雨さん ●● 滄野(そうや)の碑 |
滄野の碑(そうやのひ) |
海の果てに散った弟と敵味方の兵士を悼(いた)む碑 |
花が咲いた のの花が 滄野に散った 兵士還らず |
(裏の碑文には) 弟勇二君と彼我(ひが)の将兵の死を悼(いた)みて |
*滄野(そうや)…青い海原のこと。 *「彼我」とは敵と味方のこと。ニューギニヤの山中で戦病死した弟や味方ばかりでなく、敵の兵士も含(ふく)めて慰霊(いれい)する碑です。 *石碑は、「雄二君と遊んだサザンカの白い花びらの形」とのこと *平成7年秋、雨さんの申し出により渋川市の雨さん宅の庭から東善寺境内へ移転設置。 |
■油絵具のセット どうして絵を描きつづけてきたのですか、と聞く私に雨さんは「弟のおかげです」という。 二人とも小学校中退で、東京で丁稚(でっち)小僧をしていた。ある時弟が「兄ちゃんは絵が好きだから…」と、サクラ絵具の油絵具セットを一箱買ってきてくれた。 「それはよかったですね・・・・・・」 雨さんは 「いや私は恥ずかしかった」 という。 「弟は働いたわずかなお金を一年間貯(た)めて、私のために絵具を買ってきてくれた。同じくらいのお金を働いて、私は自分のためにうまいものを買って食ってしまっていたから恥ずかしかった。それで…絵をやめるわけにゆかなくなったのです…。」 自分が絵を描きつづけているのは、弟が描かせているのです、という。 (村上泰賢) |
弟の死 横手由男 文学を愛した弟は南の雪降る峰の敗走作戦で死んでしまった。23歳の独身のままで。小学校中退で東京築地の印刷店員として上京したのは家が貧しかったからである。弟と私は故郷の庭で、白い山茶花(さざんか)の花の木の下で遊んだ。大陸の戦場から帰還して庭をみた。白い花の姿はなかった。防空壕の真上にあって枯れて死んだのだ。弟も帰ってこなかった。……略……。白い山茶花は私と弟の思い出深い宝の花だった。 白い花の木を植えて弟が帰るのを、今でも私は待っている。 詩碑を刻み弟を偲び、今でも弟の還りを待っている私である。 *雨さんのアトリエは【白い花】と名付けられ、表札には弟勇二さんの名もあった。「いつ帰ってきてもいいように」とのことだった。 *この詩碑は山茶花の花びらに似ている形から決めた、と語っていました。 |