小栗上野介随想(東善寺)  ●小栗上野介の株式会社ー交易でで国民利福 


小栗上野介の株式会社
交易で国民利福を考える
「日本最初の株式会社は坂本竜馬の海援隊と思っていたら、小栗上野介のほうがもっと早くに株式会社を作っていた。しかも定款や役員までそろっていた」と、経済学者の坂本藤良氏は語って東善寺で調査してゆかれ、好著『小栗上野介の生涯』を刊行された。

上野介が株式会社の組織を理解したのは、万延元年(一八六〇)、遣米使節として渡米の時だった。パナマでポウハタン号を降り、大西洋側へ出るために汽車に乗った。まだパナマ運河はなかった。

六年前の嘉永七年、ペリーが二度目の来航でお土産にした模型を横浜の海岸に敷いたレールで走らせたから、日本人は汽車の存在は知っていた。しかし、実際に乗るのは皆初めて。「速くて草木の見分けもつかない」「音がうるさくて、隣と話もできない」と驚いた様子が、従者の記録にある。

パナマで乗った汽車は会社組織の経営だった。
(『小栗忠順従者の記録』より)
この時上野介の関心は、速さや音よりも鉄道建設の経費とその調達方法にあった。「総費用七百万ドル、富裕の者から借り受けた出資金で建設し、利益から出資高に応じて年々割り戻してゆく」という説明を聞いた。日本人がコンパニー(株式会社)の組織を具体的に目にし、理解した場面である。  
慶応三年、上野介は日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立した。建議書にこうある。
「こんど、兵庫(神戸)を開港するについて、これまで長崎横浜を開いてやってきたが、西洋各国が港を開いて国の利益を得ているのに反し、日本は開港するたびに国の損になっている。これは商人組合のやり方をとらないで、薄元手の商人一人一人の損得で貿易を行ない…薄元手の商人が互いに競争で外国商人と取引するから元厚手の外国人に利権が取られてしまう。」  

「これは商人一人の損失ばかりか、けっきょく国の損失になり、ついに全国の利権を失し、外国商人のために蔑視され、…」てしまう。だから「外国人と取引するには、外国交易の商社(西洋名コンパニー)のやり方に基かなくては、とても国の利益にはならない」。

そして、コンパニーの利潤をもってガス灯や書信館(ポストオフィシー・郵便局)、鉄道の設置をすれば、国にとっての莫大な利益になると提議する、画期的な上野介の構想であった。  

北斎の天井絵「鳳凰」で名高い岩松院の境内の頌徳碑には、小栗上野介の名も刻まれている。

北信州の小布施町でも、晩年の葛飾北斎を江戸から受け入れたことで知られる豪農商の高井鴻山が、上野介から株式会社設立の示唆を受けた。信州と越後の人材と財力をもって船会社を興し、地域の産物を交易することが、産業を振興し国民利福の道につながると考え、鴻山は松代藩へ建議書を提出して、設立準備をすすめた。  

しかし、明治維新によって兵庫商社は約半年の活動で解散し、鴻山の計画もむなしい夢と消えた。北信州で、上野介の構想に呼応して国の将来を考え、株式会社によって国民利福の道を開こうとした鴻山と上野介のつながりは、小布施町岩松院境内のに刻まれている。
  (2000平成12年11月11日上毛新聞オピニオン)