小栗上野介随想 (HP東善寺) ●● 「長州ファイブ」が何をした |
長州藩留学生5人「長州ファイブ」が何をした 「明治日本の産業革命遺産」を検証するへ |
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「長州ファイブ」を異様に持ち上げる風潮 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近年、幕末にイギリスへ留学した攘夷派長州藩の若者5人を「長州ファイブ」と名付け、「国禁を犯し、命を賭してロンドンへ渡った」(下記のパンフレット写真説明文)彼等が明治の近代化に貢献したから日本の近代化が進んだように、異様に持ち上げる風潮が見られ、教科書の副読本にまで入りはじめている。 工業分野で見る以下の例、 例:2015年認定の「明治日本の産業革命遺産」パンフレット 冒頭第1ページに ▲パンフレット「明治日本の産業革命遺産」表紙 ▲冒頭 第1ページに上記▲の5人が入っている (左上から時計回りに遠藤謹助・井上勝・伊藤博文・山尾庸三・井上馨 ) このパンフレット第1ページトップに「長州ファイブ」を入れる構成で、いかにも彼らが日本の近代化を牽引し「明治日本の産業革命」がなされたように錯覚させる構図となっている。 *上記パンフレットは税金で作られているらしい。 ■基本的に、この世界遺産にしてしまった「明治日本の産業革命遺産」なるものには、「産業革命のための努力遺産」程度のものがたくさん含まれている。さらに見当違いなもの(萩城下町・松下村塾・グラバー邸)までこじつけて混ぜ込んでいる。 「萩の城下町」があって「松下村塾」があったから「長州ファイブ」が生まれ日本の産業革命が起こった、というストーリーを定着させたい意図が透けて見える。 →下部の「明治日本の産業革命遺産を検証する」参照 念のためご確認ください ▼ ▲歴史教科書副読本にも「長州ファイブ」が入っている /「幕末の科学技術と文化」としながら横須賀造船所は入っていない(明治以後にももちろん載せていない)。/咸臨丸の「絵」が掲載されているが、遣米使節の「ワシントン海軍造船所見学の写真」は載せていない/ 山川出版社『日本史図録』 ■「産業革命は蒸気機関の利用」からとする中学生以来の常識はこの世界遺産パンフレットでは通用しないから、原動力は「水力」が多く、「足踏みフイゴ」まである. 蒸気機関の使用で早いのは長崎の小菅修船場(船を引き上げるための動力で、モノづくりではない)だけが明治元年、ほかはすべて明治30~40年代。このままでは「日本の産業革命は明治30年代からでいいんですか」という疑問や誤解が生まれることだろう。 *ただし、パンフレットには施設ごとの「原動力は何か」が書かれていないから、それを私見で補った →下部の「明治日本の産業革命遺産を検証する」を参照されたい。 |
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例:桜木町駅南口「旧横浜鉄道歴史展示」 南口を出て左、交差点を渡ったビル「CIAL」1階【旧横ギャラリー】 ▲汽車が展示され、、鉄道関連の展示も圧巻 ▲汽車の裏側壁面左に、小栗上野介の業績紹介も 右奥になんと▲「長州ファイブ」が ■上記「長州ファイブ」の解説 1863文久三年にイギリスに「国禁を犯して密出国で留学した長州藩士」が欧州で近代工場を 「見学したと思われる工場」と説明している。「と思われる」で済むなら、なんでもアリとなる(そういえば太平洋戦争末期の大本営の戦果発表によくあった)。 ■彼等がイギリスで近代工場を「見学したと思われる」ころ、すでに3年前に遣米使節から帰国した小栗上野介ら開明派の幕臣は、ワシントンで見学した総合工場である「造船所」を建設すれば日本も近代化のスタートを切れると確信、その建設を強く提案し続け、2年後(1865慶応元年九月)の横須賀製鉄所(造船所)着工にこぎつけている。 ■横須賀に大きな川はない。 仏人技師長ヴェルニーによって初めから全ての工場が蒸気機関を原動力とする横須賀製鉄所の工場群が設計・発表されたとき、「蒸気機関は石炭を買わなければならないからカネがかかる。なぜ安く使える水力を使わないのか」という異論がでなかったのは、遣米使節の旅で多くの幕臣たちは、ワシントン海軍造船所の見学を始めたくさんの工場施設を見学して、近代産業の根幹が原動力蒸気機関に支えられていることを承知していたから。 出来上がった工場群の経営もフランス人に任せてその指導を受け、慶応年間から順次稼働を開始し、日本人がフランス式の勤務形態・作業経営に合わせて就業して、横須賀製鉄所(造船所)は日本産業革命の地となっていった。 |
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「長州ファイブ」に尊皇攘夷のテロリストが三人(伊藤博文・山尾庸三・井上馨) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ 「長州ファイブ」メンバーの伊藤博文・山尾庸三(放火・殺人)と井上馨(放火)は尊皇攘夷運動による放火・殺人をしたあと、半年後に密出国している。 1,放火 1863文久二年十二月十二日、品川御殿山に建設し完成間近のイギリス公使館に攘夷派長州藩士が放火焼失させている。隊長:高杉晋作 副将:久坂玄瑞 火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎 護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三ら 2,殺人 9日後、伊藤博文・山尾庸三の二人は今度は盲目の大学者・塙はなわ保己一ほきいちの息子で学者の塙次郎忠宝ただとみを暗殺した。1863文久二年十二月二十一日、二人は帰宅途中の塙次郎と同行の知人加藤甲次郎を襲って殺害 こちら:伊藤博文、九段坂付近で塙次郎を暗殺 塙次郎が寛永以前の外国人待遇の式典を調べていたのを、孝明天皇の廃位を図って「廃帝」の先例を調査している、との噂による誤解が原因だった。 ■しかも暗殺実行の数日前に二人は「国学入門」と称して塙次郎を訪ねて面談、顔を覚えて殺人を実行、という念入りな確信犯のテロだった。なぜ訪ねたときに噂はほんとうかと質問しなかったのだろう。攘夷派は「尊皇だ」「攘夷だ」と振りかざせば「何をしても自分たちは正しい」という傲慢な意識を育て、それが明治以降の官軍意識につながったのではなかろうか。 ■上記「世界遺産」パンフレットでは「国禁を犯し、命を賭してロンドンへ渡った・・・」と彼らの悲壮な状況を強調して紹介しているが、「国禁」以前の基本として人としてやってはいけない殺人を軽率に意図して念入りに犯した二人が、「命を賭してロンドンへ渡った」と独りよがりの記事で紹介されても、殺人を犯したテロリストも自分の命は惜しいのかとシラケル。とても教科書や副読本で「長州ファイブ」などと紹介できる人物・行いではない。 *上記、桜木町駅南口「旧横浜鉄道歴史展示の紹介文「国禁を犯して密出国」は、「明治日本の産業革命遺産」パンフレットを下敷きにしたのであろうか。 *参考:HP「武将ジャパン」渋沢栄一と伊藤博文はテロ仲間/礫川全次HP「礫川全次コラムと名言ー伊藤博文九段坂付近で塙次郎暗殺」 3,汚職の井上馨 明治初年に南部藩が持っていた尾去沢銅山を大蔵大輔タイフであった井上は不正な手段で私物化し、後に「尾去沢銅山事件」といわれる事件を起こした。貪官汚吏タンカンオリの権化のような人物といわれる。私物化した銅山を同郷の岡田平蔵に不当に格安値段と条件で払い下げるのに、井上馨に頼まれた工部小輔の山尾庸三が手を貸している。 |
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攘夷派長州藩の裏切り行為 外国船砲撃攘夷決行の二日後に英国留学へ密出国 |
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■ 尊皇攘夷を唱えてテロ行為を繰り返し倒幕運動を進めていた長州藩は、1863文久三年五月十日関門海峡でアメリカの商船、二十三日フランスの商船、二十六日オランダの軍艦をいきなり砲撃した。後に4カ国艦隊に報復攻撃されて完敗し、賠償問題となった時長州藩は、幕府が「攻撃された場合は反撃してよい」と専守防衛を条件としていたことを隠し、「幕府の命令でやった」といい抜けて賠償責任を逃れている。 外国船砲撃の二日後、長州藩士の若者5人は五月十二日に横浜から密出国している。乗船を援助してくれたのは英国総領事ガワー、乗った船はジャーディン・マセソン商会の英船、攘夷派のはずの彼等の留学先は英国、とイギリスづくし。 前年十二月に攘夷行動としてイギリス公使館建物に放火し焼失させておきながら、半年後にこんどはイギリスにおんぶにだっこされて、英国の船に乗って英国へ行くことの矛盾をなんとも思わなかったのだろうか。 ■過激な攘夷運動をしていながら、そのウラでは攘夷の対象であるはずのイギリスへ学びに行くという、裏切り行為。このような「攘夷は看板だけ、実態は政権奪取」というやり方だったら、2022令和4年に社会問題となった、「宗教・平和を看板にしながら実態は詐欺行為」の新興宗教「旧統一協会」と共通するやり口と見える。 |
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山尾庸三は工部大学校設立 で「工学の父」とか でも現場実習の単位は横須賀造船所で実習・取得していた |
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山尾庸三は帰国後に工部大学校(のち東京大学工学部)の設立に寄与したとして一部では「工学の父」だとしている。 ■でも、その東京大学工学部学生は卒業必須単位の現場実習単位を取得するために、(西軍=明治新政府軍=薩長軍 によって殺害された)小栗上野介が生前に遣米使節から帰国後ずっと建設を提議・推進して完成した横須賀造船所での現場実習が義務付けられていた。「いいとこ取り」だけしていたことになる。当時、日本にこれほど完全な設備を備え、出来上がった工場ごとに慶応年間から稼働していた=初めから蒸気機関による近代工場群は他になかった。当時の日本で最高の実技習得ができる総合工場だった。 ■明治維新を無条件に賛美する作家司馬遼太郎さえも、晩年に気がついて「横須賀は日本近代工学のいっさいの源泉」(「街道をゆく・三浦半島記」)と認めている。 |
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「長州ファイブ」語源はロンドンの大学の石碑 というが | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そもそも「長州ファイブ」なる名称の語源はロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)構内の長州・薩摩留学生記念碑にあるという。その碑の表面はすべて日本語が刻まれ 裏面が英文という石碑はどう見ても、日本で製作して持ち込んだと見えるシロモノ。もしロンドン大学主体で薩長の日本人聴講生のためにこのような石碑を作るなら、他の国からも同程度の留学生がたくさんいて帰国後に各国で活躍しているはずだからほかの国の石碑もいっぱいありそうなもの。そう考えると、日本で作成し、かなりのお金を使って大学当局に建立を認めさせたことがうかがわれる。 伊藤博文と井上馨は、4カ国艦隊による報復攻撃の準備に驚き、「長州の攘夷運動を鎮めなければ、長州は潰される」とわずか6ヶ月後には帰国しているから、英国でさほど目立っていた留学生とも思われない。 自作自演の石碑を根拠に映画「長州ファイブ」を作り、高校中学の歴史副読本やパンフレットに登場させて、彼らが日本の工業近代化を牽引したと錯覚させるようシナリオを指導した人物、それに忖度迎合した人物、資金を提供した人物は誰だろう。 |
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横須賀製鉄所(造船所)の史実を曲げて長州ファイブを持ち上げるHP | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「横須賀製鉄所は明治初年は使われていなかった」!? というHP ◆HP「さくらのレンタルサーバ 長州ファイブ 工業の父 山尾庸三」で 「(山尾庸三は)横須賀製鉄所に移りましたが、旧幕府がフランス人技術者に造らせたこの製鉄所は、当時は使われていなかったので、木戸(孝允)がその再生事業に山尾を起用したのです。山尾はそこで船の建造や修理用のドックを造る事業を立ち上げました 」 HP「長州藩の歴史」 ◆HP「北山敏和の鉄道いまむかし」 …が上記を引用したらしく 「この製鉄所は、旧幕府がフランス人技術者に遣らせたものだったが、幕府が倒れた後は使われていなかった。そこで孝允が再生するために庸三を起用した」 ・「長州ファイブ」なる5人を異様に持ち上げる風潮の一つ。小栗上野介が「いずれ土蔵付き売り据えになる」、後世の政府が役立てればいいと提案し建設した横須賀製鉄所(造船所)の史実を曲げ、「使われていなかった・再生する」とおとしめてまで山尾庸三を誇張称賛している。明治政府が何でも近代化に貢献した(=幕府は遅れた政治だった)、との薩長史観の典型例。放っておくと、いつの間にか蔓延するので指摘しておきます。 【注】横須賀造船所は慶応元年に着工し、慶応二年頃から完成した工場ごとに順次すべて蒸気機関で稼働していた。「使われていなかった」は虚説。第1号ドックは慶応三年に掘り始め、山尾が着任した明治三年にはすでに完成間近の工事中で、翌四年に完成している。山尾が介入する余地はなかった。「船の建造や修理用のドックを造る事業」は小栗上野介ら幕臣が手掛けて出来上がったのが、横須賀造船所。「山尾が・・・立ち上げました」などと成果を「長州ファイブ」が横取りしてはいけない。 ちなみに ◆こちらHP「NHK解説委員室」では 「(山尾庸三は)幕府がフランスの協力を得て建設していた横須賀造船所を担当し、留学で身に付けた造船技術が活かせる立場になりましたが、実際はフランス人お雇い外国人の力が強く、期待された活躍はできませんでした。」 と冷静な記述をしている。 横須賀造船所の首長ヴェルニーは「国立造船所の試験を経て、現場経験3年以上」の力量があるフランス人技師・職工を精選して日本に連れてきている。イギリスの造船所で見習工をした程度の山尾が入っても話にならなかったということ。「フランス人お雇い外国人の力が強く」は勢力争いではなく、現場で「高等数学を駆使する仏人・日本人技師たちの力量・経験・判断力に敵かなわなかった」から活躍できなかったということだろう。 |
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日本の近代化を遅らせた攘夷運動 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■1860年秋に万延元年遣米使節一行が帰国した時、既に井伊大老は水戸浪士に暗殺され、日本中が攘夷の風潮に染まっていて、攘夷でなければ武士の風上に置かれない空気が充満していたから、使節団一行の者はうっかり渡米の見聞や西欧から学ぶべきことを自分からは語れない雰囲気だった。 *そういう風潮の中で「小栗一人はばかることなく米国の進んだ文明の見聞を説き、政治・軍備・商業・産業については外国を模範とすべき、と遠慮なく論じて幕府のものたちを震え上がらせた」(福地源一郎『幕末政治家』) ■水戸斉昭の攘夷の程度 ところが尊王攘夷運動の総本山と言われる水戸の德川斉昭は、攘夷について福井藩主松平春嶽(慶永)に下記のような手紙を送っている。 「外国人交際の道、最宜敷事にてはなし、乍併(しかしながら)、今の時世いかんともすることあたはず、貴君(慶永)には、御少年之義にも候故、以来の御心得に可申候。とても攘夷など被行候事は難出来、是非交易和親の道、可相開、其時は御尽力被成候がよろしく候。斉昭老年也、攘夷の巨魁にて、是迄世を渡り候ゆへ、死ぬまで此説は不替心得なり。貴君へ此事申入る」(松平春嶽『逸事史補』) (上記の現代語訳:外国人との交際はよいことではない。しかし今の時世ではどうにもできない。あなたはお若いことだから、今後のために申し上げます。とても攘夷などできないから、交易と和親の方策を建てるのがよい。その時は努力されたらいいでしょう。自分は老年だから、これまで攘夷の巨魁として世を渡ってきたので、死ぬまでこのままでゆきます。貴君にこのことをお伝えします。意訳:村上泰賢) ■なんとも呆れた手紙と言ってよい。水戸藩は過激な尊王攘夷論を振りかざす改革派家臣と、過激な尊王攘夷論では水戸徳川家が幕府によってつぶされかねないとする保守派の家臣とが、互いにしのぎを削って藩内を二分し、やられたらやり返す血で血を洗う藩内党争が繰り広げられた。その結果明治維新の頃には見るべき人材は払底していたと言われる。その根本原因を作って烈公と呼ばれた当主斉昭がこのような不毛・不誠実、かつ無責任な人であったとは、呆れるしかない。水戸を震源地とした不毛の尊王攘夷運動で理不尽に殺し殺された、外国人を含めたくさんの人々の霊は浮かばれない。*不毛とは・・・明治維新以後は、明治政府を筆頭に誰も攘夷を言わなくなったことをいう。政権を奪うための看板に過ぎなかったとわかる。当面の外国人を排除するのを「小攘夷」、とりあえず外国の技術を取り入れて国力をつけた後に外国勢力を排除するのが「大攘夷」とする屁理屈もある。もしその「大攘夷」思想で太平洋戦争を行ったと言うなら、結果は明白に出ているということになる。「尊王攘夷」をスローガンにした倒幕~明治政府設立が~昭和20年敗戦の源となる。 |
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これでいいのか「日本の産業革命遺産」 「明治日本の産業革命遺産-製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業-」 を検証する |
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安倍内閣政府が推進し世界遺産となった「明治日本の産業革命遺産」の23の施設を検証すると、中学生が教えられる「蒸気機関の使用から産業革命」という定義に当てはまらない施設がたくさんある。 1,原動力を蒸気機関 とする施設を見るとわずかに「17 明治元年 高島炭坑」「12 明治元年 小菅修船場」だけ早期性がある。「小菅修船場」はモノづくりではなく修理のための船曳き揚げ動力だけに使われたから、産業の外縁施設。残りはすべて明治30~40年代である。日本の近代産業はそれほど遅く始まったのかと外国人もびっくりするだろう。 2,蒸気機関でないもの 「3 原動力足踏みフイゴの大板山たたら製鉄遺跡(萩)」、水力が原動力の「1 萩反射炉」「6 旧集成館反射跡(鹿児島)」「9 韮山反射炉(静岡)」「10 橋野鉄鉱山高炉跡(岩手)」など 3,論外・不適切な施設 「4 萩の城下町」、「5 松下村塾(萩)」は塾生が石炭掘りでもしていたというのか。「19 グラバー邸(長崎)」は元武器商人の屋敷跡のはず。論外とこじつけの「産業革命遺産」で、これでは審査したユネスコの認定作業自体が疑われる。 そして、これらの施設に「長州ファイブ」がどう関わったというのだろう。 |
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