作家が見た倉渕村随筆・小栗上野介と倉渕村

随 筆 小栗上野介と倉渕村


佐藤 雅美 (さとう・まさよし)
 作家。1941年生まれ。早稲田大学法学部卒。『大君の通貨』で新田次郎賞受賞。94年に『恵比寿屋喜兵衛手控え』で直木賞受賞。主な著書に『居眠り紋蔵』『八州廻り桑山十兵衛』など多数。
□2004(平成16)年5月の小栗まつりで「小栗上野介がアメリカでしたこと」を講演。
□この文章は月刊『自由民主』平成16年7月号に掲載の随筆です。カット写真はこのページで入れました。


 群馬の北部に倉渕村という村がある。幕府の「幕末の三傑」といわれている小栗上野介忠順終焉の地だ。
 幕府官僚の重鎮とでも言うべき存在だった旗本小栗忠順は幕府が倒れるとすぐ、地行所のひとつである倉渕村の権田村という在で悠々自適の生活を送ろうと家族と共に引き移り、新生活をはじめようとした。そこへ官軍がやってきて、問答無用と首を刎ねた。倉渕村では小栗のこの非業の死を悼み、毎年五月に慰霊祭を催している。

 大名や旗本と知行所の者とは利害が相反する。搾取する側とされる側だ。基本的に両者の仲はよくない。知行所の者は大名や旗本のことを腹の中では面白く思っていず、御一新を迎えると、いっせいに白い目を向けたもので、加賀とか薩摩とか支配領域が広かった地域に住んでいる人はともかく、旗本の知行所に住んでいる人だと、誰がそこを支配していたのかなど知る人はまずいない。だから、たとえその地で小栗が死んでいようと、倉渕村が毎年、そこを知行所にしていた小栗の慰霊祭を催しているというのは異例といっていい。
 その倉渕村から5月23日の日曜日に、「小栗136年祭」を催します、小栗についてなんでも結構です、語ってくれませんかと講演依頼があった。

海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏

平成16年「小栗まつり」

 小栗忠順についてはむろん早くからざっとだが人となりを知っていた。興味を持ったのは小栗が家計簿をつけていたと知ってからだ。そうか。2千5百国(のちに2千7百)ものち業鳥だと、やりくりを主婦である奥方に任せておくわけにはいかないのだ。それで、小栗が自身でつけていたとして、旗本の生活というものが家計簿から読み取れないものだろうか。

 こう考えてコピーを入手し、当時は暇だったから、何日か小栗の家計簿と睨めっこした。予想したとおり、家計簿からいろんなものが読みとれ、そのことがきっかけで小栗という人物に興味を持つようになり、十年ほど前に一般参加者として「小栗まつり」に顔を出し、小栗の墓がある東善寺の住職村上泰賢氏ー小栗を敬愛すること一通りではない人だーに小栗の話を聞かせていただいたりした。

小栗上野介は武断派であるが経済通でもある。小栗を主人公に小説を書くとすれば勢い経済に踏み込まねばならない。出版社はしち難しいのを敬遠する。連載というわけにはいかない。書き下ろしとなると辛いなあ(原稿料が入らないからだ)、というわけで、いずれは小栗を主人公に小説を書くつもりではいたのだが、とっかかれずにいた。
 そんなところへ、三年ほど前、社団法人全国社会保険協会連合会の広報の人が「社会保険」という雑誌を出しております、長期にわたっても結構ですからなにか小説をと連載依頼があり、この雑誌なら少々難しいことを書いても許されるだろうと、毎月十枚、5年で600枚というのをめどに連載をはじめた。

まつりの準備

ボランティアが大勢
駆けつけて準備を進める

 ちなみにこれは余談だが、社団法人全国社会保険協会連合会という組織は年金関係の組織であるらしいというのを「未納」が話題になって知った。それまでは、役所がらみの組織らしいと思ってはいたが、どんな組織か知らなかったし知ろうとも思わなかった。これも余談だが、年金のことはずっと念頭になく、昨今話題になってあわてて、あちらこちらと駆けずりまわっている。

 倉渕村の東善寺の住職村上泰賢氏は小栗のこととなるととても目配りが行き届くお人で、私が「社会保険」で小栗上野介の連載を始めたことをすぐに嗅ぎつけられ、それやこれやがあっての講演依頼となり、お引き受けして出かけていったという次第だが、「小栗まつり」は村長さんをはじめ村を挙げての催しで、村の人もまたこよなく小栗上野介のことを敬愛している。それが私のような訪問者の心にもひしひしと伝わってくる。

墓参

小栗父子と家臣の墓にたくさんの線香が供えられる

 小栗は非業の死を遂げたが、村の人たちはいまにいたるもその死を悼み、かつ敬愛しつづけている。いまどき珍しい光景がそこにあるのだが、このことは決して偶然ではない。小栗は敬愛されるにふさわしい人物だからいまにそうなっているので、そんな小栗をどうやったらうまく書き上げることができるか、なにか重い課題を背負わされたような気がして家路についた。