小栗上野介の業績 ●● NHK・その時歴史が動いた 「改革に散った最後幕臣 小栗上野介」 |
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改革に散った最後の幕臣 小栗上野介 <一本のねじから日本の近代は始まった> |
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NHKではじめてまともに取り上げた―小栗上野介の業績 |
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これまで1860萬延元年の遣米使節の渡米経験による成果は、日本の歴史から抹殺され、咸臨丸の話だけがスポットを浴びてきました。そして私たちは「日本の近代化は明治以後から」という教育を受けてきました。 | |
この番組画放映されて、多くの方が驚いたのは、 ・遣米使節小栗上野介が、渡米経験を生かして帰国後に取り組んだ横須賀造船所の建設がその後の日本の工業化の基となり、日本海海戦の勝利にも貢献していた、ということ。 ・東郷平八郎が、明治45年に小栗上野介の遺族を招いて「日本海海戦で完全な勝利を得ることが出来たのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ…」と礼を言ったこと。 (そのとき記念に贈った「仁義礼智信」の書額が現存するということで、「東郷さんの書は…」と寺をたずねる方が増えました) ・小栗上野介が持ち帰ったアメリカ土産のネジ釘が残っていること。 (ネジ釘が珍しいからお土産にしたのではない。日本を、こういうものをどんどん生み出す国にしたい、という彼の意志のシンボルとして放送され、これまた「ネジ釘を見せてほしい…」という方が多くなり、いっぺんに有名になりました) |
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ねじクギ 小栗上野介が日本を、こういうものをどんどん作れる国に変えたいと持ち帰った、欧米近代文明のシンボル。 東善寺蔵 |
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・横須賀造船所建設の発想の基となったのは、ワシントン海軍造船所見学にあったこと。見学直後の記念写真はこれまで「アメリカ上陸後の記念写真」程度の説明で片付けられてきました。この番組がきっかけとなって、写真説明も変わってゆくことでしょう。 ・小栗上野介は殺される数日前まで、水に困っていた権田村の小高集落のために水路の測量をしてやっていたこと。その小高用水はいまも部落を流れ、うるおしています。 NHKがこのような視点で、遣米使節小栗上野介の帰国後の業績を正面から取り上げたのははじめてですから、『その時歴史…』ファンが驚いたのでしょう。 |
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ほかの業績も 今回は横須賀造船所の建設に焦点をあてた「その時」でした。小栗上野介の業績はこのほかにもたくさんありますので、これ以外の面にも焦点をあてて、日本の近代化は幕末に始まっていた、という認識を多くの方に持っていただくことが、大切だと思います。 |
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本 | |
『その時歴史が動いた』18 表紙の左上・小栗上野介は村上照賢前住職制作の肖像画です 2003平成15年2月発行 KTC中央出版 1600円+税 |
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【担当ディレクターの取材ノート:田畑 壮一】から抜粋 | |
・・・・・・・・・ 小栗ゆかりの地のもう一つが、番組でも紹介した権田村である。・・・そこには、当時小栗が見たであろうそのままの田園風景が残っている…。 当時の人が見た風景を現代日本でそのまま見られるというのは、そうあるものではない。川魚が豊富で、人々が農作業の合間にキノコ狩りや山菜採りを楽しむ、大変に自然豊かな土地である。・・・ 小栗はなぜか生涯この村を愛し、この土地の人々を愛して、アメリカ旅行にも権田村の村人を同行させ、見聞を広めさせた。…至れり尽せりの歴史名所よりも、小栗が当時見たままの自然を見ることができる倉渕村は、とても新鮮に思えた。 番組で小栗が測量した用水路を撮影するために、山奥の源流に案内してもらった。 数日前に降った雨で泥がたまり、用水の源流は濁っていたのだが、「撮影するのに、これでは小栗様に申し訳ない」と、村の人は懸命に泥を掻き出してくれた。いまでも小栗を心から慕う、そんな人々に接することができるのも、倉渕村の大きな魅力である。 |
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【この番組の誕生・ウラ話:村上泰賢】 | |
NHKでは「小栗上野介を大河ドラマに…」という小寺群馬県知事・澤田横須賀市長・阿久津倉渕村長の要請(平成11年9月24日)を受けて、平成15年正月時代劇『またも辞めたか亭主殿』として取り上げることになった。前年2月ごろから制作スタッフがよく取材に来るようになった。 いろいろな質問や資料に答えているとき、ふと思いついて 「せっかくドラマを作ってくれるのはありがたいけれど、いきなり小栗上野介を放送しても全国的にはほとんど知られていないから、その前にもう一つ番組を作ったほうがいいのではないですか」と、チーフプロデューサー木田さんに言ってみた。 「もう一つって何ですか」 「NHKでやってるいい番組『その特歴史が動いた』ですよ。あれでまず小栗上野介の業績を放送したら全国の歴史ファンにいっぺんに知られて、それからドラマの成功につながります」 「ハア、…そうですね。でも……、あの番組は、実は大阪放送局で作っていまして、東京からは企画を送るだけなんです」 「そうなんですか。ぜひ何とかしたほうがいいですね」 「実は…、私はこのあいだまで大阪放送局にいまして…」 「なんだ、それじゃ話が速いですね(笑)。ぜひ実現させてください」 間もなく半月ほどして「NHK教養番組部ですが」と田畑さんから電話が入って、取材が始まった。 |
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■NHK「そのとき歴史が動いた」 |