も戦雲立ちこめる緊迫した時局であった。しかし、小栗は騒然たる世情には無関心のごとく、永住の地と定めた観音山に田畑を開墾し、居宅の建築をすすめていた。 
 
  小栗は権田に隠退後、あっけない程戦意を放棄している。合理的な性格の持ち主である彼は、「主君徳川慶喜が恭順したからには抗戦しても大義名分がない」と明言している。土着帰農後の日常生活は、二日をおかず観音山に登り、工事を監督したり、馬場で乗馬を楽しんでいる。また、村内を巡視して村民との交流を深めている。小高地区の人達が、水不足で田の仕付けに苦労する話を聞き、早速水路を測量してやり、掘削させている。この小高用水は、今も大切な用水路として守られている。民家にも気さくに立ち寄り、ほほえましい逸話も残されている。 
 
  一方、母堂、夫人、そして養子又一の許婚よき子等女性達も野辺に出て摘み草をしたり、観音山の普請場に遊びに行ったりして、のどかな春の日を楽しんでいた。月14日は結婚以来初めて妊娠した夫人の着帯の祝事を行うなど家庭内の喜びもあった。4月28日は待望の居宅の上棟が予定されていた。 
 
  このように、新時代への抱負と構想の実現に向けて、生き甲斐のある日 々を送っていた。幕府末期の激務に明け暮れ、心身を休める暇もなかった小栗にとって、この権田における数十日が最も静穏に過ごせた日々ではなかったろうか。 
    小栗としても、それなりに騒然たる周囲の情勢に関する情報収集も観察 もあったろう。しかし、「在職中主戦論を唱えた者でも、今は野に下り、平和的に帰農している自分を、いかに西軍とて罪人として捕縛する理由はあるまい」との思いこみが強かったのであろう。罪を犯してはいないという自信から逃避を潔しとしなかった。小栗は西軍の彼を見る眼の異常に厳しいことに全く無防備であった。                    

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「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第4回

  今回は、小栗上野介が権田村(現在の倉渕村)で迎えた最期までのいきさつをお届けします。 
 
 
  
「夢むなしく、罪なくして斬らる」 
 
  西軍(新政府軍)は小栗のこの平和的帰農を許しておかなかった。幕府要職在任中は反薩長の中心的人物として憎まれ、またその手腕は倒幕勢力 にとって大きな脅威であった。薄氷をふむ思いで関東入りした東山道総督軍は、厳しい眼で小栗の動向 に注目していた。そこへ、数千の暴徒を一挙に撃退する程の武備、田畑開墾、居宅建築の工事など悪意をもってねつ造された情報が西軍に訴告されたため、直ちに「小栗討伐令」が発令された。 
 
   「小栗上野介近日其領地権田村に陣屋等厳重に相構え、しかのみならず 砲台を築き、容易ならざる企てこれあるの趣、諸方よりの注進聞き捨て難 く、深く探索を加え候処、逆謀判然、上は天朝に対し奉り不埒(ふらち)至極(以下略)」 
 
   4月22日、東山道総督府より高崎・安中・吉井三藩に対し上記の追討令が下命された。 
 
   家族と僅かな家臣とともに東善寺に仮住まいする小栗に対する討伐令は、まるで城攻めのような仰々しいものであった。また、「陣屋等厳重に相構え」とか「砲台を築き」などは、「深く探索を加え」たのであれば、歴然たる虚構であることは明らかではなかったか。ここに、西軍の小栗に対する殺意が読みとれる。 

   閏4月1日、高崎等三藩は出兵し、東善寺に到り、代表が小栗に追討令を示し、問詰した。これに対し、当日の「小栗日記」によれば次のように応対している。

  「自分が百方弁解してもわかってもらえまいから、近傍の探索をして事実をその眼で確かめてもらいたい。観音山はかねがね自分の持山であるから、畑地や家作を造ればそれだけ村民の負担も軽くできる。全く雨露をしのぐ程の家作ができたからとて別に砦という程のことはあるまい。現地を 目撃してもらえばわかることである。反逆陰謀をたくらむ者が家宅をつく り、田畑を開墾するなど今後永年の策をいたすものもあるまい。よくよく見届けて別心のないことを各藩より総督に申し上げてくれるように」と言って、荒川祐蔵に観音山の居宅建築や田畑開墾の現場を案内させた。
 
  また、所持の武器(小銃等)も三藩に引き渡した。そして、三藩の要請 に応じ、養嗣子又一と家臣3名を弁明のため高崎に差遣した。以上の措置で高崎等三藩は充分に納得して「小栗に反意も戦備もなし」として引き揚げたのであ
る。 
  
   高崎等三藩は権田村における実地検分の結果を総督府に報告して、小栗追討の赦免を要請したところ、西軍の軍監原、豊永等は激怒して「小栗が如何様謝罪恭順しても許さぬ。斬らねば三藩も同罪である」と恫喝した。やむなく原保太郎指揮にて再度出兵、小栗主従を捕縛して斬った。又一主従は助命してやりたく奔走したが、これも許されなかった。このように、小栗は、西軍の報復的行為により、非業の最期を遂げたのである。                                

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「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第5回

  今回は、小栗上野介が近代化構想を打ち立てるきっかけとなった遣米使 節としてのアメリカ派遣や世界一周についてご紹介します。 
 
 
 「遣米使節、世界一周の旅」 
 
  安政6(1859)年、小栗は井伊大老に抜擢されて、日米修好通商条約の批 准書交換のため、目付(監察官)に命ぜられた。小栗がいよいよ歴史の舞台に登場するのはこの時からであった。この抜擢人事は、井伊大老が自分の目玉がわりになる人物として人選したものであった。 
 
  使節の一行は、正使新見豊前守、副使村垣淡路守、監察小栗豊後守で、随行員をあわせて77名であった。小栗の従者は9名で、この中にただ一 人農民である権田村の名主佐藤藤七が随行している。彼が渡米中の様子を書き記した「渡海日記」が保存されている。 
 
  安政7(1860)年1月、築地講武所から米軍艦ポーハタン号に乗船し、ハワイ、サンフランシスコと巡り、パナマ地峡を汽車で大西洋へ出て首都ワシントンに到着、ここで大統領に謁見し、国書の奉呈、条約批准書の交換を行った。さらに使節の一行は、海軍造船所、金貨製造所などを見学して、帰路は大西洋を横断、喜望峰をまわり、バタビヤ、香港、横浜、品川到着まで全日数約9カ月、地球一周の旅であった。 

  使節の一行は、アメリカ各地で熱烈な大歓迎を受けた。一行は多くの文物に触れ、生活様式などの違いから、いろいろなエピソードを残している。使節の中で最も注目を浴びた小栗を「小柄であるが、生き生きとして威厳と知性と信念が不思議にも混ざり合っているシャープな男」といい、また「日本使節のブラック判事」というニックネームがついたほどであった。 
 
  使節一行はワシントンの造船所を視察した。これは、小栗にとって近代化の道を開く大きな収穫であり、激動の対外情勢に明け暮れた日本の将来 を考えての実地調査であった。 
 
  また一行は、小栗の発意によりフィラデルフィアの金貨製造所を見学した。ここで驚いたことは、金と銀の比値が日本とだいぶ違うことであった。「これは大変なことである。このままで外国と貿易をしたら日本はたちまち金が海外に流出してしまい、日本経済はますます苦しくなる」と、小栗は早速通貨の分析実験を要求した。アメリカ側は分析には相当の時間がかかるといって小栗を説得したが、小栗は「ノー、どれだけ時間がかかっても結構・・・」といって動かなかった。アメリカの新聞はこのことを「・・・それは呆れる程の忍耐心であった」と報道し、自分の考えを「イエス」「ノー」と堂々と主張する小栗を高く評価したのである。 
 
  小栗はアメリカから洋書や地球儀、科学器械などをおみやげとして買い入れてきたが、「私にとって一番の収穫は、遠くから小さな日本を見直すことができたことだ。それによって自分自身も知ることもできた」と地球儀を眺めながら家族や友人に語ったという。 
 
  小栗が世界一周の旅で見聞したものは、それは遅れている日本の近代化を急がねばならないことを認識させられたことであったといえよう。                                   

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「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第6回

 今回は、横須賀製鉄所建設の背景についてご紹介します。 
 
 
  「横須賀製鉄所の建設」 
 
  遣米使節の一行が任務を果たして帰国したとき、彼らを送り出した井伊 大老は桜田門外で暗殺され、情勢は大きく揺れ動いていた。時勢は、小栗という人物を必要としていたのである。 
 
  福地源一郎は「幕末の政治家」の中で、「小栗が遣米使節から帰国した時は国内は攘夷論が花盛りで、だれ一人として開国論を口にする者はいなかった。小栗はただ一人はばかることなく、アメリカの文物の優れた点を 説明し、日本においても政治・軍事・経済な どの面で、欧米を模範としてこれからの日本を改革しなければならないことを論じ、幕閣を驚かせた」といい、その信念と勇気を讃えている。 
 
  帰国後の小栗にとっては、幕末激動の時代を駆け抜けた8年間であったといっても過言ではない。堂々と直言し、正義を主張する小栗にはその重要さを知りながらも、幕閣には困ることが多く、免官しては再び重要なポストに就かせざるを得ない人物だったのである。 
 
  外国奉行に任ぜられた小栗にとって、大きな試練が待ち受けていた。攘夷運動が高まる中でのアメリカ公使館通訳ヒュースケン殺害事件、東禅寺事件、さらには生麦事件などが起こり、小栗はその解決にあたった。 
 
  また、ロシア軍艦が対馬を占拠した対馬事件があった。外国奉行である小栗は対馬に急行してロシア艦長ビリレフに会見し、命がけの交渉をしたが決裂し、小栗は断腸の思いで対馬を去り、外国奉行を辞した。そして、無法なロシア艦隊を退去させることができないことに言い知れぬ侮辱と怒りを感じたのである。小栗はこのままでは世界列強の国々の侵略から日本の独立を守り抜くことはできないと考え、これが横須賀製鉄所の建設のきっかけともなったのである。 
 
  元治元(1864)年、小栗が軍艦奉行になると、かねてから念願であった製鉄所(造船所)を建設する構想が立てられた。小栗の盟友で親仏派の栗本瀬兵衛(鋤雲・じょうん)の仲立ちによって、仏人ロッシュとカションとの交渉に成功し、日仏提携による製鉄所建設計画が進められるのである。 
 
  まず、製鉄所(造船所)をどこに建設すべきかが検討されたが、調査・測 量の結果、海湾の形態や海の深さが最適で、フランスのツーロン港以上の適地であるとして横須賀に決定した。そして仏人技師ヴェルニーを招聘して横須賀製鉄所の建設が本格的に行われた。 
 
  一般に横須賀製鉄所というが、製鉄、造船、大砲などの兵器も造る総合的な工場で、製鉄所1カ所、ドック大小2カ所、造船所3カ所、そのほか兵器廠が造られることになった。 総工費240万ドル、工期は4年間で慶 応4年の完成予定であった。これは、当時として東洋一の大工事で、近代 日本の曙ともいうべき画期的な事業であった。

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「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第7回) 

 今回は、日本の近代化に向けた小栗上野介のさまざまな業績についてご紹介します。 
 
 
  
「日本の近代化のレールをしいた8年間」 
 
  横須賀製鉄所の建設について幕府の内部や外部からも激しい反対論があった。「フランスに依存するとは何事だ」「フランスに身売りするつもりか」など内部からの攻撃があった。 イギリス公使は「日本にそんな大きな 工場はできるはずがない」と批判し、薩長も幕府に猛反対したのである。 
 
  小栗はこのようなことには一切耳を貸さなかったが、親友の栗本が経費のことが心配になり小栗に尋ねると、「今の財政は全くやりくりの経済である。この計画を起こさなくても、その予算が他に流用できるというものではない。ぜひ必要なドックを造るんだと言えば、他の冗費を削る口実となってよい。この造船所が一旦できてしまえば、幕府の政権を他に譲る事 態になっても、その持ち主に熨斗(のし)をつけてやっても、土蔵付きの売り家の栄誉ではないか」と述べたという。小栗の心中は、この製鉄所が日本の近代化に大きな役割を果たすであろうと考えていたのである。 
 
  日本海海戦の名将東郷平八郎は、明治44年、小栗の遺族を招いて「日 本海海戦で勝利を得たのは小栗さんのお陰である」とお礼を言い、「仁義 禮智信」の書を贈った。その額は倉渕村東善寺に所蔵されている。 
 
  歩兵奉行を兼務していた小栗は栗本らと協力して洋式陸軍を創設した。歩兵、騎兵、砲兵の3つの機能分担を行い、それぞれの目的にそって訓練を実施させるなどの改革を行い、日本の近代陸軍の原型をつくった。 
 
  また小栗は、仏人ロッシュの勧めで、横須賀製鉄所の建設や陸軍訓練士 官をフランスから招いたため、これに携わる日本人のフランス語学習のためにフランス語学校を設立した。 
 
  小栗は優れた経済人でもあった。特記すべきことは、日本最初の株式会 社である「兵庫商社」の設立である。安政の開港以来、日本貿易の利益は 外国商人によって独占されてきた。勘定奉行であった小栗は「コンペニー」の創設を建議した。幕府は小栗の財政・通商・産業政策について抜群の能力を期待していたので認められ、早急に実現することになった。 

 
  この商社は、単なる一株式会社というよりは「日本株式会社」の原型であると言われ、貿易のみならず、小栗の将来の構想計画にあったガス灯の設置、郵便制度及び電信事業、鉄道の敷設、新聞発行計画などの実現に多 額の建設資金を必要とすることから生まれたものであるという。 
 
  このほか、滝野川火薬製造所及び反射炉の建設、小石川大砲製造所の建設、湯島鋳造所の改造、小坂鉄山(現在の群馬県下仁田町)の試掘などの業績があげられる。まさに、小栗は日本の近代化構想を先取りした開明の人であった。                   

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「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第8回

  今回は、小栗上野介の業績などを顕彰した経緯についてご紹介します。 
 
  「日本近代化の恩人―顕彰のあゆみ」 
 
  横須賀造船所は工事の途中で明治維新を迎え、工事中の施設はフランス 政府への借金とともにそのまま新政府に引き継がれた。朝廷の公卿(くげ) の中には造船所などいらない、という乱暴な意見もあったのを大隈重信らが押えて工面して借金を返し、工事が続行されて明治2年から各部門が順次完成、製鉄・造船を開始していった。 
 
  大正4年9月27日、横須賀海軍工廠(かいぐんこうしょう)創立50周年祝典が行われ、総理大臣大隈重信の代理が「この造船所は幕末に小栗上野 介の尽力により・・・」と語って、塚越停春楼(芳太郎・烏渕村〔うぶちむら・倉田村と合併して現在の倉渕村〕出身の文筆家)による資料『小栗上野介末路事蹟』が配られ、初めて小栗の幕末における業績と非業の死が公式に伝えられた。 
 
  祝典のあと、「このまま黙って使っていては申し訳ない」と工廠の職工の間から小栗とヴェルニーの銅像建設募金運動が始まり、貞明皇后の御手 許金も加えて朝倉文夫が制作して大正11年に除幕され、以後毎年横須賀市 の恩人として顕彰式典が継続されている。 
 
  同じ頃から小栗への贈位運動が興り、市川元吉倉田村長や大森群馬県知事等も含めて皇室の慶事ごとに大正初年から昭和19年まで幾度か請願があったが、薩長政府の流れを継ぐ政府の認めるところとならなかった。これについて小栗貞雄氏(遺児国子の夫)は「人間の価値は人爵ではなく天爵にある。・・・正六位とか従五位とかの贈位をしてはかえってその人の価値を下げ、侮辱したようになるのではないか」と述べている。 
 
  戦後になると政府がつけた位ではなく人物そのもので判断するという風潮により、「殺した薩長側より低い位をつけられなくてかえって幸いだった」と喜ぶ声がある。 
 
  昭和7年、倉田・烏渕村の有志がはかって募金し、殺された水沼河原に法学博士蜷川新(にながわあらた・小栗の義甥)の書による顕彰慰霊碑「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」が建立された。「罪なくして」とあることで、官憲からのクレームがついたのをきり抜けて建てられた経緯もあり、碑文を選んだ当時の村人の気概が感じられる。 

(小栗上野介顕彰会・東善寺住職 村上 泰賢) トップへ


「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第9回

  今回は、小栗上野介亡きあと、村人がとった行動についてご紹介します。 
   
  「小栗上野介の亡きあと」 
 
  小栗道子夫人、母堂邦子、養女で又一の許婚鉞子(よきこ)たち江戸から 来ていた女性は、上野介が殺される三日前に村を脱出、中島三左衛門を中 心とした護衛隊の村人に護られ、吾妻〜六合村〜秋山郷〜十日町〜新潟へ 脱出した。はじめての妊娠中だった道子夫人にとって、追われる身での険 しい山越えは、苦難の旅であった。 
 
 新潟は上野介の父忠高が新潟奉行として赴任中に病死したところで、法音寺に墓がある。邦子にとってはじめての墓参をはたすと、新潟から会津 藩に迎えられ会津若松に入る。まもなく始まった会津戦争で村人は何人も会津軍とともに戦い、「三国峠に小栗の残党二千人が立てこもっている・・・」と東京で大げさなうわさになったりした。 
 
  結局、若者二人を戦死(高郷村・喜多方市)で失う。その戦争さなかに道子夫人は女児を出産、国子と名づけた。敗戦後の会津で苦しい冬を越すと、早春に会津を出て遺児も含め4人の女性を護って東京へ至り、静岡まで送り届けて村人は村に戻った。 
 
  戻ってみると、小栗父子の首級は館林に運ばれて首実検され、館林に埋められたままだった。

 中島は塚越房吉とともに館林へ行き「一周忌が近い ので墓を建てたい」という触れ込みで法輪寺を訪れ、苦心の末盗み出して権田に戻った。又一の首級は、遺体を引き取った下斉田村(高崎市)の名主を呼んで渡し、一緒に葬ってもらった。 
 
  会津脱出の護衛も、館林の首級奪取も無償の行いで、小栗上野介の顕彰活動はこのことから始まったといえよう。ボランティアの語源は義勇兵だという。いま村にお見えの方に胸を張って小栗上野介の業績をお話しできるのは、上州人の義侠心による護衛ボランティアが根底にあるからで、無 形の財産といえる。 
 
  気の毒なのは用人塚本真彦(まひこ)の家族で、真彦はやはり世界一周した人物だが、又一とともに高崎で殺され、家族は村を逃れて七日市藩(富岡市)をめざす途中で道に迷い、祖母と孫娘は山中で自害した。近年、妻が幼女二人を川に沈めて、跡取りの男の子だけ背負って松井田に現れた史実が判明した。いま相間(あいま)川のほとりに幼女二人をかたどった「姉 妹観音」像を建立し、慰霊を行っている。

 (小栗上野介顕彰会・東善寺住職  村上 泰賢) トップへ


「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」(第10回

 最終回の今回は、小栗上野介の財政手腕などについてご紹介します。 
 
 
 「真の武士」 
 
 小栗が権田へ移ってきた時から、多額の軍用金を持ち込んだといううわ さがつきまとった。二千七百石の旗本の家財道具に、家臣の家財、学校を 開いて教育に当たろうということで持ちこむ器材もあったから、それらが運ばれるたび道中筋の関心を引き、根拠のない軍用金話がささやかれた。小栗を襲った暴徒もこの話に飛びついて押しかけ、追い払われた。 
 
  幕末の幕府財政は、軍艦購入、洋式陸軍の訓練とそのための装備購入と仏人教官の雇入れ、パリ万博への出品と代表派遣、和宮降嫁、相次ぐ外国人殺傷事件や外国船砲撃事件の賠償金支払い、長州征伐・・・と支出多端を極めた。 
 
  「幕府が末路多事の日に当りて如何にしてその費用の財源を得たりしか は、ただに今日より顧みて、不可思議の思いを成すのみにあらず、当時においてもまた幕吏自らが怪訝(けげん)したるところ・・・」で「その経営 を勉め、あえて乏を告げることなからしめたるは、実に小栗一人の力なりけり」(福地桜痴『幕末政治家』)。 
 
  小栗は自らつけていた家計簿の表に「(財源の)入るを量って、出るを制 する」という意味の「量入制出簿」と書いているほどで、幕府財政につい ても冗費節約を旨とした引き締めを行った。「小栗は財源を諸税に求め、或は厳に冗費を省きてこれにあて・・・」たが、そのために既得権益を奪 われた幕府内俗吏の恨みもかっていった。そして財源を生み出す手腕を発揮して、「未だかつて財政困難の故を以て、必要なる施行を躊躇せしむることなかりけり」(福地桜痴『幕末政治家』)と不思議がられた。 
 
  横須賀造船所建設費に毎年60万ドルかかる計算が出された時、「いま国 費を無用に使い果たすよりは、むしろ不朽の事業を起して、幕府が一日で も存在するその責任を果たすべきだ」(栗本鋤雲『匏庵遺稿』)と語った。 
 
  こうして日本近代化のレールを敷いた小栗上野介は、自己宣伝も言い訳 もせず、黙々と当事者責任を果たして死んでいった。その心の奥には何があったろう。ここに小栗上野介の語った言葉を紹介して締めくくりとしよう。

 「親の病気が重く、もう直る見込みがないからといって、薬を与えな いのは孝行ではない。国が滅び、自分の身が倒れるまでは公務に尽くすのが、真の武士である」(福地桜痴『幕末政治家』)

(小栗上野介顕彰会・東善寺住職 村上 泰賢) トップへ