雨さん   画業  無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅう むじんぞう)


画 業 無一物中無尽蔵    
                 なんでも絵筆、なんでも絵の具
 


なんでも絵筆
「あ、お母さん、そのナスちょっと貸してください」
画展の本堂の縁(えん)から、雨さんは畑からザルを抱えて戻ってきた母に声をかけた。ナスを受け取ると細いヘタの先に墨をつけ、色紙にむかうとたちまちすてきな女性を描いた。持ち替えるとこんどはナスを握って、紫色を髪飾りのようにこすり付けて、女性の絵がたちまち出来上がった。


なんでも絵の具
「これはねえ。この石仏に付いていたコケをこすりつけたのですよ。まわりの茶色は、足元の土をこすりつけたのです。」
それは石仏の絵だった。どうりで、ずいぶん不思議な色あいの緑が使われている、と思った。

どうしてそういうもので・・・?、とたずねる私に
「私は絵だけで食べてゆこうとしたら、お金が入らなくなって、とうとう絵の具を買えなくなってしまった。絵の具がないと絵がかけない。困った、と思っていたら、あるときふと気がついたのです。石仏のコケも、足元の土も、まわりに咲いている花も、草の葉っぱもみんな絵の具じゃないか・・・と。それから自由に絵が書けるようになったのです。」

石 仏   「これは、本堂の裏手のふろしきを背負った観音さんのそばの、小さくていい石仏で・・・」
雨さんはそういうが、そんなのあったかな、と私はあわてる。

こっそり見に行ったらたしかにあった。雨に打たれ、土が跳ね上がってこびりつき、毎日見ていたって見過ごしてしまうようなありふれたものだ。それが雨さんの眼にはきちんとした姿の観音さんとして目に入り、実際にそのとおりに描き出される。
「私はそのもののとおりに描こうとは思いません。そのものの心を描きたいのです」という雨さんの言葉がうなずける。 

「無一物中無尽蔵」という言葉が禅語にある。何もない(と思える)中に、じつは限りないたくさんのものが詰(つ)まっている、それを見つけ出せる人は無限の宝を得ることができるし、努力も工夫もしない人は何も見つけられない。雨さんの画業はまさにこの言葉の実践と思えた。

倉渕中学校にAET(英語指導助手)としてアメリカから来ていたとびきり美人のエリザベスさんが画展にやってきた。雨さんがつかまえてモデルにして描いた。仕上げに境内の土をこすりつけると、たちまちあざやかなブロンドになった。「日本でいちばんの思い出の品・・・」とリズさんは大事そうに抱えて帰っていった。
                  (村上泰賢)