HP東善寺 〉小栗上野介    トンデモナイ岩波文庫 「小栗上野介の話」                        


 
 トンデモナイ岩波文庫 
ー『德川制度』下ー
 
「小栗上野介の話」
 
  
 西軍(明治政府軍)が無実の罪を着せて小栗上野介主従を殺害したため、以後の明治政府は小栗上野介の業績を表に出さないだけでなく、「殺されて当然の逆賊」として扱ってきた。ここに紹介する「小栗上野介の話」は
『德川制度』下  として岩波文庫に納められているから現在でも購入できる。

・明治25~26年に『朝野新聞』に連載された江戸話の一部で、「小栗上野介の話」は明治26年10月19日付で掲載された。

◆読んでみるとあっけにとられるほど、ひどい講談調の小栗上野介の話になっている。しかしこれを読んだ当時の人々は上州権田村の情報など容易に得られない時代であるから、かなりの人が活字を信用して、この文章を信じたことだろう。まともに読むに値しないが、当時の小栗上野介逆賊説(殺されて当然の有罪説)を吹聴した証明史料として掲げる。

 
                     
 【この文章、小栗上野介の話はタイトルや見出しはなく、下記のように小栗上野介とは無縁の大垣藩門前の話から始まっていて、初めからめちゃくちゃな出だしとなっている】

 「ここは大垣藩の本営本郷三丁目真光寺の門前に彳たたずみ 、「德川慶喜叛逆の罪状明白に付き、朝廷においてもやむを得ず追討仰せ出だされ、万民塗炭の苦を救わせられ、云々」と大書したる高札を読みて、暫くは長嘆したりしが、大丈夫、あに主家の滅亡を余処に見るべけんやと憤激一番して、有志数十名を語らい、
    
  【ここまでが小栗上野介とは無関係な大垣藩門前からトンデモナイ話がはじまり、以下に続く…】
 
 
旧領地上州群馬郡権田村に赴き、官軍に抗したる御勘定奉行小栗上野介〈忠順ただまさ〉(二千五百石)は、しばしば高崎藩より方向を誤るまじき旨の説諭を受けたれど肯かず。

「われら父子命を失うは覚悟の前なり。今内に兵糧・兵器の備えなく、外に援けの勢なければ、数万の官軍に当たらんは実に蟷螂の振舞なれど、主家の滅亡見るに忍びず、もとより烏合の衆なれども、官軍に一矢参らせ、潔く討ち死にの覚悟なれば、御説諭に応じ難し」と答え、なおも脱走の士を集めて軍備を整え、官軍の来襲を今や遅しと待ちかけたり。

 時に慶応四年(一八六八)四月朔日、東山道の総督岩倉〈具定〉殿の命に依り、官軍高崎・安中・小幡三藩の兵五百余騎を以て、三倉駅より権田村に押し寄せたるに、かねて期したることなれば少しも騒がず、渦まきたる如き大勢の中へ、わずか百余の烏合の勢、喚おめき叫びて蒐かけ入り、右に突き、左に撞き、勇を振るって戦いたれど、大村・大垣の兵後陣より裏手を遮り、一人も余すまじと山の崩れ来りたる如く駈り立てられければ、小栗勢は遂にみずから権田の本営に火をかけ、川浦村に退き、碓氷の山際に沿うて信濃路に落ち行かんとせしに、黒雲地を裹つつみ、俄に大雨車軸を流し、衣を湿ぬらし、肌を透し、ことに前日の霖雨にて泥深く、馬の蹄立て難くして進み得ざるより、路傍の竹木を切り取り路を造りたれど、いずれも饑え疲れて困難を極めたる折柄、大垣の勢に行く手を遮られ、進退窮まりて、遂に上野介また一父子は大垣の手に生捕られ、同月三日権田村の河原において斬首せられぬ。

 以上太字の地名と人名が正しいだけ、あとはすべて救いようのないデタラメな物語】
 ◆語注:蟷螂の振舞・・・カマキリが抵抗するようなもの

 ◆校注・加藤貴氏となっている。しかし注を見ても小栗上野介の一般的な業績紹介だけで、このデタラメな内容についての校合はない。なぜ一言も内容の真偽に触れないのだろう。
 ◆これ以下の本文は少し信用に足る小栗上野介の千川上水活用による滝野川大砲製作所、遣米使節、横須賀製鉄所、仏語伝習所などの業績について書かれているが、ここに引用は省略する。
 ◆掲載した『朝野新聞』は明治政府の招請を拒んで仕えず、在野で政府批判を展開していた旧幕臣の成島柳北が明治7年から主筆となり、数年に亘って明治政府とは別の政府像を求めた論陣を張っていたこともある。